福永妙子さん(2024年3月14日)
基本情報
1) 話し手:福永妙子
2) 聞き手:杉浦郁子
3) インタビュー実施日:2024年3月14日
4) 実施場所:東京都内の貸会議室
5) インタビューで話題になったこと:
『レズビアン もうひとつの愛のかたち』/新宿二丁目/ホモバー/若草の会/伊藤文學/出版業界/ライターの仕事/ウーマンリブ/学生運動/1970年代/京都/1980年代/東京
6) 形式:音声/文字
7) 言語:日本語
8) データ公開および共有の区分:文字を公開(public)/音声を非公開・非共有(private)
内容
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インタビュー
【大学時代】
杉浦:それでは、よろしくお願いいたします。最初に何年生まれかということを教えてください。
福永:1955年、昭和30年です。
杉浦:職業はライターということで。
福永:はい。フリーのライターですね。
杉浦:フリーのライターの仕事に就くまでの経緯を簡単に教えてください。
福永:山口県で生まれて、山口県の県立高校を出まして、最初に京都女子大学に入りましたが、夏休み前に休学届を出し、翌年、立命館大学に入り直しました。高校が女子高だったので、やっぱり共学がいいな、と思ったんです。当時、立命館は、私大の中でも学費が安かったですし。
杉浦:下関の実家を出て大学に行くことについては、ご家族の反対はなかったですか。
福永:それはまったく。父は私が大学の4回生のときに亡くなったんですけれども、進学を親に反対されたことは一切なかった。うちのいとこたちは地元の短大か、高卒で就職だったので、親としては本当は地元の短大か、せいぜい広島にある女子大ぐらいと思っていたらしいですけど、私が京都の大学行くことは、一切反対なし。
京都の大学を選んだのは、3つ上の兄が東京の大学に通っていたので。私はひとり暮らしをしたかったから。経済的なこともあって、東京に行ったら兄と一緒に住めと言われるでしょう。とにかく私が京都の大学に行くということは、一切反対はされませんでしたね。
杉浦:1972年から73年のころですかね。
福永:73年ぐらいですかね。
杉浦:女子の進学率はそこまで高くなった頃ですか。
福永:今より低かったし、女子は4年制より、短大進学のほうが多かった印象です。私が行っていた高校は、下関南高校という県立の女子高で、8割ぐらい進学でした。クラスも私立文系コース、国立理系コースというふうに分かれていて、女子高だけど進学校。だから、就職するという発想はなかったですね。
杉浦:休学は夏休み前に自分の判断で。
福永:夏休みはアルバイト。清水坂のお土産物屋さんでアルバイトしたり、京都のデパートのバラエティショップみたいなところでアルバイトをしたり。清水坂のお土産物屋さんではけっこうずっとアルバイトをしていましたね。そうして、翌年の2月に受け直して、立命館に行きました。とにかく共学の学校に行きたかった。
杉浦:学部は。
福永:産業社会学部。当時は、まだ日本の経済が今みたいに停滞していない。上昇していた時代で。
杉浦:まだ高度経済成長。
福永:いや、終わって、安定成長期に移っていた頃じゃないでしょうか。
それで、立命館に入って、産業社会学部に行って、私は大学を4年で卒業せず5回生まで行ったんですね。なぜかと言うと、うちの大学の場合ですけど、その当時はみんなわざと留年していたんです。というのも地方の私大って就職は厳しくて、とくに女子なんて雇用機会均等法なんてまだまだ先の話で全然求人がないので、私の周りはみんな公務員か学校の先生になると。私は教師になるつもりはなかったので、教師の資格も取っていなかったし、先のことを何も考えてなかったんですけど。
4回生のときのゼミは、女子が3分の1、男子が3分の2ぐらいの構成だったのかな。ゼミの男子は半分近く、わざと留年するんですね。女子も私以外にも何人かわざと留年した。男子の中には留年するつもりだったのに、「ちくしょう。計算していたのに単位が1個多くて、卒業になっちゃったよ」って、就職活動をしていないにもかかわらず卒業になったから、逆にあたふたしてる、というぐらいにわざと留年する人が多かった。“留年”というものにこだわりなく、むしろ、学割がいろいろ使えるし、学生でいたほうがいいや、とか。まだ学生運動の余韻が残っていたのもあって、大学には7回生、8回生という人もいたし、私も意図的に留年しました。就職活動を一切せずに。わざと単位を落として5回生まで行って。
でも、さすがに5回生になったら何とかしなくちゃいけないというようなときに、東京で就職した友達がいたので、東京を行ったり来たりしていました。その友達から「女子社員を探しているみたいよ」と人を紹介されて。「会社の入社試験とかではなくて、ちょっと会ってみる?」って。それで、製薬会社の総合企画室の当時まだ30ちょっと過ぎぐらいの男の人と会って、「あ、うち来る?」という感じで、製薬会社の総合企画室に勤めることになりました。今では考えられないんですけれども。
杉浦:何年頃でしょうか。
福永:1955年生まれで、24歳で卒業したから、1974年に。
杉浦:大学入学がそれくらいですかね。
福永:そうですよね、1979年に上京か。
杉浦:それで、就職。
【上京、就職】
福永:そうですね。確かまだ京都でアルバイトをしていて、夏に上京しました。日本橋の地下鉄を上がったすぐのビルの中に会社があったんです。製薬会社の総合企画、広報とか宣伝とかの部署ですよね。そこに夏に入って、翌年の3月にはもう辞めました。
その製薬会社というのは、女子社員はみんな自宅通勤。コピーを取って男子社員の補助をする。当時の典型的な女子の仕事なんですけれども、自宅以外から通っていたのは、私とあと1人いたかな。あとはみんな自宅。
私は、京都のときのゼミ仲間の男の子が渋谷のバーでアルバイトをしていたんで、京都時代からの女友達とよくそこに遊びに行っていた。会社の女子社員にそういう話をすると、みんな驚くわけです。「渋谷に1人で行くの?」って。そういうスナックに行ったことがないと。「連れてってくれる?」と言われて、連れて行きました。
また、仕事終わりに「帰りにどっか行かない?」って言うから「じゃあ、チェーン店の居酒屋、あそこに行かない?」と言ったら「え、怖い」とか言って。日本橋だったので、サラリーマンがよく行く居酒屋がいっぱいあったんです。でも、帰りに皆さんが行くのは喫茶店なんですよ。私が居酒屋に行くと言ったら「え、連れてってもらえるの?」と言うぐらい。そこに行ったら「こんなところ、初めて来た」って。そういう時代なんですよ。40数年前って。
私は京都で女同士でもよく居酒屋に行っていた。まぁ京都は、石を投げたら坊さんと学生に当たると言われるぐらい、学生が多いという点で特殊な土地柄だったと思うんですけど。でも「おうちから通勤して、結婚して、家庭に入る」というのが当たり前の人たちがいる職場で、私は変わり者と思われた。
暮れになったらみんなが「お正月どうする?」って。何の話かなと思ったら、仕事始めに毎年恒例で着物を着ていくと。私はびっくりして「いやいや、着物なんて持ってないし、何で着ていくわけ?」って。そういった会社では、女子社員は着物を着て、「今年もよろしく、しゃんしゃん」ってお屠蘇(おとそ)を注いで回るのが当たり前だったようで、「福永さん、どうする? 着ていくでしょう」と当たり前のように言われた。「いやいや、その日は仕事をせずにしゃんしゃんで終わるんだったら、私は行かない」「美容院代とか特別手当も出ないんでしょう」。しかも、ものすごく混む銀座線なんですよ。「それなのに着物着ていくわけ?」と言ったら「うん。毎年それでやってる」って。でも、その年はなくなったんですよ。「福永さん、着ないんだって、どうする? 面倒くさいしやめようか」ということでなくなった。
杉浦:その年はなくなったんですか。
福永:はい。その類いの話でいうと、兄と私はほんとに仲が良かったのですが、その兄と数少ない言い争いしたのがこの件なんですよ。
兄の会社では女子社員は絶対に自宅通勤なんですよ。募集のときに「自宅通勤」って書いてあるんですね。私が東京でひとり暮らしをしていたら、兄に「生活が乱れるんじゃないか」って言われたから、「何で乱れるわけよ」。私が京都時代、どれだけ自宅から通っている女の子のアリバイ作りをしたことか。だから「自宅通勤イコール真面目ということじゃないよ」と言うんだけど。
今だったら差別ですよね。考えられないと思うんですけれども、そのときは大きい会社ほど自宅通勤が条件だった。つまり、社内の男子社員と結婚して、仕事のことも理解していて、寿退社をして家庭を守ってもらう。兄の会社は海外転勤も多いから、転勤にもついていく。そして、兄の会社もご多分に漏れず、お正月は着物を着ていく会社なんですよ。「これ恒例だよ」「恒例って言っても手当は出るの?」「出ないけど、女子社員も喜んで着てくるよ」「何? それ」って。そういう時代だったんですよ。だいたい大きい企業は短大卒で自宅通勤というのが、女子社員の求人の条件。
ただ、学校とか地域によっては違ったかもしれないですね。私の友達に同じ世代なのに20代、30代で係長に昇進した人もいますからね。だから、地域とか大学とか会社によっても違うとは思うんですけど、でも、当時は民間の大きい会社ほど自宅通勤。会社の中でばりばりやってほしくない。コピーを取ったりする補助的な作業。45年ぐらい前は、そういうのが普通だった。
【フリーのライターになる】
福永:それからフリーのライターになるとこですよね。
杉浦:そうですね。3月にお辞めになったのは、やっぱりちょっと居心地が。
福永:さっき言ったみたいな状況もあった。東京の友達が編集プロダクションでライターをしている彼と付き合っていて、「会社に毎日行かなくていいなぁ」「満員電車に揺られて9時5時の仕事をしなくていいんだ」という安直な選択でした。
彼を通してフリーのライターという仕事を知って「自分の家で原稿書いたりできていいな」と思った。お勤めじゃなくていいなと思っていたところに、ちょうど新宿にある編集プロダクションの募集があって、ここに行こうと思って、辞めたかたちです。
杉浦:編集プロダクションに所属することになるんですか。
福永:そうです。そこの社員になった。辞めたのが先だったのか、そこを受けたから辞めたのか、その辺が定かじゃないけど、いずれにしてもライターの仕事は気ままでいいなと思って辞めました。
杉浦:実際のところはどうだったんですか。
福永:そこで初めて取材をして原稿を書きました。私とあと3人ぐらいの少人数のプロダクションで、ボスが女性でした。そこは1年ぐらいしかいなかったな。
杉浦:そこのお仕事をしながらライターとしてのノウハウを。
福永:そこで初めて、取材して原稿にまとめるというのをひと通り経験しました。それまでの製薬会社の総合企画室というのは、せいぜい社内報とかPR関係をちょこっとやるぐらいで、取材して原稿を書くところまでいかなかったですから。
そこは何で辞めたんだろうな。やっぱり小さい編集プロダクションだから、人間関係がうっとうしかったのかな。取材してまとめるというのも、だいたいこういう感じかと思っていたところへ、知り合いの知り合いから話が来た。「こういう雑誌のライターの仕事をやってみたい?」って。それで「フリーになっても大丈夫じゃない?」と思って、フリーになった。自分の力じゃないんですよね。講談社の『ヤングレディ』『ViVi』、京橋にあった「主婦と生活社」の雑誌『ジュノン』、あとは広告。経済的にいい状況だったので、いろいろな会社のPR雑誌だとか広告関連の仕事とか、知り合いの知り合いを通じて話がどんどん来るようになって。
【新宿二丁目のホモバー】
福永:そのころは若くて元気だったので、よく飲みに行っていました。編集プロダクションが新宿6丁目にあったんですけれども、靖国通りを越したところが新宿二丁目、向こうが御苑前。そのあたりに、もともとフリーの人たちとよく行っていたお店があって。フリーになって間もない頃、よく行く店にレズビアンのカップルの常連さんがしょっちゅう来ていました。ヒロコさんという男のマスターが1人でやっているお店で、そのヒロコさんが「彼女たち、しょっちゅうけんかしてんのよ、ここに来ちゃ2人でいっつもけんかよ」みたいなことを言って。
杉浦:そこはいわゆるホモバーみたいなところなんですか。
福永:いや、お客さんはいろいろなんです。
杉浦:ヒロコさんが女装。
福永:女装もしてないんです。
杉浦:オネエ言葉を使う。
福永:すらっとしたすごい格好いいお兄さんだけど、言葉はオネエ言葉。お客さんも、だから。
杉浦:ゲイ男性もいれば、一般の人も。
福永:私たちのようないわゆる“ノンケ”の人のほうがむしろ多かったかもしれないね、そこは。
杉浦:そこにレズビアンのカップルがいて。
福永:そうそう。
杉浦:よく派手にけんかをしていて。
福永:「また来てる、あの人たち」って。私は仲良いお友達同士で来ているのかなと思ったら、ヒロコさんが「あのふたり、付き合ってるんだよ。よくけんかすんのよ」って言うんで「レズビアンなんだ」と。
二丁目あたりにはいろいろなお店があって、ゲイの人がほとんどのお店もあります。本当に恥ずかしいんだけど、私、本のなかで「ホモバー」っていっぱい書いてましたね。「ゲイ」ではなく……。
杉浦:当時はそう呼んでいましたから。
福永:たとえば、あるお店は中年の太ったオネエ言葉のおじさんのゲイの人と、あと男の格好をしたオネエ言葉のスタッフの人が2人ぐらいいた。みんな男の格好なんですよ、お客さんも一般の人も。ゲイバーになぜ一般の人が行っていたかというと、面白いんですよ、話が。口は悪いけど楽しませてくれる。
杉浦:ゲイオンリーというお店じゃなかったんですね。
福永:行きやすいんですよ。1人で行ったこともあるし、「あら、あんた、暇ね」みたいなことを言われて楽しく過ごせる。すごく楽しいお店がいっぱいあったんですね。完全に男の人しか入れないところは、私は行ってないのでわからないです。垣根なしに、みんながよく行っていたお店が二丁目とその周辺には当時たくさんありましたね。
杉浦:70年代の後半ぐらいの話ですかね。
福永:そうですね。私が20代半ばから後半ぐらいですから。
あと、今と違うなと思うのは、あの当時は、仕事が終わってよくみんなで飲みに行ってたんですよ。二丁目だけじゃなくて、ゴールデン街にもしょっちゅう行ってました。ゴールデン街にフリーの出版関係の人もいっぱい来ていて、飲んでいる途中で歌舞伎町の美容院に行って、髪を切って、また戻ってくるとか。今の若い人たちはまた別の楽しみ方があるんでしょうけど、当時はやたらと酒場に行く。他の出版社の人ともそこで顔見知りになったり。やっぱり昭和ですよね。昭和のあの時代ならでは。
今ふと考えたら、私、新宿のその界隈にここ数10年、足を踏み入れていないです。
【『レズビアン もうひとつの愛のかたち』】
福永:新宿は、出版社関係のフリーランスがよく集まっていたんですね。そういう人とのつながりで仕事も増えていった。
フリーになって間もないときによく行っていたお店にレズビアンのカップルがいて、よく一緒に飲んでいたフリーのカメラマンが話を聞いているうちに「面白いね」「これちょっと本にしたらどう?」って。彼が出版社の編集者に「本にしたら」ともちかけて、「福ちゃん、これ書いてみたら面白いじゃん」って。書くんだったら女性がいいというんで、私もフリーになったことだったし、「えっ、本になるの?」と話を受けました。
レズビアンのことについてはまったく白紙の状態。取材の窓口はよくけんかをしていたカップルで、「友達、誰か紹介して」というふうに膨らんでいったんだと思います。「若草の会」を知ったのも、その彼女たちからの情報かな。編集部のほうで調べてくれたのかな。それを忘れちゃったんだけど。
杉浦:いろんな人に会ってますね。
福永:ねぇ。「私、いっぱい取材してたな」って、今、40何年かぶりにあらためて本を読んで思いました。レズビアンのことはまったくわからなかったので、とにかく聞くしかないと思っていろいろな人に聞いたんだと思います。「若草の会」も「ここを聞かないと話にならないよな」というんで行ったんだと思います。「蒲田」という住所を(本で)見て、「そういえば蒲田の集合住宅に行ったことあるよな」と思い出しました。ただ、どういう話をしたか、まったく覚えてないんですよね。
「月に1回レズビアンの人たちが集まる会がある」ということで取材に行った。でも「とにかくみんなすっごく敏感で、神経質になってるから、絶対に取材って言っちゃ駄目よ。自分がストレートであるっていうことも。とにかく言わないでね」とくぎを刺されたことは思い出しました。だから、ひたすら「うーん」ってみんなの話を聞いているだけだった。
本の中にも書いてありましたけど、「あんたは依存してるのよ。結婚生活に」って主婦の方たちを糾弾する場面に遭遇して、「えー、けっこう怖い」と思いながら聞いていました。「若草の会」には、結婚している人たちもいたみたいですけれども、「結婚というところへ逃げている」という見方があったり、一方で、結婚してる人は「そうは言っても、結婚してうまくやれると思ったけど、やっぱりどうしても駄目だからこっちに来てるのよ」とか、それぞれに言い分があったり。私は予備知識も何もなく、とにかく聞いてみようということだけで、一生懸命聞いていました。
杉浦:当時は今よりも偏見もあったと思うんですが、その中で福永さんがフェアな記述をしているという印象があります。
福永:もともと「レズビアンがこうだから」というのもまるでなくフラットな状態。素直に「大変なんだな」ということのほうが多くて。私のレズビアンのイメージというのは、母親世代の女学校の「エス」。シスターの「エス」です。そのぐらいしかなかったんですよ。
構成も文章を書くのも私がやったんですけど、主導したのはフリーのカメラマンと編集者。出版までのスケジュールも決まっていました。私も、レズビアンのことだから性愛的なことも必要だと思って、文章にしました。そうしたら、今度は写真を撮りに行くと。ラブホテルを借り切ってモデルさんに2人ほど来てもらって写真撮影すると。企画を主に進めてきたのがカメラマンと編集者でもあったから、私はまったくそこに参加してないんですよ。「撮ってくるから」「そうですか」みたいなかたちで。
そして、ゲラを見たときに「え、こんなん」とびっくりした。表紙を見て「え」って。グラビアも絡みの写真にページが割かれている。「何かこれってちょっと違う」「せっかく一生懸命取材したのが何か違うテイストになっちゃう」という気がして、すごく後味が悪かった。でも、何も言えない。自分の名前で本を出すのに責任感がなかったと思うけれども、駆け出しのペーペーだったし、出版も走り出していた。「もしかしたらこれ、男の人用?」と思ったり、「いや、もしかしたらレズビアンの人もこういうページを求めているのかな」と思ったり。いろいろ考えたんですけど、とにかく編集者いわく、「売るためにはこういう見せるページがいる」と。
「この本は、おっさん相手かい」と思いながら、私としては、何か納得いかない。「性の部分は大事だけど、ちょっとこういうのは違うんじゃないの?」という思いがあるから、納得がいってないんですよ。ライターになって、せっかく本になったのに、「何かちょっと違う」という思いをずっともっていたんだと思います。
杉浦:そうですね。やっぱりあそこだけ浮いてるんですよね。
福永:浮いてる。だから、私もゲラを見たとき「えっ」と思った。せっかく一生懸命書いたことを覆す感じがしたので。文章の中で「女性同士のセックスはこうだ」というのはいいと思うんだけど、あのページになったら「これ、ポルノの写真集かい?」という感じになる。
杉浦:そうですよね。本の最初では、「レズビアンとひとことで言っても、みんなそれぞれ置かれている状況も違えば、生き方も異なる」「なるべく多くのレズ女性に会うことによって、たとえば誤解や偏見の部分が明らかにされてくるのじゃないかと思った」「これまでのような男性の立場に立ったレズビアンの報告や、性風俗の一面として興味本位でとらえたものではない、ナマのレズビアンの実情を追ってみることが、今必要だという気がするのである」と書いている。
福永:だから、あのページで色物になっちゃったと感じた。当時の私はそれをゲラの段階で初めて見たんだと思う。写真を撮るということは聞いていたけれども、あんな写真とは思わなかったから。穏やかな2人のイメージ写真ぐらいかなと思っていたら、すごく過激だし、しかも具体的なセックス・テクニックを書いていて「こういうことにこんなにページ割く?」って。あの写真に付いている解説文も私じゃないんですよ。
杉浦:そうなんですよね。そういう感じは本当にする。
福永:私、不本意なグラビアのページがあったから、本ができてもよく見てないんですよ。できあがったものを。表紙も納得いかないという思いがあって、自分の名前を冠しているのに不満足で。
杉浦:そうだったんですね。
福永:著者としてね、本当に今だったらすごい無責任と思うんだけれども。真ん中のグラビアが台なしにしているんですよ。
杉浦:そうですね。そうだったんですね。カメラマンが撮っていた。こういう構図のレズビアンポルノが当時はあふれていて、そういうのから適当に引っ張ってきたのかと思っていたんですけど。
福永:違うんですよ。
杉浦:わざわざ。
福永:撮ったんです。この企画を進めていたフリーのカメラマンが撮っているんです。編集者とカメラマンがラブホテルを予約して、モデルさんを連れていって。ゲラの段階で見ても、もう進行は止められない。セックスの部分を扱うにしてもちょっとテイストが違うんだよな、という感じがした。だけど、編集者いわく、「本として出すにはこのページがないと。売ることを考えたら、このページがないと駄目なんだよ」と言われたのを思い出しました。
杉浦:ここだけ男性視点なんですよね。
福永:そうそう。
杉浦:そういうことだったんですね。
福永:だから、余計にこの本に対しては、「うーん」という複雑な思いがある。一生懸命取材したのに、テイストを変えられちゃった。
杉浦:あと「若草の会」の代表の方へのインタビューと。
福永:鈴木さん。
杉浦:あと伊藤文學さんへのインタビューも。
福永:当時、世田谷代田か下北沢に住んでいたんですけれども、伊藤文學さんのお宅が下北沢にあったんですね。二丁目で飲んだりしていたときに『薔薇族』が置いてあって、知ったんでしょうね。発行元を見たら世田谷区北沢。「うちの近くで取材しやすいな」と思ったことは何となく覚えています。
杉浦:当時、「若草の会」が伊藤文學さんの手を借りて。
福永:『イヴ&イヴ』?
杉浦:を出す話がちょうど出ていたときだった?
福永:『イヴ&イヴ』は、その当時、聞いたことがあったんですよね。だけど、それがどうなったかは思い出せないんですけれども、名前は思い出しました。
杉浦:あれは結局、駄目になって。伊藤文學さんと「若草の会」の間でちょっと。
福永:揉めたりとか。
杉浦:そうですね。どういう雑誌を作りたいかという擦り合わせがうまくいかなかったのかなとも思うんですが、結局、「若草の会」の自費出版になりました。
福永:そうなんだ。伊藤文學さんは、ハッテン場で一晩の彼を求めることを肯定していたので、レズビアンとはちょっと違うのかなとは思いました。もちろん女性同士でもあるんでしょうけど、男性はもっと即物的で『薔薇族』もそういったものをどんどん肯定している感じがした。このインタビューの中で、「女性は結婚してもいいんだよ」みたいなことをちらっと言っていた。
杉浦:伊藤文學さんがですか。
福永:文學さんが。レズビアンの人と共闘できるのかなと疑問に思ったような気がします。社会的に認められてない人たちをすくい上げている点では、「若草の会」も伊藤さんも同じ。文學さんは同じ少数派だからその人たちの気持ちをくみ取ると言うんだけれど、「同性愛」というくくりは一緒でも、レズビアンとゲイ男性とは違うのかなという気はしましたね。
杉浦:取材の依頼はスムーズにいったんですか。
福永:人づてに、人づてに、でした。最初の2人をきっかけにしていたり、「若草の会」で紹介してもらったり、レズビアンのグループから聞いたり。中には会わずに聞いた話を一つにまとめたものもあります。それから、話としてこれしか聞けなかった、というものを一つのモデルケースみたいにしたのもあったんじゃないかなと思いますね。基本的には、全部知り合いのレズビアンから紹介してもらったということだと思います。そして、取材を受けてくれた人たちには、「話を聞いてくれるんなら」「なかなかそういったことを言える場がないから」という気持ちもあったんだと思います。
ただ、この本ができたときに、先ほども言ったように、不本意な内容の頁があったりしたので、皆さんに「できたよ」と言えなかった部分もありますよね。その辺のところで申し訳ないという気持ちもありました。取材に答えてもらったのに、「えー、こういう扱い?」「やっぱりこういう興味本位なやつなの?」と思われたら嫌だな、という気持ちもあった。
でも、「レズビアンの人も、セックスの具体的なプレーを知りたかった人にとってはいいのかな」とも思ったり、「いやでも、やっぱりテイストが違う、別物にしてほしいよな、それならそれで」と思ったり。当時『HOW TO SEX』という本がベストセラーになっていましたけど、最初から『HOW TO LESBIAN SEX』ならいいけれど、これとはちょっと違う。
杉浦:取材は全部、福永さんが1人でやっていたんですか。
福永:お店で話を聞いたりするときは、カメラマンがいたり編集がいたりしましたけど、それ以外のことは基本的に私が1人で。女性同士の集まりは当然私しか行きませんし。レズビアンの人は、男性が来ることや取材にも警戒心があったんで、全部私が1人で行ったと思います。
杉浦:当時の取材は全部メモですか。それとも録音機器がもうすでに。
福永:そのころは、録音はしてないと思います。当時は、雑誌のタレントさんの取材とかでも録音せずにメモだけでやっていたんです。若さですね。今は絶対無理だけど、20代のときはメモに走り書きしただけで原稿を書いていたんですね。ましてやレズビアンの取材だと、皆さんのプライベートなことなので、隠しどりもしないし、テープでとらしてとも言わずに、話を聞いてまとめる。記憶力もそのころはまだシャープだった。だから、テープも残ってないです。
杉浦:「若草の会」の鈴木さんの印象で覚えていることはありますか。
福永:それが覚えてないんです。顔も覚えてない。
杉浦:どういう格好してたとか。
福永:全然覚えてない。蒲田の集合住宅のマンション、ちょっと古びたマンションだったくらいは覚えてるんだけど、お会いしてしゃべったこととか顔とかがすとんと抜けているんですよね。だから、いくつぐらいだったかも覚えてないです。すみませんね。
杉浦:いいです。いいです。
福永:ただ、違和感があるような、いわゆる男装とかではなかった。そうだったら逆に覚えていると思うんですけれども、ごくごく普通の女性の。あの本のなかに出てきた場所も、覚えているところもあれば覚えてないところもある。
杉浦:バーじゃなくて「女の集会」とか「女のパーティ」みたいなのにも行ったということがちょっと書いてあったんですけど。
福永:はい。二丁目の。
杉浦:覚えてますか。
福永:かすかに。
杉浦:「二丁目のホモバーで毎月レズビアンのパーティがある」と。
福永:ホモバーで女性だけで貸し切る時間があった、というのは何となく覚えているんですけど、その会場の雰囲気とか覚えてなくて。もともとゲイの人たちが集まってビールを飲んだりするお店で、そこにレズビアンの人たちが集まる時間もあった。気軽な立ち飲みバーだったかな。
杉浦:あとは、すでにこの本の中で「カムアウト」という言葉が使われているんですけど、この言葉は当時から。
福永:それが書いてあるってことは、あったんでしょうね、というぐらいな感じなんですよ。
その時代のトピックといえば、男性の場合は美輪明宏さんだとかピーターだとか。女性では、その後のことだと思うんですけれども、佐良直美さんとキャッシーさん。そして、梓みちよさんがバニー智吉さんという男装の人と付き合った。その2組ぐらいですよね。おすぎとピーコみたいに大々的なタレントさんとしてメジャーになったりということはなく、キャッシーさんはハワイに行ってしまったり、梓さんも姿を隠したり、男性たちに比べるとオープンにしづらい。
本の歴史のパートを読んで、初めて知ったんです。「中世では男性のほうが迫害が大きかった」とか、「キリスト教の中では女性のほうは重きを置かれてない分だけ抑圧もされてない」といったことを。芸能界や日本社会では、女性が取り上げられない代わりに、いったん取り上げられると、女性のほうがダメージが大きかったのかなと思いますよね。
杉浦:当時はレズビアンが「レズビアンテクニック」みたいな感じでポルノの文脈で取り上げられていた時代だったんですが、福永さんはあまりそういうことを知らずに取材に入っていたということですか。
福永:そうなんですよ。
杉浦:男性向けの雑誌とかを見ると、レズビアンをポルノ的に扱うような。
福永:知らなかったんですよ、まったく。だから、レズビアンに対しての知識は、写真とか雑誌とかを含めて、まったくなかった。
杉浦:例えば、「男装の麗人」みたいなそういうイメージも。
福永:そのイメージで言うと、それこそ漫画の『リボンの騎士』。『ベルばら』は私よりももうちょっと後の世代で、あまり熱心な読者でもなかったし、それほど興味はなかった。レズビアンのイメージは、「男装の麗人」というよりは、女学校の「エス」。昭和の初めの母が「女学校のときに付け文があったのよ」「エスっていうのがあったのよ」という、それぐらいでストップしているんですよ。
杉浦:よく福永さんの本から引用させてもらう箇所があって。
福永:いいですよ、全然。でも、26歳のときのだから恥ずかしくて。私は『婦人公論』の仕事を30年以上やっているんですけども、『婦人公論』でインタビューをまとめるときは、基本的に本人語りなんですね。ルポは別ですけど、インタビューページは本人の一人称語りでまとめて、主観を入れない。だから、この本の文章を見たら、主観だらけなんでちょっと恥ずかしい。著者として、取材者の目線で書くのは当然なんですけれども。
杉浦:取材構成っていうのは、そういうことなんですね。
福永:このころは若くてまだ自己主張があって、勉強不足な面もあったし、今の私にはちょっと恥ずかしい。43年前ですよ。
杉浦:すごい人数の方に取材なさっていて。
福永:たぶん短い間だった。このころは他の仕事もしながらで。しょっちゅういつものお店に行って、レズビアンのカップルに紹介してもらったり、どこで集まりがあると聞いたら行ったり、精力的に頑張ってやっていたんだと思います。
【ウーマンリブの印象】
杉浦:この本の中にフェミニズム運動やリブのことが少しだけ触れられていますけど、当時、そういった運動は、福永さんにはどういうふうに見えていたんですか。
福永:それこそ「中ピ連」を見ていても、その当時の自分からすると「過激なおばさん」。リブ運動の「男を倒すぞ」というのは何か嫌な気がしたんですよ。「何で女の人がお正月に着物を着てお酌するためだけに行くの?」ということは気持ち悪いんだけど、かと言って「男を倒す」というのは「倒さなくても仲良くすりゃいいじゃん」と思った。
今だったら、専業主婦も悪くないし、男の人が主夫になってもいいし、いろんな形があるけど、あのころは「男対女」。女の人が頑張るということは、女の人のままじゃなくて女が男になるみたいな感覚。だから、お化粧してきれいにすると批判されたりとか。
杉浦:リブでは、ですね。
福永:うん。というようなイメージがあった。実際はどうかわからないです。でも、対立構造にもっていくのにちょっと違和感がありました。「別に女の人の地位を向上するために男にならなくてもいいのに」って。その当時の女性運動には、ちょっと「うん?」っていう。「男の代わりにならなくてもいいじゃん、女のままで頑張れば」みたいな感じがありましたよね。
私は、学生時代はお化粧もぜんぜんしなかった。大学では男子が多かったせいか、化粧をしていくと「何、今日お見合いでもあんの?」とか冗談で言い合ったりするくらい。だからと言って、化粧してどこが悪いんだろうなと思っていました。お化粧をしていると「女を売って」「化粧して男にこびを売ってんの?」って。女性解放運動が勢いづいた時期ではありますよね。それはとてもいいことだと思うんですけどね。
杉浦:そうですね。世代的には福永さんは後かもしれないですよね。だいたい1950年生まれ前後の人たちがわりとリブに。
福永:そうですね。私より年上の。そして、私たちの時代よりももっと抑圧されていた時期があるから、何とかしようという気持ちのエネルギーはものすごくあった。私なんかのときよりも、もちろん大変だった。その分頑張るぞというパワーはあったと思いますよね、私より上の世代の人たち。
【学生運動の名残】
杉浦:福永さんが大学に行かれたときは、学生運動の雰囲気はまだありましたか。
福永:学生運動は、尻尾がちょっと残っていました。私たちが1、2回生のときに、学生運動のために卒業しない人たち、6個、7個上ぐらいの7回生、8回生の人たちがいたので。1回生のときに、高校時代に学生運動をやっていたという男の子たちも同級生にいました。民青の女の子もいたし。
1人、真面目な女の子が大学に来なくなっちゃったんですね。それで、同じゼミの男の子たちが「あいつは教会に行っているらしいぞ」と。それが今の「統一教会」の前身なんですよ。そのころは「勝共連合」って言っていたのかな。教会に行ってプロゼミに出てこなくなったので、高校で学生運動をやっていた男の子2人が教会に行った。その後で、杖をついて学校に来たから「どうしたん?」と聞いたら、「教会に連れ戻しに行ったら、足折られちゃったよ」と。
私はまったくノンポリでした。男の子たちから「福ちゃん、デモに参加せえへんか」と誘われたときも「私はバイトがあるし」と断っていましたけど、まだそういう学生運動の尻尾があって、デモもありましたよね。京大の西部講堂で集会もあったし。
杉浦:大学の中に女性問題について語る会みたいな、そういうのは。
福永:なかったですね、それは。部落問題研究会と都市問題研究会はあったんです。だけど、女性問題に関する研究会はなかったですよね。うちの学校だけかな。どうかな。女性解放運動を知ったのは東京に来てからですね。京都はあれだけ学生がいっぱいいたのに。
さっき民青の話をしましたけれど、女子学生は、自分から自発的に活動家になったというよりは、活動家の彼に引っ張られてみたいな感じがあった。子どものときから東大安田講堂事件とか、学園紛争が続いていましたけど、女性活動家は、活動をしている彼を支えている。洗濯をしたりおにぎりを持って行ったり、男の人に仕える、男の人のお手伝いをしているように感じられましたね。
【1980年代】
杉浦:フリーのライターで食べていくのは簡単でないと想像するのですが、80年代はやっぱり景気が良くて。
福永:いちばん良かったですね。雑誌以外でも、企業のPR誌とか、広告が多かった。破綻した山一證券なんかもすごく待遇が良くて。社員が使える福利厚生施設に関する雑誌のために、伊豆とか箱根とか、山一證券のもっている保養施設の取材に行くと、連れて行ってくれた組合員の人が「これが終わってから時間あります? お食事の席を用意してありますから」とか、そういう感じですよ。接待っていうやつですか。お金もいっぱい使えたんでしょう。
バブルの前だから、広告の仕事はいっぱいあったし、単価も高かったし、雑誌の仕事も、当時は原稿料のほかに取材料が出た。今なら日帰りでできる取材も1泊だったり。やっぱり景気が良くて、いろんなものが良かった。今は、あんまりライターのなり手がいないんじゃないかな。ネット時代になって、メディアの世界も変わってきたし。SNSで誰もが情報発信できるようにもなって。
杉浦:失礼ですが、ご結婚は。
福永:してないです。
杉浦:80年代、女性が働いて経済的に自立するというのは、珍しかったんでしょうか。
福永:周りは、ずっと独身という人、いっぱいいますよね。私の場合は、相手がいたら結婚してもいいと思ったけど、いなかったと。一人でも生きていけるし。ただ、周りを見ていると、独身の女性が多いのは確かですよね。
杉浦:一人でも生きていける、というような見通しが立ったぐらいですか、80年代って。
福永:うん。やっぱりバブルのころですよね。そんなにバブルの恩恵を受けてないと思っていたけど、ライターになってから、仕事はいっぱいあった。原稿料はあまり変わってないんですけども、取材料のオプションがないという点を考えても、今のほうが実質的にはギャラは良くないと思います。年収が多いわけじゃないですよ。それでもやっていけた。ただ、家庭を持っている人は大変だったかもしれないですね、ライターって。広告だけのほうが収入は多いだろうから。
杉浦:妻子を養えるかと言ったら、という意味ですか。
福永:もちろんライターの男の人もいたけれども、そこまでの収入はなかったんじゃないですか。ライターで何が良かったって、私の場合は、仕事が9時5時じゃなくて、他の人が行けないときに旅行に行ける、といった自由さですよね。仕事も自由に選択できる。ずっと忙しくしている人もいるけど、私はある程度ゆったりしたい。
でも、それはやっぱり家庭をもってないからできることですよね。家庭があったら、仕事のやり方は変わっていたとは思います。だから、やっぱり自由度を求めてしまった結果。あとはタイミング。付き合っていた人はいましたけれども、結婚には至らずということですよね。結婚願望がすごくあったわけじゃないし、一人がやっぱり楽だというのがあったのかな、ずっと。
杉浦:東京で経済的に自立して働き続けるって大変だなと思うんですけれども、女性の生き方としてそういう選択ができるようになったのは、いつぐらいからだったのかなと思って。70年代後半ぐらいでしょうか。
福永:私の周りは、何か独身が多いですよね。離婚した人もいる。籍を入れず事実婚の人もいるけど、あとは独身、独身、独身。とくにばりばり仕事して経済的に自立している人ばかりじゃないけれども、「結婚しなくても別にいいんじゃない?」という感じです。親から「結婚しろ」とか「その年になっても一人でいるの?」とか「孫の顔見せろ」とか、そういう圧を受けてないんですよね。私もそうだし、私の友達も。自立が先というよりは、親のプレッシャーがないから、自分のしたいようにしていたら、結果的に一人だったということかな。
杉浦:そういうプレッシャーがだんだんなくなっていったような時代。
福永:まさにそういう時代。私の前の世代だったら、きっとあったと思うんですね。ちょうどそういうのがなくなり始めたころじゃないですかね。私たちの前の世代の女の人は、おじさんたちが行くような酒場に行くって、そんなになかったと思うんです。でも、私たちは平気で行っていた。京都は閉鎖的だけれども学生が多いから、締め付けがない部分もあったのかな。女同士で飲み屋に行っちゃいけないとか、そういうのはまったくなくて、しょっちゅう友達とパチンコ屋で待ち合わせをしていましたし。そういったときの友達だから、親から結婚のプレッシャーがなかったのかもしれないですね。
ただ、経済的安定のために結婚する。そういう友人も同世代でいます。
杉浦:そうですよね。
福永:はい。だから、友達の中でもいろいろですよね。完全に家庭内別居で破綻した夫婦なんですけども、一緒に暮らしている。そういう友達もいましたね。だから、いろいろです。ただ、女性が結婚しなくちゃいけないという呪縛は、私たちの時代にはなくなってきたと思います。
【働き続けること】
杉浦:ちょっと先ほど聞きたいと思ったことがあるんですけど、フリーを選択したから働き続けられたというようなことはありますか。女性だけ30歳定年制みたいのがあったりとか、結婚したら辞めなきゃいけないとか、企業に女性が居続けることが難しい時代だったのかなと。
福永:それは完全にフリーだからでしょうね。
杉浦:フリーだから続けられたと思いますか。
福永:フリーは、依頼があって仕事を受ける。依頼があるうちは続けられる。私は20代、30代の頃に、55歳のライターの人に対して「55までよく働いてるよね」と思っていたけど、自分が50になってもまだやっていた。私も60になるまでやっているとは思わなくて、もう70近いのに、先週も取材をして原稿を書いている。これはやっぱりフリーだからです。依頼するほうが「この人はまだやってもらえる」と思えば。それは年齢が基準ではないです。私の場合は、とくに『婦人公論』が長いからというのもある。今は中高年の雑誌があるから、その辺だったら別に年齢がいってもオーケーなんじゃないですかね。あと、単行本の構成やまとめの仕事もありますし。
会社は、給与や福利厚生でしっかりした保障がある。フリーはないけど、会社から守られてない分だけ、自由度はあるかもしれないですね。その代わり、依頼がなくなったらぷつっと終わるというシビアさもある。お声がかかれば仕事を続けられるけれども、声がかからなければ20代でも30代でもぷつっと終わる。
今は女性の管理職も多いですけれども、結婚や子育ての問題があったり、転勤はどうするかとか、介護の問題もあって、やっぱり女性のほうがいまだに負担が多いですよね。管理職でも、女性のほうが男の人以上に大変なんじゃないですか。
何年か前に「介護保険から20年」という座談会の内容をまとめました。介護保険をつくった樋口恵子さん、それと介護保険ウォッチャーの上野千鶴子さん、おふたりが座談会をして。介護保険は親の介護から嫁を解放した、その点は意義があった、ということだったけれど、どちらかと言うと、今でも男の人よりは女の人の負担ですよね。それでも変わってきている。介護保険によって女の人がずいぶん楽になったことは確かだし。
そういった部分が働き方にも影響しているかもしれない。例えば、知り合いの男性編集者も去年「育児休暇を取った」と言っていました。「保育園に迎えに行くから仕事を早く終わるよ」という融通も利くようになった。男性が育児休暇を取りやすくなったり、子どもを保育園に預けられたり、女性が働きやすくはなってきてますよね、以前よりは。
それは、4、50年前とまったく違う。変わらない部分はあるけど、すごく変わった部分もある。だって、さっきも言いましたけど、雇用機会均等法なんてない時代でしたから。とにかく四大卒の女子は就職がない。地方の大学はとくにない。自宅通勤のみ。どんな時代だよと思いますよね。
杉浦:そういうときからお仕事を続けてらっしゃる。
福永:フリーだったから。周りで企業に勤め続けている友達はいない。学校の教師か、あるいは、転職していたり。あとは当時、女性が就職するのは流通ですよね。スーパーとか量販店とかそういったところ。京都は地方の大学なので、四大卒女子の求人は本当になかったんですよ、四十何年前は。だから、今60代の女の人で、1つの企業に長く勤めた人って、そんなにいないんじゃないですかね。
杉浦:そう思います。
福永:あの時代でね。レズビアンの人は、基本的に結婚しないということであれば、ずっと働く、経済的には自立するということですよね。結婚という選択肢がないことを考えれば。女性のそういう在り方の先駆者でもあるということですよね。最初から自立を目指している、好むと好まざるとにかかわらず自立したい、自立せざるを得ないということだと思うんですけれども。私は、この本を書くまでレズビアンの知り合いもいなかったし、まったく白紙だったので。
杉浦:偏見のインプットがない状況で取材をしている、というところが、今日お話を聞いて納得したというか。
福永:そうですか。何もないんですよ。ただ聞いて、とにかく「そうなんだ」「そうなんだ」ばっかりでしたよ、たぶんね。
杉浦:謎が解けた感じでした。
福永:そうですか。
杉浦:それではこれで終わります。どうもありがとうございました。