浜田博子さん(2025年10月22日)
基本情報
1) 話し手:浜田博子
2) 聞き手:杉浦郁子/呉丹
3) インタビュー実施日:2025年10月22日、27日、29日(日本時間)
4) 実施場所:Web会議システム(Zoom)を使用
5) インタビューで話題になったこと:
若草の会/ウーマンリブ/リブ新宿センター/すばらしい女たち/レスビアンのためのアンケート/ザ・ダイク/まいにち大工/レズビアン・フェミニズム/女たちの映画祭/女のパーティ/JORA/日御子/サザエ/鉄連の七人と共に性による仕事差別・賃金差別と闘う会/私たちの男女雇用平等法を作る会/JOKI女性解放合同事務所/ウィークエンド/1970年代/1980年代/神戸/京都/東京/メキシコ
6) 形式:文字/音声
7) 言語:日本語
8) データ公開および共有の区分:文字を公開(public)/音声を共有(semi-private)
内容
+ 内容を表示する目次
【幼少期~高校時代・神戸】
【大学時代・京都】
【就職・東京】
【『すばらしい女たち』の発行】
■「若草の会」のこと
■リブセンに出入り
■「レスビアンのためのアンケート」
■座談会
【まいにち大工】
■発足の経緯
■「まいにち大工」のアピール文
■労働運動へ
【パーティを主催する】
■「女のパーティ」
■日御子
【私たちの男女雇用平等法を作る会】
【ウィークエンド】
【メキシコに移住】
インタビュー
杉浦:このインタビューの中でどのようなお名前でお呼びしたらよいですか。
浜田:浜田でけっこうです。浜田博子。
杉浦:筆名が「田部井京子」だったと思うんですが、田部井さんと浜田さんがつながってしまって大丈夫ですか。
浜田:大丈夫ですよ。田部井なんていったって、誰もそんなの覚えてないですよ。浜田なら思い出してくれる人がいるかもしれないけど。
杉浦:じゃ、活動のなかでは浜田で通ってたんですね。
浜田:そうです。
杉浦:それでは浜田さんとお呼びします。では、生まれた年と年齢を教えてください。
浜田:昭和だと26年、1951年の5月です。神戸で生まれました。いま74歳で、来年5ですね。
杉浦:現在メキシコにお住まいということなんですけれども、何年にそちらに。
浜田:1993年です。だから32年以上、経ちました。
【幼少期~高校時代・神戸】
杉浦:幼少期、高校時代までの話ということで、まずどのようなご家庭で育ったのかということをおうかがいしたいです。
浜田:父も母も正直な働き者で、働くことしか知らないという世代です。大正生まれでね。父は職人で、母が和裁の内職をして家計を支えていました。父も母も大正人間ですから、考え方そのものは非常に古い、伝統的な考え方。父は家のことなんか一つもしなかったし、それこそ箸が転んでも起こさないというタイプで、母親がたまに何か手伝ってほしいと言うと、「おまえ、何のために食わしてやっとるんじゃ」というような父親でした。けれども、飲まない、打たない、買わない、ですね。お酒も飲まない、たばこも吸わない、ばくちもしない、もちろん女遊びなんか一切したことない。ただただ真面目に黙々と働くという、そういう人間で。
上に兄が2人いて、私が末っ子なんですね。一番上に姉がいたんですけれども、姉は戦時中と戦後の食糧難の影響で田舎のおば夫婦のところに行って、それからおば夫婦が姉を離さなくなってしまってそちらで育ったので、4人きょうだいですけど、実際には3人きょうだいです。上の兄2人は7歳と4歳上だから、ちょっと年も離れているので、あまり一緒に遊んだ記憶はありません。
母は、父に3倍しても余りあるおしゃべり、猛烈なおしゃべり。うちは近所中で一番貧しかったんですけど、貧乏だっていうふうに思ったことはなかったですね。だっていつもご飯はおなかいっぱい食べてたし、学校に必要なものは全部買ってもらってたし。うちは貧乏だからってことを意識した記憶はないんですね。
母親は子どもに対して熱心、真っ正直で、私はすごく両親に恵まれたと大人になってから思いました。母親は近所のうわさが好きでしたけど、人の悪口を言うのを聞いたことないんですよ。それから私に教えたことは、人をうらやんではいけない、ねたんではいけない、人にものをあげる時はいいものをあげろということ。2人とも尋常小学校6年しか出てないんですよ。
父親は小学校を出て弟子入りした。畳の職人だったんです。母親は、京都の大きなお店に女中奉公して、それで写真1枚で結婚した。そういう両親でしたけれども、いい育ち方をしたと思います。だから、人をねたむとか嫉妬するとかっていう感覚が、いまいちわからないで育ちました。
ただ、世間一般の常識で育ちましたから、母親に「男のほうが偉いんやで」って聞かされて育ちましたから、私は高校に入るぐらいまでそう思い込んでいましたよ。男のほうが偉いんだと。だけど、現実にはそんな偉い男の子っていないから、「何でかしら、何でかしら」と思ってましたけど。
その流れで言いますと、例えば大学に入る時に父親も母親も全然反対しない。父親も黙って大学にやってくれたし、むしろ近所のおばさんが2、3人言ったらしいです、「女の子をわざわざ大学までやって」って。「そんなお金あるんか」って言った人もいるらしいですけど、うちの母親は「人に恥ずかしいことをしてるんじゃない。それぐらいのお金は用意してあります」って言い返したそうです。そういう家庭で育ちました。
杉浦:浜田さんは「男のほうが偉いんやで」と言われつつ、大学を目指してもいいんだという環境で育った。
浜田:そうですね。成績だけは良かったもんですから、とくに異論もなく進学しました。ただし国公立だけ、浪人は絶対にできない。落ちたら就職だとは言い渡されていましたけどね。
杉浦:女の子は女の子らしく、とか、そういったことは。
浜田:それはいつも言われてました。私はおてんばだったから。「もっと女らしくしなさい」ってしょっちゅう言われてましたけどね。
杉浦:それについて理不尽に感じたとか、反抗的になったということはなかったですか。
浜田:とくにはなかったと思います。いわゆる反抗期っていうのはありましたけどね。
杉浦:お兄さんと差を付けられたとか、そういうことでちょっと反発を感じたりとか。
浜田:年が離れてたから、とくには感じませんでした。上の兄が高校の時に「アメリカン・フィールド・サービス(AFS)」って、高校生がアメリカに1年間留学に行けるっていう制度があるでしょ。今もあるのかはわかりませんけれど。親に内緒でその試験を受けて、1次に通って2次が東京であるというんで、そこで初めて親に言ったら、母親は「そんなお金もないのに」ってうろたえたんですけど、父親が黙ってヘソクリを出してきて、「これで行って来い」って言ったんです。私が大学に行くときも何も言わず、反対もしなかった。ところがあるときに突然ぽつっと言ったんですよね。ほとんどしゃべらない父なんですけど「土井たか子みたいなのもおるんやから」って。その頃、衆議院議員の土井たか子。一体私に何を期待してるんだろうと思ったことがあります。
杉浦:土井たか子の地元ですね。
浜田:土井さんは西宮ですね。末っ子だったし、女の子だったし、私にすごく甘かったんですよ、父親は。母親に怒られて泣いてたら、後でこそっとやってきて、私にお小遣いくれたり。「これで機嫌直せ」みたいに。だから、大学も別に反対しなかったんですよね。意識的には古かったと思いますよ。でも、私に「大学なんか行かなくていい」ということは一切言わなかったですね。
杉浦:自分のセクシャリティについて、幼少期から高校時代、いつでもいいんですけれども、何か印象的なエピソードを覚えていますか。
浜田:たくさんの人がそうであるように、私も典型的なパターン。私が覚えているのは、小学校1年のときに小学校6年の女の子にすごく憧れた。それから3年か4年のときにやっぱり6年生ぐらいの女の子に憧れたというのはあります。でも、その時はもちろん、それを妙に考えるとか自覚するとか、そんなことは全然なかった。
中学になって、ソフトボール部に入ったんですけど、ピッチャーで4番という女の子にすごく憧れた。その頃からですね、ちょっと私はおかしいというふうに思って。学習雑誌の『中二時代』とか『中三時代』とかに、「そういうのは大きくなったら自然に消える」「自然にそうではなくなる」と書いてあったりしたのを読んで、そうかなと思った。
でも、やっぱりちょっとおかしい。だから、クラブの女の子たちで集まっておしゃべりしてるときに、「誰がいい男の子か」「あの子がいい」「この子がいい」とか、あるでしょ。そういうときに一応誰か決めて「あの子がいい」って言ってましたね。
問題は高校に入ってからですね。高校では、ソフトボール部がなかったから、陸上競技部に入ったんです。その監督、女の人、体育の先生だったんですけどね、その人に憧れた。これははっきり自分で意識しましたね。3年間、灰色の高校時代でしたよ。もちろんそんなことは言えなかったし、ただひたすら「私は、みんなの先生にとって、かわいい生徒の1人であればいい」というふうに思って。その経緯は『すばらしい女たち』の記事に書いてありますけどね。
だから、最初に私に来た自覚は肯定的なものではなかったです。すごくネガティブでしたね。「私は異常だ」というのが、最初の自分に来た自覚ですよね。
杉浦:同性を好きになることがおかしいという情報は、どこから入ってきたのですか。
浜田:直接どこかから情報が入ったということではないと思います。知らないうちに身に付いてる常識みたいなものですね、多分ね。
杉浦:同性愛に関する情報に何とかアクセスしようとか、そういうことを高校時代にしたことはありましたか。
浜田:ありません。なかったですね。そのときに私は「もう女が好きなんだからこれはしょうがない」とは思ったんですね。それで、私は一生結婚しないから、独身でいくしかないから、独身でいてもそれほど問題にならない職業ということで、弁護士になろうと思ったんですよ。それで法学部を選んだんですけどね。法律に興味があってというよりも、教師にはなりたくなかった。教師というのは生徒に責任持たなくちゃいけないでしょ。すごく影響力ありますもん。私自身がそうだったから、やっぱりいろんな先生にいろんな影響を受けて育ちましたから、そんな責任とてもじゃないけど無理って。先生にはなりたくなかったし、いわゆる民間企業も考えませんでした。差別が大きいという話は聞いてましたから。それで、弁護士になろうと思って、法学部入ったんです。
入って早々にこれはつぶれましたけどね。崩れちゃったというか。まず、法律を好きになれない。ちっとも面白くない。それから上の兄に「法律なんかやってたら、法律的なものの考え方しかできなくなる」って言われて、そんなの嫌だと思った。
中学ぐらいまでは、男のほうが偉いんだと思ってたわけでしょ。高校のときに、陸上部の監督に『第二の性』を読めと、ボーヴォワールを勧められて読んだんですよ。それで、「あ、何だ、別に男のほうが偉いわけじゃないんだ」と思って、それが最初の精神的な一歩でしたね。私の場合はね。
それに、高校3年のときが1969年、例の安田講堂のときです。東大入試がなかった年です。学園闘争が全国に広がった年で、私が通っていた高校もそうだったんですね。夏休みが終わって9月1日に学校に行ったら、校門のところに何人かヘルメットをかぶって、タオルでマスクしてビラをまいてる同じ学年の顔見知りというか、お友達がいるわけですよ。えーっていう感じ。それから全校集会とかクラス討論とかが続いて、それでいろいろな社会問題が、一気にばーっといっぱい入ってきた。
杉浦:高3まではそういう全共闘的な知識は。
浜田:社会的な差別は嫌いと思ってました。それは中学の頃から。近くに部落差別の問題も見聞きしたし、それで自然に差別は良くないと。その程度の、赤ちゃん程度の知識は持ってましたけれども、具体的に何かの運動に取り組んだことはなかったんですね。むしろスポーツに打ち込んでましたから。
高3の2学期からですね。それは私だけじゃなくて、たくさんの生徒が一気に討論を始めた。先生たちも今思えば大変だっただろうと思うんですけど、うちの高校の先生たちは押しつぶすということしませんでしたね、期末テスト中の討論会とか。卒業式も通常の卒業式はなくて、まずクラス代表が全員1人ずつ出ていって、今までの高校に対する批判や自分たちの意見を発表する、卒業証書授与式はその後別にやる。そういう感じでしたね。
杉浦:浜田さんもそういう討論に参加していらっしゃったんですね。
浜田:クラス討論に参加しました。それから、卒業式のクラス代表で何か言いました。
杉浦:どんなこと言ったかは覚えてらっしゃいますか。
浜田:全然覚えてないですけど、ただそのとき、女性差別のことは中身に全く入ってなかった。障がい者差別であるとか、部落差別であるとかが大きかったですから。関西は部落差別が伝統的にひどいんですよ。
ただ、うちの母が違っていたのは、父の仕事仲間の家庭で、そこの息子さんだったか娘さんだったかが部落の人と恋仲になって結婚したいとなったときに、その家は押しつぶしたんですね。無理やり引き離して押しつぶしちゃった。それを母親が何て言ったかというと、「いくら相手が部落でも、好き同士を引き離したらあかん、好き同士は一緒にせんとあかん」と。母はそう言ってました。だから私も恋愛至上主義みたいなところがあるんですよ。
杉浦:お母さまの正義感を感じますね。
浜田:曲がったことが大嫌いというのはありましたね。人に後ろ指を指されるようなことはするなというのが口癖でした。
【大学時代・京都】
杉浦:それでは進学した後のことをうかがいたいんですけれども。
浜田:進学して早々に五月祭という学園祭があるんですね。そこでいろんな部が小さい机を出して新入生を勧誘する。そこで部落問題研究会に呼び掛けられた。呼び掛けた人はモエさん。モエさんはニックネームだから大丈夫です。モエさんは同じ学年で、文学部で、誘われて部落問題研究会に入ったんですけれども、そこは途中でやめちゃいました。共産党系だったものですから。
そのモエさんが中心になって女のグループを作ったんですね。女の問題、女性差別の問題を話し合うグループを作った。文学部が4人ぐらい、法学部が私ともう1人と、それから理学部がいて、それから同志社が1人いたかな。そのぐらいのグループでした。具体的に何をやったかは覚えてないんですけど、勉強会や合宿をやったことは覚えてます。それから何回かいろんなこと書いてガリ版で刷って、それを配ったこともあったように思います。
あれは1年の秋だったかな、そのグループに田中美津さんの「ニュー便所からの解放」というビラが回ってきたわけですよ。「ニュー」が付いてました、「ニュー便所からの解放」。あれが転機というか衝撃。衝撃でしたね。あれはほんとにすごいですね。今でもすごいと思う。
それで東京に行って話を聞いてこようと。当時、確か三里塚闘争もすごく盛んで、大きくなっていたときだったと思います。そのときに私とモエさんと2人で三里塚に行って様子を見て、それで帰りに「ぐるーぷ闘うおんな」というところに寄って話を聞いてみようっていうんで行ったんですね。確かまだ本郷にあった頃です。それから知り合いとか交流ができたのかな。で、1年の終わりの春休みに織田さんとサチさんが遊びに来て、親しくなって、リブ合宿でも会いました。そのときに織田さんともっと親しくなって、それで恋人になった。だから大学卒業するまでは、東京と京都を時々往復していました。
女のグループは、メンバーの一部が卒業する頃には入れ替わっていたと思うんですけど、何人かは今でもずっと親友です。ただ、2人亡くなりましたけどね。生き残っていると言ったら変ですね、5人ですね、今でも日本に帰るたびに会っていますし、時々メールのやりとりもしてますし、それは生涯の友人たちですね。
杉浦:1970年代の初めごろの話だと思うんですけれども、大学で女性のサークル、女性解放を掲げたようなサークルというのは、けっこうあったんですか。
浜田:わからない。聞かなかったですね。同志社にあったのは知ってますけど、私たちの大学では聞かなかったと思います。とにかく圧倒的に女子学生が少なかったですしね。
杉浦:京都大学ですよね。
浜田:はい、そうです。女子学生は圧倒的に少ないんですね。私ともう1人、法学部で最初から気が合った友達がいて、今でもいちばんの親友ですけど。友達は全員ストレートですよ。法学部でしょ、文学部でしょ、理学部がいたでしょ。医学部の学生が最初の頃1人参加していた。あと女子学生がいたとしたら薬学とか工学とかだと思うんですけど、そっちのほうはあまり交流がなかったですから、なかったんじゃないでしょうかね。少なくとも京大にはなかったと思います、私たちが初めてだと思います。
ただ、学生運動のいろんなセクトはありましたね。赤ヘルだの黒ヘルだの青ヘルだのヘルメットの色で言ってましたけど。京大は学生運動が盛んなとこでしたから、いつもヘルメットかぶったのがあちこちいました。私たちが入学したのは70年ですから、ピークは過ぎていた。69年がピークでしたからね。ピークは終わったけど、でもまだそういう感じでした。
セクトの政治活動グループはいっぱいあって、その中に参加している女子学生もけっこういましたけれども、いわゆる女性解放というか、こういう言葉はちょっと固くて好きじゃないんですけど、女の問題に関して集まっているグループというのは、多分私たちだけだったと思います。
杉浦:浜田さんご自身は、セクトには入らずに。
浜田:入ってません。セクトなんか大嫌い。それに過激な暴力も大嫌いですから、もともとから。だから、ノンセクトってやつですね。そういう言葉があったんですよ、「ノンセクト・アンチラジカル」。でも、集会にはいろいろ参加してましたよ。セクトのグループのメンバーにはならなかったけれども、集会があると参加はしていました。デモに行ったりもしました。
呉:周りが政治的な団体で、そのなかで自分たちで女性のサークルを結成して、周りに発信したことがあったとお話されましたが、周りからの反応はどのような感じでしたか。女性の問題に関心を持つようになりましたか。
浜田:申し訳ないですけど全然覚えてないです。どこに配ったかも覚えてないですね。ただ、作った記憶はあるんです。集会で配った記憶はないから、ひょっとしたら自分たちの周り、他の女子学生とかに配ったのかもしれない。
杉浦:当時「女性の」問題といった場合、どのような問題を指していたのかをおうかがいしたいです。
浜田:男の人がどこでも中心で、女の人はサブ、補助。具体的な例を挙げますと、文学部の助手をやってらっしゃった女性が、どこかの大学の講師として出ることになったときに、その助手の人は研究室でお茶くみをひとりでやっていたみたいで。それでその人がいなくなると「○○さんのコーヒーが飲めなくなる」と。そういう研究室の対応を漏れ聞いて、私たちのサークルは文学部の学生が半分ぐらいいましたから、私も文学部にけっこう出入りしていて、それに抗議する、問題にする。でも、それが普通の時代だったんですよ。今どうなんでしょうね、今は違いますか。
杉浦:お茶くみはだいぶなくなったと思いますね。
浜田:私たちの時代は、それが普通だったんです。それに抗議をしたら、逆に女の人が生意気だとやっつけられていた。私も職場で完全にたたかれましたからね。そういう時代です。女の人は必ず「副」、それが当たり前でした。
それから、私たちのグループで、大学院入試差別事件に関して騒ぎを起こしたんです。私たちがまったく知らなかった学生ですけど、文学部の4年生が大学院入試を受けて、落ちたんです。そのときに指導教官から親に手紙が行った。「このまま頑張っても無理だと思うし、婚期を逃すし」というような手紙を出したばかな教官がいたんですよ。それで、「何だこれは」ということになって。
でも、本人は善意でやったわけですよ。「学者としてあまり見込みがないのに、これ以上頑張っても婚期を逃しちゃってもかわいそうだし」っていう善意ね。それが普通の世の中、それが普通の感覚の時代だったんです。今はかなり変わったんでしょうね。少なくとも表向きはそういうことは言わないでしょうね。言ったらいっぺんにたたかれるでしょ。
杉浦:はい。その手紙を出したほうが大問題というか、懲戒処分を受けるレベルだと思います。
浜田:そうね。でも、ほんとにそれは当たり前だったんですよ。とくにその先生が差別的というわけじゃなくて。
杉浦:それはサークルとして抗議した。具体的にアクションを起こしたということですか。
浜田:はい。それをやったんですよ。ただ、主人公にちょっと問題が多すぎたんですけどね。それは別の話。
杉浦:当の本人が。
浜田:ええ。本人の問題も大きくて、だんだんとそれが後でわかってくるんですけど。やっている私たちが「え、ちょっとどうする?」ということになってしまったんですけどね。そのときに、どこかのセクトの男子学生が「指導してやる」みたいに介入してきて、それは全部拒否しました。それは覚えてますね。
女子が大学に行くことがそんなに当たり前ではなかった。私たちの高校でも、一応進学校ではありましたけれども、大学へは行かない、就職するという女の子、けっこう多かったですしね。親の教育方針にもよったと思いますけれども。
杉浦:浜田さんご自身にとっても、当時、切実だった女性の問題というのは、そういう。
浜田:女性差別の問題がいちばん大きかったですね。
杉浦:織田さんの話でも、大学出ても就職先なんて全くなかったと。
浜田:それも非常にはっきりしていましたね。私は法学部でしたから、法学部の学生には3年の終わりぐらいからどんどん来るんですよね、いろいろな会社から就職の案内が。女子学生には来ないんです。来ませんでしたよ。
私のところには1カ所だけ来ましたかね。どこかの地方の銀行だったと思います。私自身は銀行に就職する気はなかったんですけど。とにかく来なかったですね。他の男子学生のところには有名企業とか一流企業とかがばんばん来るわけですよね、京都大学法学部というと。女子学生のほうは見事に来ませんでしたね。そういう時代ですね。だから、女子学生が就職をするなら、公務員か教師か、親戚や知り合いのコネでどこかに入るか。そういう感じでしたね。
杉浦:企業からの募集が男子限定で出ていた時代ということですよね。
浜田:そうですね。それが普通だったということです。
杉浦:大学時代に、東京のリブの情報は入ってきてたんですよね。
浜田:そうですね。私はたまに東京に行ってましたし、行ったらリブセンにも行ったりしてましたから、そういう情報は入ってます。入れてました。
杉浦:浜田さんが高校の陸上部の顧問の先生に対する強い思いを自覚したときに、ネガティブに受け止めたとおっしゃっていましたが、大学時代はどういうふうに受け止めていたんですか。
浜田:私が2年の夏、恋人ができたでしょ。そのことについて、私たちのグループ、リブのグループの親しい友達が、何の抵抗も問題もなく、すんなり、「あ、そ」って。みんな当たり前に受け入れましたから、それで私は自分に対するネガティブな感情がなくなったと思います。ただ、少数派ではあるのね。少ないけれども、それはそれで自然である、それは一つの個性に過ぎないという、私自身、そういう受け止め方に変わりました。
杉浦:それは周囲の受け止めが大きかったという。
浜田:そうです。あそこでもし自分の仲間から批判的な、ネガティブな受け止め方をされていたら、そうはならなかったと思いますね。
杉浦:女性の恋人ができたことをサークルの仲間に伝えるのは、躊躇はなかったですか。
浜田:そんなに覚えてないんですけどね、ごくごく普通に知らせたんだと思います。どういう形で知らせたかとか、どんな気持ちで知らせたかというのは一切覚えてないぐらい。たぶん、自然にすっと、という感じだったんだと思います。それだけ信頼関係が強かったです。だって、今でも親友ですからね。50年以上。
杉浦:当時のリブの中には、女性同士の親密な関係を自然に受け止められる土壌があったという感じでしょうか。
浜田:土壌なんて考えたことなかったですけれども、どうなんでしょうね。仲間内じゃなくて、もうちょっと外側の友達、そんなに親しく結びついていた友達ではないレベルの友達の1人が、あるとき「それって倒錯じゃないの?」って言った。これは覚えてます。そのときに面白かったのは、私も「へ?」「この人何言ってるの」っていうようなもんで、まったく傷つきもせず、腹立たしくも思わず、ただ「へ?」というふうな反応をした。
杉浦:そういう反応をしたということは、浜田さんもその頃までには相当変わられていたということなんですか。
浜田:そうですね。マイノリティであるという位置づけはありましたけれども、自分はおかしいとか異常だとか、そういうネガティブな受け止め方は、大学時代にはもうなくなっていましたね、今思えば。だから東京に出て来たときにすぐにリブセンに出入りしながら、麻川さんやいろいろな人と出会ったりして、運動を始められたんだろうと思います。
杉浦:大学時代に、すでにポジティブに受け止められるようになっていた理由として、周囲の影響以外に他に何か考えられることはありますか。たとえばリブの情報を摂取したとか。
浜田:リブの情報はすでに入っていて、でもそれと理論的に結びつけた覚えはないんです。ただ、女への抑圧に対する反発を主張していきたいということと、自分はマイノリティであるということとは、たぶん重なっていた。でも、自分の中で意識的に結びつけることは、大学時代にはしなかったんじゃないかなと思うんですけどね。
でも、東京に行って、麻川さんたちと出会って話をして、自分たちの主張を発信していこうと思い始めたのは、それはリブの影響がすごく大きかったと思いますよ。大きかったというか、リブの土壌があったからそういう発想が出たんでしょうね。
【就職・東京】
杉浦:大学卒業後のお話に移りたいんですけれども、卒業後、東京で公務員になられたとうかがっているんですけれども、その辺りのことについて教えてください。
浜田:恋人が東京にいるものだから、東京で一緒に暮らすために東京に行ったんです。東京に行くために就職を東京で探して、たまたま公務員の試験があったからそれを受けて、公務員になった。大学3年、4年ぐらいのとき、大学院に残ろうかな、残りたいかなということを考えたことはありますけれども、やっぱり私は恋愛至上主義ですから。それで東京に行ったのが74年3月でしょ。
仕事は仕事ですごく一生懸命やっていたんですよ。真面目な働き者の血を受け継いだので。仕事は一生懸命やっていましたけれども、その一方でリブセンに出入りして、それで麻川さんとも親しくなって。麻川さんと知り合ったのがいつだったか覚えてないんですけど、少なくとも74年に上京してきたときには会って、話をしていたと思うんですね。
杉浦:引っ越した後の暮らしぶりについて差し支えない範囲で教えていただけますか。お仕事のこととかお住まいのこととか。
浜田:最初は職場のすぐそばに下宿を見つけて、そこにしばらくいたんです。そのときには織田さんと同居はしていなかった。一間の下宿でしたしね。それから確か1年ぐらいで近くのアパートに移ったんですよね。そのときから一緒に暮らし始めたと思います。
私は東京都の区部、23区のうちの一つに勤めていました。最初の4年間は季節的にすごく忙しくて残業が続く時期と、そうではない比較的暇な時期があって、そんなに忙しくない時は定時で出れます。土曜日はその頃まだ休みじゃなくて、半日だったんです。だから、休みの日とか夜仕事が終わってからとか、自由に動けていました。職場では一切そういうことは言いませんでしたけどね。
杉浦:女性が東京で1人で暮らすために十分なお給料は出ていた?
浜田:それはきつかったですよ。非常にきつかったです。お風呂付きのアパートに越せたのは、いつだったかしら。10年ぐらいは経ってからだったと思いますね。風呂付きって高いんですよね。その当時で家賃が2、3万は高かったかな。全部1人で賄ってましたから。それでもこつこつと貯金をして3年経ったときにはブラジルに遊びに行きました。初めての海外旅行。
杉浦:じゃあメキシコに渡られるまで、ずっと東京で公務員をなさって。
浜田:はい、そうです。
杉浦:そうでしたか。
浜田:私は、性分として仕事が好きなんですよね、義務とか嫌々とかそういうのは一切なくて、どんな仕事でもついつい一生懸命やってしまう癖があって。それはそれで面白く働いていたし、最初の4年間は割と単純な仕事が多かったですけど、それでも自分なりに工夫したら面白くなった。2つ目の部署からは仕事そのものもけっこう面白かったし、私は、仕事、同僚、上司に恵まれましたね。
杉浦:女性がいつまでも結婚しないで1人でいることに対するプレッシャーが職場からかかるといったことはあんまり?
浜田:それは、たとえば冗談で言われたりっていうのはありましたよ。でも、私も全然そんなの気にしないし、そういう冗談に冗談で返すという感じ。そういうタイプに見えていた。
杉浦:軽口をたたいていいようなタイプに見えていた?
浜田:そうです。いつだったかな、あれは。30代後半に、胸にしこりができたときがあって、それは後で検査をしたら癌とは関係なかったんですけどね。そのときに「余命幾ばくもない」って職場で言ったら、「何?嫁に行くべくもない?」ってそう言われて、お互いに大笑いしたしね。
正面切って、不愉快な感じで冷やかされたり、何か言われたりという経験は、私はなかったんです。ただ、「お茶くみ反対」をやって徹底的にいじめられた時期はありました。それは2つ目の部署のときです。でもそれも、翌年にすごく影響力のある女性職員の先輩が来て、いっぺんに力関係が逆転して。その女性職員は私を信頼していろいろ仕事をさせてくれました。その人がヘゲモニーを握るようになったら完全に力関係が逆転した。あれは面白かった。今まで威張っていた男性職員が、その女性職員に頭上がらなくて。
杉浦:それでお茶くみはなくなったんですか。
浜田:いえ。あれは最初の年でした。激しい抵抗が。徹底的に干されたときに一緒にやっていた先輩の別の女性が、「ここは一歩引こう、しばらく時期を見よう」と。それで引いた。それと、そのときの課長が数少ない女性だったんですよ。あのときはまだ女性の課長は1人だったかな。その課長が「そういうことやめろ」とは言えないし、立場上すごく困ったと思うんですよね。課長が女性だったということで、課長をあまり困らせてもな、というのもありましたね。それで引きました。お茶くみは相変わらず続きました。それは辞めるまで続きました。
辞める前に管理職になってもやってたわね。全員課長級というグループの仕事をやっていたから、そのときには男女関係なくお茶くみをやった。女性だけのお茶くみは、平でいる間はずっと続きました。途中からは割り切りましたけどね。気分転換だと思って、いちいち腹立ててもしょうがないし。少なくとも仕事でばかにはされなかったから、それで済んだんでしょうね。
杉浦:先輩方の頑張りがあって今があることがよくわかる。私は90年代の初めに民間に就職しましたが、お茶くみはなかったんですね。
浜田:いいですね。
杉浦:そうですね。当時もまだあったところはあるし、今でもやっているところがあるというのは聞きますけれども、「そんなことやってるところ、まだあるの?」みたいな感じで受け止めますから。
浜田:私がお茶くみ反対をやったときも、同じフロアの他の課の職員が陰で応援する、陰で「頑張って」というのはありました。でも、一部の職員は逆に反発しましたよ。「こういうのは私たちがやることなんだから」と思っている人もたくさんいましたからね。
杉浦:女性で反対する人がいたっていうことですか。
浜田:もちろん。
杉浦:そこで、女性だということでまとまれないというところが苦しい。
浜田:それはそうです、まとまりませんよ、それはいつも、いつの時代も。よく考えたらまとまりっこないですよ、みんな違うんだから。
【『すばらしい女たち』の発行】
■「若草の会」のこと
浜田:織田さんが東京にずっといるわけでしょ。だから東京のあちこち回って、「若草の会」にも行ってみたり。でも、やっぱりリブの運動が中心でしたから、その中で麻川さんとかといろいろ話して、私たちも何か発信しなくちゃいけないねっていう感じになって、それで『すばらしい女たち』の発行につながっていきました。
「若草の会」についてはいろいろな意見があるみたいですけれども、私たちは少なくとも「若草の会」はすごく大事だと思っていたし、代表の鈴木道子さんはすごく偉いと思っていました。ただ、リブというか、女の問題、私たちが問題にしている女性差別については、やっぱり私たちには物足りなかった。そういう話ができる集まりが必要だということで、グループを作った。それと「女のパーティ」を始めたんですね。
それでどちらにも参加できるようにした。だから「若草の会」のほうがいい人はそれでいいし、うちのグループのパーティにも来たければ、そちらにも来られるように。対抗するつもりはなかったし、対抗するような行動を取った記憶はないんですね。できるだけ尊重はしていたかったから。でも、対抗しているように受け止められる危険はあったと思うんですね。現に一度だけぶつかったんです。クリスマスの一番大きな集まりのときに、何で日程がぶつかってしまったのか覚えてないんですけど、会場の都合なのか、とにかく運悪く日が重なっちゃったんですね。これはえらいことになったと思って、でもやめるわけにもいかないし。あれは申し訳ないと思いながら、でも、結局そのままになっちゃった。疎遠になってしまったということありましたね。
それからもう一つ、「若草の会」が会費をすごく取っていたと、「4千円の会費を毎回」とどこかで誰か書いてましたね。私、それは勘違いだと。だって、当時の4千円というのはすごく高いですよ。4千円なんて、当時の私たちにはとても払えなかったと思う。だから何か勘違いがあるんじゃないかなと思いますね。確かに飲み物やつまみを向こうが用意なさるわけだから、会費は取っていたはずです。持ち出しというのは、無理ですもん。だけど、4千円というのはちょっと勘違いのような気がしますね。そんな会費を取るようなところではなかったと思います。
杉浦:「若草の会」は、いわゆる女役、男役がはっきりしていたという証言もあるんですけど、浜田さんにもそのように見えましたか。
浜田:服装が男っぽい、ボーイッシュ、要するにスカートじゃなくてズボンとか、それからひらひらスカートとか、そういうのもありましたけれども、話をしていて「俺」なんて言う人はいなかったと思う。確かにそういう傾向はあったと思いますけれども、それはその人その人のタイプというのと、それからその時代ってモデルがないわけでしょう。男っぽくしてみるとか、そういうふうになるのは、ある程度、やむを得ない時代だったと思いますよ。
話してみたらみんないい人ですもん。「俺は男だ」と思っている例外的な人もいましたけど、大多数はそうでもなかった。ただ、役割というのにやっぱり影響されている。その時代の常識があるわけだから、みんな大なり小なりその影響を受けて育つわけでしょ。だから、はっきりそれが駄目だと攻撃の対象になるとか、そういうことではなかったとは思います。
ただ、私たちも若かったし、「ブッチ」と「フェム」と言っていたんですけど、そういうのはあまり良くないんじゃないかという批判的な見方はしていました。それは確かにね。だって、リブというのはそういう役割分業を否定したわけですから。
■リブセンに出入り
杉浦:そうすると浜田さんの記憶では、まず「女のパーティ」を始めて、その後「レスビアンのためのアンケート」をしたという順番ですか。
浜田:アンケートのことは、言われるまで全然思い出せなくて、今でもほとんど覚えてないです。麻川さんのところに集まって騒いだことはありますね。それから『すばらしい女たち』を作るためのミーティングとか。その辺の順番の記憶はないんですよね。
ただ、麻川さんのところで集まったのは私も覚えてる。前後のいきさつは、麻川さんが言ってらっしゃるとおりなんだろうと思うんですけどね。パーティをやりだしたのとアンケートとどっちが先に始まったかというと、たぶんパーティのほうが先だったんじゃないんですかね。アンケートというのは、運動として具体化しているわけでしょ。パーティというのは、集まって騒ぐだけだから、まだ運動スタイルというところまで行ってないわけじゃないですか。たぶん、そういう話をしながら同時並行で集まったんじゃないかなという気がするんですけどね。麻川さんの家で騒いだのは1回だけだと思うんですけれども、ミーティングでは何度か行った記憶はありますね。
杉浦:麻川さんたちと集まっていろいろやり始めたときは、「女の運動」ではなくて「レズビアンのための」というところは明確になっていたんですか。
浜田:そうですね。麻川さんたちと話し始めたとき、テーマはそうなりました。私はリブセンに顔を出してはいたけど、どこかのグループに属していたわけでもない。だからリブセンに行くのはもっぱら麻川さんと話し合うというか、レズビアンのことで行っていたような気がします。それもはっきりと覚えてないんですけどね。だって、他のグループに参加していないわけだから、そのことで行く以外にないでしょ、たぶん。
杉浦:浜田さんは、リブセンとの関わりは、麻川さんと話をしにリブセンに行ったぐらいですか。
浜田:東京に移ってからリブセンに出入りしたのは、もっぱら『すばらしい女たち』がらみですね。その作業とかミーティングとかで通いましたね。
杉浦:勉強会とか読書会には参加されましたか。
浜田:全然覚えてないです。まったくリブセンと関係なく、婦人民主クラブで『招婿婚の研究』の読書会に参加していた記憶はあります。
杉浦:何という本ですか。
浜田:『招婿婚の研究』、高群逸枝。ご存じないですか。
杉浦:ショウセイコン?
浜田:要するに婿取り。平安時代は男の人が女の人のうちに通っていたわけでしょ。招婿婚っていうのは「しょう」は「招く」、「せい」はお婿さんの婿、「こん」は結婚の「婚」。『招婿婚の研究』の読書会には行ってましたけれども、レズビアン運動の関係で読書会をやった記憶はないですね。やったのかもしれないけど、全然覚えてない。
ついでに言うと、「まいにち大工」になってから講演会や勉強会をやったと誰かが書いているでしょ。あれも全然覚えてないんですよ。そんな立派なこと、やってたのかしらと思って。ミニコミを出すためにミーティングや編集会議をやったことは覚えているんですけど。
杉浦:「東京ユニオンチャーチ」に行かれたと織田さんがおっしゃっていましたが。
浜田:「ユニオンチャーチ」も全然知らないんですよ。織田さんからユニオンチャーチについて話を聞いた記憶がないんです。
杉浦:織田さんが1人で遊びに行っていたんですかね。
浜田:でしょうかね。私の大学時代は4年間、京都にいたわけで、東京へはたまにしか通っていませんでしたから、その間、織田さんは東京でそういう活動をやってたんだろうと思うんですけど。
杉浦:きっとそうですね。浜田さんがまだ京都にいらっしゃる頃の話でしょうね。
浜田:そう思います。ただ、リブセンにも外国人が何人も出入りはしてましたね。私たちのミーティングにも来ていました。
■「レスビアンのためのアンケート」
杉浦:「レスビアンのためのアンケート」については、何か覚えていることはありますか。
浜田:全然覚えてないんですよ。
杉浦:充実したアンケートで、これを中心になってやったのは浜田さんだと麻川さんはおっしゃるんですよ。
浜田:麻川さんは参加してなかったと書いてありましたよね。そうすると私と織田さんとでやったのかな。
杉浦:と思ってたんです。織田さんは織田さんで、もうこの頃には就職してすごく大変になってあんまりできなかった、しかもこういう作業は得意ではないと。
浜田:「レズビアン向けアンケート集計」のこの字は私の字ですね、確かに。こんなのやったんだ、私。
杉浦:ですので、ほぼ浜田さんのお仕事だろうというふうに。
浜田:でしょうかね。まるで覚えてないけど、そうですね、手書きの字は全部私の字ですね。誰かが手伝ってくれたと思うけど、思い出せません。
杉浦:こういう作業が得意なのは浜田さんだと織田さんもおっしゃって、麻川さんもおっしゃって。
浜田:得意というより、実務は一生懸命やるほうだから。
杉浦:麻川さんは、「アンケートは自分も関わって作ったにもかかわらず、後から見直したら違うなと思って、それで別冊にした」というようなことを書いてらっしゃって。
浜田:三人三様というか。麻川さんは本当に私とまったく違っていた。私は基本的に世間の常識が染みついている人間で、発想も常識的な枠から出られない。でも、麻川さんはまったくそういうところがなくて、発想が斬新。私が今まで発想したこともない、考えたこともない、思いつきもしなかったようなことを言われて、「はー」って感心するんです。麻川さんはユニークというか、私にとっては新しい、思ってもみなかったような発想をするので、重みがあったと言ったらおかしいですけど、存在感がありましたね。常識派から見れば批判の対象になりますよ、それはね。言うこと、することが常識から飛んでいるわけですから。でも、それがいいところだった。
たとえば『すばらしい女たち』に出てたでしょ。麻川さんが遅刻ばかりして私が爆発したって。あれは覚えてます。私は「時間を取らないでくれ」と言った。それまでの私の常識では、遅刻する、相手を待たせるということは、その人の時間を取ることだという感覚がありましたから。度重なる遅刻、しかも悪びれず平然としている。私の常識だと「遅れてごめんなさい」とか「仕事でちょっと遅れちゃった、ごめんなさい」と言うのが当たり前だろうと。そういうところが全然なくて平然と遅れてくるので、それが重なって頭にきたんですよね。それも常識的な反応だと思うんですけどね。
そしたら、麻川さんに「自分の時間を取られるというのはあなたの主観だ、待っている時間はあなたの自由に使えばいい、そんなものはあなたの責任だ」みたいなことを言われて、「言えてるな」と思ったんですよ。それから私もそういう発想するようになりました。だって、そうしたら人に待たされてもいらつかなくて済むし、その時間を自分が読みたい本を読むとか、したいことに使えればいいわけでしょ。これは本当に「なるほどな」と思った。だから、よく覚えてます。常識的な発想しかできない私が、少しずつでも常識では考えられなかった発想を身につけるようになったのは、得したなと思います。
杉浦:アンケートをするというようなアイデアは、どこから出てきたんですか。
浜田:それが思い出せないんです。ただ、74年くらいから麻川さんと織田さんと話をしていて、周りの小グループがみんなミニコミを出していましたから、ミニコミ、雑誌を出そうという話が最初だったかなと思います。それで、みんなどこにいるのか、みんなどんなことを考えているのかがわからないし、ちょっとアンケートをとってみようという話になった。誰が言いだしたのかは覚えてないんですね。たぶん、他の2人も覚えてないでしょ、それは。
杉浦:そうですね。曖昧というか。
浜田:50年も前の話だから。でも誰かが言いだしたというよりも、何人かで話しているうちにそういう話になって、ミニコミのようなものを出そうという話のなかで、アンケートの話も出たと思います。
杉浦:当時から、アンケートをとってみるというやり方は割とよくあったんですか。
浜田:私の周りは聞いたことないですね。知っているリブのグループで何かについてアンケートをとったというのは、見たことも聞いたこともないです。ただレズビアンの場合は、どこにいるのか、どういう人たちがいるのか、どんな状況なのか、どんなことを考えているのか、わからないわけでしょ。だから、そういう状況を最初にある程度知りたいねという発想は、当然出てくるわけですよね。それでアンケートをやろうということになったんだろうと思います。
ただ、麻川さんもおっしゃっているように、アンケートを具体的に作っていったのはたぶん74年あたりぐらいからじゃないかと思うんですよ。そんなにすぐにはできなかったと思うので。アンケートをやって集計するだけでずいぶんかかったと思うし、雑誌を作るプロセスに1年かかったと書いてありますからね。出たのが76年の11月だから、少なくとも75年の終わりぐらいからは雑誌作りを始めていたと思うんですよね。ということは、アンケートは75年にやっていると思うんですよね。
ただ、後でアンケートの具体的な中身が問題になったわけですね。それも覚えてないんですよ。何が問題になって、どんな話し合いになったのかは、具体的には全然覚えてなくて。ただ、記事[1]を読んで、そういうことがあったのかなと思った。読み返して、いや、ちょっと参りましたね。あの批判は、当時の私としては当たっていると思ったと思います。とくに麻川さんの批判の後半、この質問はこうじゃなくてこうしたほうが良かったんじゃないかという対案は、今読んだら、全部納得できますもん。彼女のほうが言っていることは正しいと思います。
もし麻川さんがああいう発想をもっと早くに言葉にすることができていたら、というのはありますね。でも、麻川さん自身がおっしゃっているように、その当時はそれを言葉にすることができなかった。アンケートができて、あらためて読み返してみて、批判が言葉になって出てきた。それはやむを得なかったんでしょうけど。それもあのアンケートをやったから、批判をはっきり表現できるようになった。そういう意味でもメリットはあったんだろうと思いますよ。
それと、麻川さんが継続して言っているのが、アンケートの内容がネガティブ、暗い、ということでしたよね。それは、私自身がかつて非常に苦しんだ時期があったし、そういう人が多いだろうという思いがやっぱりあった。だからああいうトーンになったと思うんですね。それが一概に間違っていたかというと、間違っていたわけではないと思う。それは、みんなが麻川さんみたいな人じゃないから。常識に縛られて苦しんでいる人たち、かつての私のような人たちもけっこういたと思うし、現にいましたからね。だから、あのアンケートそのものは間違っていたということではなかったと思いますね。それはそれで、私たちが今の状況を知ることができた、それによって輪が広がった、いろいろな人が知り合うことができた。そういうメリットもあった。それから、結果として、麻川さんが指摘したような問題点があったことを知ることができた。やる前とやった後では、私も含めてみんなが一歩前進した、成長したというのはあると思います。
杉浦:そう思います。麻川さんのおっしゃることもわかりますが、何に困っているのかを調べるのは必要なことというか。
浜田:一つのアンケートだけで全体を知るのはやっぱり無理ですね。いろいろな角度からのアンケートが必要なんだろうと思います。ただ、その当時の浜田は、そんなこと、わからなかった。とにかくやってみようで走ってますから。
杉浦:アンケートは手書きでまとめられていたので、すごく時間と労力がかかっただろうなと想像しているのですが。
浜田:全然覚えてないんですよね。狩戸さんの原稿を読むと、私が必死で頑張っていたと書いてあるんですけど。ただ、たぶん私は好きでやっていたと思いますよ。ああいう実務、とにかく仕事が好きだから。とくに自分たちがやりたくてやっていたことでしょ。責任感とか義務感とかではなくて、好きでやっていたんだと思いますよ。
[1]『すばらしい女たち』の別冊「〈レスビアンに関するアンケート〉集計とレポート」(1976)に収録された麻川まりこ「今ちょっと思うこと――アンケートへの疑問」、河原狩戸「みんなで雑誌をつくってみた……。」
■座談会
杉浦:アンケートをもとにした座談会を開いて、それを掲載した『すばらしい女たち』が作られた、ということなのですが、座談会のときのことは覚えていらっしゃいますか。
浜田:それは何回かやったんですよね。1回じゃなくてね。私の記憶にあるのは、リブセンの居間みたいなところに車座に座って、いろんな人がいろんなことを言っていた。その参加者の顔を2、3思い出すぐらい。人数は覚えていませんけど、車座としてけっこう大きかった気がします。
それと、もう一つ覚えていることは、私のなかでのちに問題になったんですけど、アメリカ帰りのレズビアン・フェミニスト、思想的、政治的にレズビアンを選択したという人たちがいて、それはちょっと違うだろうという受け止め方をした。私もそうだったし、沢部(ひとみ)さんもそうだったみたいね。(出雲)まろうも反発していたみたいですね。
性格的に主張が強い人も、穏やかに人の話を聞く人も、いろいろなタイプがいましたけど、結局『すばらしい女たち』の1号を出してからすぐに解散した一つの原因は、とてもやっていけないというか。1人、政治的、思想的選択の立場の人がきゃんきゃん言うものだから、「ちょっとやめてよね」みたいな感じになったのは覚えています。こちらは「そうじゃないでしょ、レズビアンは政治的な選択や運動の手段じゃないでしょ」というのがありましたからね。
レズビアン・フェミニズムの主張そのものは私も勉強しました。政治的選択でレズビアンになろうと、運動とは関係なく女が好きだという自覚から始まった人だろうと、レズビアンであれば世界から受ける差別や侮辱、偏見、社会から受ける攻撃は同じなわけですね。だから、その違いをどうのこうの言うことはおかしいし、手をつないで協力してやっていけるんじゃないだろうかと、一生懸命考えましたね。
でも、頭で一生懸命考えて原稿[2]にもそのようなことを書きましたけれども、感情がついていかない部分がやっぱりありました。少なくとも私自身は、政治的な運動の手段としてというのは、間違っていると思うから。でも、そのときにはそれを間違っているとは言えなかった。ただ感情的におかしいというだけでしたからね。あの頃は、アメリカのレズビアン・フェミニスト、セパレティストの情報がすごく入ってきた時期なんですね。それに対して、私はやっぱり感情的におかしいというのがあった。その人たちの主張は、何となくおかしいと批判的に受け止めていて、それを日本に持ち込もうとするのもおかしいと思っていたんです。
これは、このインタビューを受けるという話になってから思い当たったことなんですけど、アメリカってすごくミソジニー、女の人に対する憎悪、軽蔑、おとしめが、日本では想像つかないぐらい厳しいものがあったという話を聞いたことあるんですよ。だから、そういう社会ではレズビアン・フェミニズムやセパレティストが起こる基盤があったんだろうと思うんですね。
でも、日本ではアメリカのようなひどいミソジニーではなかったのではないかと思うので、やっぱりそれを丸ごと日本に輸入していくことに感情的な反発を感じた。というのは、理論化できていなかったけれども、その反発は、ある程度は自然だったんじゃないかと思うんですね。当時はアメリカにそんなにひどいミソジニーがあるなんて、知りませんでしたからね。
杉浦:当時アメリカの方もいらっしゃったようなんですけど。そういう方たちは……。
浜田:その方たちはそんなにセパレティスト的な主張はしてなかったように思いますよ。レズビアン・フェミニストだけれども、それを政治的に選択したという感じはしなかった。
杉浦:アメリカでレズビアン・フェミニズムやセパレティズムのことを摂取して日本に持ち帰った日本の人に。
浜田:そういう人がいましたね。
杉浦:さきほどちょっと勉強したとおっしゃっていましたけれども、アメリカのレズビアン・フェミニズムとかラディカル・フェミニズムに関連する勉強会とか、そういうのにも浜田さんは参加なさったんですか。
浜田:それもよく覚えてないんですけれども、少しぐらいは読んだんじゃないかなと思いますけどね。もちろん英語じゃなくて。英語がすらすら読めるほどの力はなかったですから、翻訳された部分を読んだり、話を聞いたり、そういうことはあったと思います。
杉浦:『すばらしい女たち』に浜田さんが書かれた記事については注目をしていて、そこでは「積極的同性愛」と書いてありました。思想的に女性との関係を選んだ人たちと、運動に参加する前から女性への思いを自覚していた人たちは違うというようなことが書かれていて、当時その違いが先鋭化する場面があったのかなと想像していたんですけれども……。
浜田:それが先鋭化するということは、表面的にはなかったと思います。だって論争になりませんもん。感情的におかしいとは思っても、それに対して反論できる理論はもっていない。それはおかしいと言っても、なぜおかしいのかを論理的に説明できませんから、論争にはならなかったと思うんですよね。ただ、「うーん」っていう感じでとどまっていたと思いますね。
杉浦:じゃあ、けんかしたとか対立したとかというのではない。
浜田:そういうことではないですね。
杉浦:でも、あの人たちとはちょっと違うなという感覚はおもちだった。沢部さんやまろうさんも同じようなことを。
浜田:そうですね。でも「それはおかしいよね」って話し合った記憶もないんですけどね。そのときの私は「それは絶対に間違っている」とも言い切れなかった。新しい考え方には、ひょっとしたら一理あるのかな、そういうこともあるのかなって一生懸命考え出していたから。だから、けんかにもならなかったし論争もできなかったけれども、作業のプロセスで発想の仕方が違うというのがそれぞれ明らかになってきましたから、それで『すばらしい女たち』ができたとたんに解散してしまった。いわゆる政治的なレズビアン・フェミニストの人たちとは一緒にやれないと思った。いっときは苦しんだという共通の経験がないわけだから、話していて共感をもてないわけですよね。それで私たちは「まいにち大工」を作ったんだと思います。
杉浦:創刊号でやめにしようということは、みんなで話し合って決まったんですか。それとも何となく自然消滅したのか。
浜田:自然消滅ではなかったと思います。ただはっきりと「じゃあこれでやめましょう」と話し合って決めた記憶もないんですけどね。それぞれの違いがあって、これ以上は一緒にやっていけないなという感じははっきりありましたからね。それで、暗黙のうちに解散しちゃったのか、それとも明示的に解散したのか、そこまでは覚えていないんですけども。
杉浦:麻川さんもその後、映画祭のほうに全力投球して。
浜田:映画祭は私たちも参加しましたよ。麻川さん、中心になって頑張っていた。麻川さんたちが中心になってTシャツを作ったり、それから麻川さんがカメラを回す勉強にいったのかな。映画祭はみんな一緒にやってましたよ。私は映画祭の看板描きもやりました。入り口に出す大きな看板を、江戸文字で。「女たちの映画祭」の宣伝も一生懸命したし。だから、個人的にけんかしてバイバイしたわけじゃないんですよ。
杉浦:じゃあ、「まいにち大工」を始めた皆さんと麻川さんが一緒に?
浜田:「まいにち大工」として参加したのではなく、個人参加だったように思います。
[2]田部井京子(1976)「わたしの歩いてきた道」『すばらしい女たち』創刊号、44-48
【まいにち大工】
■発足の経緯
浜田:「まいにち大工」ではミニコミを出したり、「女のディスコ」とか「女のパーティ」をやったり。あれで知り合いの輪が広がった。「女のパーティ」でいろいろな人と友達になった。あれはすごく大きかったなと思いますね。
杉浦:「まいにち大工」の発足の経緯について教えていただけますか。
浜田:『すばらしい女たち』を読んだり、アンケートに答えたりした人と知り合って、交流ができたというのがありますね。『すばらしい女たち』のメンバーと「まいにち大工」のメンバーとは半分ぐらいしか重なってないと思うんですよ。『すばらしい女たち』から参加したのは、私、織田さん、まろう、岩田さん。比命さんとか一休さん、それから真矢さんは、少なくとも『すばらしい女たち』のときには知り合いではなかったような気がする。どこかの段階で知り合った人たちだと思うんですね。
杉浦:じゃあ、何となくみんなで。
浜田:「まいにち大工」は自然発生的に集まったんじゃないですね。知り合いと話しているうちにそういう話になったというのではなくて、意識的にグループを作ったと思います。
杉浦:『ザ・ダイク』の1号に「まいにち大工」の方針が載っていますが、グループの目的が明確になっていて、その辺が『すばらしい女たち』とは違うところかなと思っていたのですが、あれは誰が書いたんでしょうか。みんなで相談して書いたとか、ご記憶にありますか。
浜田:行動基準みたいなのは、みんなで話し合ったんだと思います。でも、たたき台を誰が書いたかは覚えてないですね。誰かたたき台を書いたはずですよね。話し合いのなかで出てきたのか。それを誰かがまとめて、話し合って、というふうに決めたんだろうと思うんですけど、その辺もはっきりと覚えてないですね。誰かが書いてきて、これで決めますということはしなかったと思います。
杉浦:主な活動として、女のパーティや勉強会、講座を主催したということなんですが。
浜田:まろうさんはそう言ってたんだけど、そんなに立派なことやったかしら。全然覚えがなくて。パーティはやった、それは覚えてるんですよ。でも、講演会をやったのは覚えてないんですよね。
■「まいにち大工」のアピール文
杉浦:女の集会で読み上げられた「まいにち大工」のアピール文はどのように作成したのかは覚えてらっしゃいますか。
浜田:たぶん誰かがたたき台を書いて、それをみんなで検討して作ったんだと思うんですね。
杉浦:そうですか。シャープな文章で主張がぎゅっと詰め込まれているので、引用させてもらったんですけれども。
浜田:ずいぶん攻めのアピールですね、あれはね。普通、誰かがたたき台を書いてきて、みんなでそれを読んで、ここはこうしたほうがいい、これを足したほうがいいとか、それで決めていくと思うんですね。たたき台がないと話が進まないから。でも、それを誰が書いて最終的に誰が清書したのかは全然覚えてません、すみません。
杉浦:いえいえ。
浜田:織田さんか私か、どちらかがたたき台を作って、最終的に清書したと思うんですけどね。どちらかだったとは思いますけど。書きそうなのはその2人だから。織田さんだったような気がします。
杉浦:織田さんが『ザ・ダイク』の創刊号の冒頭に寄せている文章[3]があるんですけれども、それも攻めの文章だなと感じます。浜田さんの文章[4]は淡々と理知的に進められるような文体なので、対照的だなと思って。
浜田:そうかもしれませんね。それぞれ人の性格とか持ち分とかがあるから。織田さんがどこかで言っていたみたいに、私、優等生でしたからね。優等生的な文章を書いちゃうんですね。そんなにはっとするような文章が書けない。
杉浦:あと、浜田さんが『ザ・ダイク』の創刊号に寄せていた文章で、ボーヴォワールや森崎和江を引用しながら書かれていて、その辺の思想は当時の女性たちにかなり影響があったんでしょうか。
浜田:全体的にどうだったかは知りませんけれども、私自身は大学時代に、私たちのグループのみんなもそうですけど、森崎和江はずいぶん読みました。たぶんほとんど読んでいます。ボーヴォワールの『第二の性』は、高校時代に読んで、それで目からうろこ。それ以降、ボーヴォワールの他の作品を読んだ記憶はないんですけれども、森崎和江はずいぶん広く読まれていましたよ。
京大でも一度、森崎和江を呼んで講演会を開いたことありますから。私たちが呼んだわけではないけれど、実行委員が呼んだ。ですから、大学生全般に広く読まれていたと思います。
杉浦:そうですか。浜田さんもその講演会で森崎さんのお話を聞いた?
浜田:もちろん聞きました。内容は覚えてないんですけどね。行ったことは覚えてます。
杉浦:森崎和江さんはリブに影響を与えたんでしょうか。
浜田:それはまた別の角度だったと思いますけれどもね。森崎和江さんはご自分の著作に「私は骨の髄まで男が好きです」と書いてらっしゃる。でも、彼女自身が、生き方の強さ、思想が、女性についての考え方を打ち壊すものだったと思うんですね。女の生を全力で捉え直そうとするものでした。田中美津さんのリブと直接関係はないのかもしれないけれども、広く読まれていました。田中美津さんは、あの人の書いた「便所からの解放」とか「ニュー便所からの解放」、リブはあれが起爆剤になったという感じです。あれは歴史に残るだろうなと思いますよ。
杉浦:あと、当時マルクス主義に関する本も大学生はかなり読んでいたんでしょうか。
浜田:どうなんでしょう。私自身は読んでません。だって、すごく分厚いし、難しそうだったし、あんなの読むの、面倒くさいって。それに私自身は個人的には共産主義とかに興味があったわけではないですから。だからマルクス主義にも興味はなかったです。
杉浦:当時の文章を読むと私有財産制とか、そういう言葉が当たり前に使われているので……。
浜田:そういう言葉、そういう断片的な知識は大体みんなもっていたと思います。本格的には読んでいないというだけでね。
杉浦:あと当時の本で、駒尺喜美さんの『魔女の論理』を『ザ・ダイク』のなかで浜田さんも紹介していましたが、駒尺さんの『魔女の論理』も、かなり読まれた本でしょうか。
浜田:どのぐらい広く読まれたかはわからないんですけど、私の周りの人たちは読んでいたと思いますけどね。
[3]織田道子「闘う女たちへ」『ザ・ダイク」創刊号、3ページ
[4]田部井京子「解放への理論的こころみ――わたし自身の創刊の辞」『ザ・ダイク』創刊号、4-5ページ
■労働運動へ
浜田:私は「まいにち大工」の頃から鉄連[5]の7人を支援する会(「鉄連の七人と共に性による仕事差別・賃金差別と闘う会」)に関わっていたんです。78年ぐらいから。それから79年に「私たちの男女雇用平等法を作る会」というのができるんですね。それに参加して、私はその運動に集中するようになりました。
その頃、同時並行的に「国際婦人年をきっかけとして行動する女たちの会」という長い名前の、一口で「行動する会」と言ってましたけど、それができたのが75年ですね。「行動する会」には参加しなかったんです。というのは、有名人が集まっていて、私たちはそういうのが好きじゃなかったから。とにかく私たちは、偉い人たちじゃなくて、無名の、偉くない人たちで一緒にやるのが好きだった。だけど、その頃から雇用差別はすごく気になってましたからね。だから「鉄連の会」に参加した。
なぜそういうつながりができてきたかというと、大きかったのは「女の集会」ですね。レズビアンたちの集会ではなくて、リブの集会。70年代後半から80年代ぐらい、女の集会がけっこう開かれましたよね。織田さんの原稿を見ていて思い出したのは、ある大きな集会で「まいにち大工」がアピール[6]に出た。あれ大きかったと思います。
というのは、私が「雇用平等法を作る会」や「鉄連の会」に参加したりしたときに、「まいにち大工」というのが全然抵抗なかったですからね。変な目で見る人がいるとか、そういう経験は一切なかったですから。別に無視もされず一定の尊重というか、対等な関係でというか、運動仲間として一緒にやっていくというスタンス。リブセンの最初の頃に麻川さんが受けたような、織田さんが感じたような、そういう偏見はなかったですから。「鉄連」にしても「雇用平等法の会」にしても、そういう経験はもうなかったから。
「まいにち大工」の働きかけによって、女全体の運動のなかで、たとえ十分に理解しなくても、基本的にレズビアンを仲間として受け入れるような姿勢というんですか、そういう偏見をもってはいけないという意識は広がったと思います。あれは大きかったと思いますね。
杉浦:「まいにち大工」がどうして終わってしまったのかは。
浜田:それも一生懸命考えても、思い出さないんですけどね。でも、まろうさんが言ってましたよね。ヒエラルキー、上下関係みたいなのができてきて、それが嫌でやめたと。私自身は全然覚えてないんですけれども、まろうさんがそう言うのであれば、そういうふうに感じられることはあったんだろうな。とすれば、考えられることは、私とか織田さんとかがかなり頑張っちゃって主張してしまったのかな。
ただ、まろうさんが「毛沢東はこう言っている」と批判されたというのは、あれはきっと他と混乱しているんだと思いましたけど。あのメンバーで毛沢東を持ち出すような人はいなかったと思うから。リブセンならいたかもしれない。「まいにち大工」のグループのなかでそういうことを言いそうな人って、心当たりないから。私の記憶間違いかもしれませんけど。みんなちゃんと覚えてたり、記憶が混乱してたりがあると思うんですよね。
杉浦:あると思います。
浜田:とにかく古い話だから。
[5]新日本製鉄などの鉄鋼会社がつくっている日本鉄鋼連盟のこと。
[6]「『まいにち大工』アピール全文」(『ザ・ダイク』2号、13ページ)。集会でのアピールの様子は、田部井京子「一・二八集会手前みそレポート」(『ザ・ダイク』2号、12ー13ページ)の報告にくわしい。
【パーティを主催する】
■女のパーティ
杉浦:『すばらしい女たち』の頃に「女のパーティ」を始められたと。
浜田:たぶんそうだと思います。はっきりこうですとは言えないのは、とにかくそんなによく覚えてないので。ただ、『すばらしい女たち』の編集のためにみんなが集まっていたときに、そういうパーティってやっぱりやりたくなるでしょ。ときには遊びたいというか、楽しくわーわーやりたいとか、最初はその延長でやったと思うんですね。それからいろんな人に声を掛けて始まったんじゃないかなと思うんです。
つまり、最初にやったときに、これから女の集まる場を作るんだと意図的に作ったというより、自然発生的にやった。それがどんどん広がったという流れだったように思うんですけどね。2回目、3回目ぐらいから意図的に、意識的にやりだしたんだろうと思いますけど。
杉浦:レズビアンオンリーではなくて、女の運動に関わっていた人たちも含めて、割と広く。
浜田:そうだったと思いますよ。最初の頃は、場所をあっちに借り、こっちに借りして、何カ所か転々とした覚えはあるんですね。そのうちに「JORA」というスペースが開いて、それでそこを借りてやるようになったんだろうと思うんです。
ただ、私がはっきり申し上げられないのは、「まいにち大工」は78年に2回『ザ・ダイク』を出して、その後解散したわけですよね。そうすると、それ以降の「女のパーティ」は、「まいにち大工」の主催ではなくなっているはずなんですよ。ただ、グループとしては解散したけれども、友達だし仲間だし、そのうち別の人も加わって、そういうパーティをやったんだと思うんですけどね。JORAができたのが?
杉浦:78年とか。
浜田:そうしたらその頃から。それでもJORAでそんなに何回もやった記憶もないんですね。かなり大きなパーティをやった記憶はあるんですけれども、JORAでそんなに長くやっていたかどうか。
「ホーキ星」はけっこう前からあったと思います。マーちゃん[7]が高校生のときに「ホーキ星」で会ったし、78年頃はけっこう知り合いがわーっと増えたときだったのかな。78年頃は、『すばらしい女たち』のときには知らなかった人たちも「まいにち大工」にけっこう来てましたから。それからパーティも大きかったと思います。いろんな人が来て、いろんな人と知り合って友達になって、いわゆる運動だけじゃなくて、一緒に遊びにいったりとか、そういうこともあったと思いますから。
「まいにち大工」が解散してからは、運動グループで何か働きかけることはあまりしなかったと思うんですけど、パーティだけは続いていた。出入りしていた人たちも、運動関係というわけではなくて、女だけのパーティだってうわさで聞いて来るんでしょうね。ほとんどがレズビアンで、ずっと続いていた。
杉浦:昨日お送りした年表[8]の中に。
浜田:見ました。
杉浦:あれもどこまで正確なのか、わからないんですけれども。
浜田:そうですね。少なくとも「日御子」の記載は間違いなので。
杉浦:その年表のなかに、1982年「新宿のゲイ・バー『祭』で毎週月曜日、女性だけのパーティを開始」とありますが。
浜田:これ私、全然知らない。お話に出ましたから申し上げるんですけど、この情報、聞いたことないんですよ。だから、お互いの交流とか全然なかったのが不思議だなと思って。同じ新宿でしょ。
杉浦:はい。
浜田:まだ「マーズ・バー」なんかもなかったから、情報交流の場所がなかったということもあるんでしょうけど。もしお互いにやっている話を聞いていたら交流はあったはずだから、それがなかったということは、完全にどちらも知らなかった。「祭」でやってらっしゃった方たちと「女のパーティ」と、情報が遮断されていたということになりますね。
杉浦:その次の83年に「シスターフッドの会、レズビアンのディスコ『スペースダイク』を開店」という。
浜田:これも全然知らないんですよ。これを見て「えー」って思ってたんです。
杉浦:「シスターフッドの会」はWさんがやってたっていう証言が。
浜田:え、そうなんですか。私、Wさんなら知ってますよ。ほんとに? 今初めて聞きました。Wさんはよく知っています。一時期、友達づきあいがありましたから。
杉浦:82年に「シスターフッドの会」を立ち上げて、何号かミニコミ誌を出していて。
浜田:そうなんですか。何でそういう情報が入らなかったんだろう。だって全く知らない人じゃなくて、かつて交流もあった人ですから。
杉浦:『ザ・ダイク』の後の80年代前半の状況がよくわからない感じではあるんです。
浜田:そうですね。78年に2号を出してから解散して、でもつながりはあって、パーティはやっていて、私は私で78年ごろから別の活動のほうにいっちゃうから、レズビアングループとかレズビアンの運動そのものからは離れていくんですけど、パーティはやっていた。ただ、ブランクがあったのか、ずっとどこかで続けていたのか、それは記憶にないですね。
「女のパーティ」は、まろうさんは82年ぐらいで終わったように言ってますけど、86年ぐらいまでは続いたはずです。なぜかといいますと、新宿2丁目のスナックを毎月貸し切りで借りて、ドリンク1杯付きで500円くらいの会費を取って、2杯目以降はお店が直接売る、お店もその分の売り上げがあるというかたちでやりだしたんですけど、終わってからの2次会にマーズ・バーに流れた記憶があるんです。マーズ・バーの開店は、調べたら85年の12月になってますよね。マーちゃんっていう、若い友達がマーズ・バー開いて、最後のほうは終わってから2次会にマーズ・バーに流れることがあったから、少なくともその頃まではやっていたはずなんですよ。少なくとも86年ぐらいまでは続いたと思います。
杉浦:じゃあ、「まいにち大工」としてはやっていないけれども、80年代まで続いていたということですよね。浜田さんは「女のパーティ」の参加者として行ってたのか、それともパーティを主催するほうでしたか。
浜田:主催者のほうです。主催グループ、あの頃には4人ぐらいいたのかな。つまみとかの買い出しとかいろいろ必要でしょ。会費を精算したり。それからその時代はコピーの時代でしたから、白紙に手書きで会計報告とか次のパーティの案内とかを書いて、B5ぐらいの大きさだったと思う、それをコピー屋でコピーして。いわゆるコンビニね。その頃にはコンビニができていましたから。それを出していました。
なぜ終わったのかは覚えてないんですけど、86年か87年ごろの初めだったような気がする。雇用均等法ができたのが85年で86年施行でしたよね。あの頃は一つの何か区切りになっていたような感じかな。結果的にでしょうけどね。
[7]1985年「マーズ・バー(MARSBAR)」を開店
[8]「特集 1971~2001 コミュニティの歴史」(『anise』2001夏号)に掲載された年表(29-32ページ)
■日御子
杉浦:「日御子」という名前は。
浜田:新宿2丁目のスナック、サザエを借りてやりだしたときに付けたんです。これは私が付けた。それは覚えてます。
杉浦:どのような思いを込めて。
浜田:日本歴史と邪馬台国の卑弥呼、ただし、字は変えてお日さまの子どもですよ。「元始、女性は実に太陽であった」。そのお日さまの子どもです。それと、日本歴史に出てくる最初の女王ね。
杉浦:お日さまの御子ですね。
浜田:そうです。あんまりセンス良くないけど。とにかくサザエを借りてやりだして、そこに定着して、名前も最初から付けたんですね。
杉浦:サザエに定着した頃には、レズビアンオンリー、レズビアン主体でという。
浜田:レズビアンオンリーというふうにはしていなかったけど、女性オンリーではあった。でも、大多数はレズビアンだったと思います。「日御子」は30人やそこらは入ったかな。いつも満杯でした。40人、50人は入らない場所だったと思うけど、でも、そのぐらい来たかもしれない、すし詰めでした。ほとんどは、私が初めて見る顔やよく知らない顔。前からの知り合いは、割合としては多くなかったんですね。
どこからか話を聞いてやってきたとか、うわさを聞いてやってきたとか、そういう新しいお客さんが多かったと思います。変なのが入ってきたら困るということがあったので、スタッフはフロアマネジャーみたいな感じで、へんなことをする人がいないか、さりげなく会場を監視していた。それから「写真を撮らないでください」って。うわさを聞いて紛れ込んでくる取材も警戒したし。そういうのは気を付けていました。
杉浦:じゃあ、広報を大々的に打つとか、そういうことはもちろんできず、ほんとにうわさで。
浜田:そういう感じですね。どこで聞いてくるのか、とにかくうわさを聞いてやってきたという人がけっこう多かったですね。「日御子」にはアメリカ人とか外国人もけっこう来てたんですね。そこで友達になったアメリカの軍人さんがいて、その人がアメリカに帰ってから遊びに行きました。88年に、コッド岬のプロビンスタウンという町に。
杉浦:それは月1回のペースですか。
浜田:月1回、土曜日の夜です。お酒や飲み物を作るところにお店の人がいて、2杯目からは店が直接売り上げるというかたちでした。場所代プラス売り上げでお店に貢献していました。私たちスタッフは、たぶん4人か5人かぐらい。ボランティアだったから、スタッフの私たちも入場料を払っていたんですよ。だけど、スタッフはけっこう大変でしたから、さすがに半年ぐらいたったら、入場料ぐらい払わなくてもいいかしらねってなりましたけど。
それから、やり始めてからしばらくして、すごく儲けているんじゃないかみたいな声が耳に入ったので、それはびっくりしました。そういう発想したことなかったから。変に思われるのも嫌だから、それからきちっと毎回会計報告をした。それから、赤字にならないで少しずつ繰越金が貯まっていたときには、クリスマスに繰越金で小さなプレゼントを用意して、みんなに配った記憶があります。
杉浦:入場料はいくらぐらいだったか。
浜田:飲み物付きで500円だったと思います。
杉浦:安いですね。
浜田:高くはなかったと思うけど、その当時ではどうなんでしょう。大体はとんとんで、赤字までは出なかったと思いますね。繰越金が貯まったら、貯まった時点で皆さんにそういうふうに還元するというふうにやってきました。
杉浦:何年ぐらい続けたのかは。
浜田:それがよく覚えてないんですよ。いつから始めたか覚えてないので。3、4年続いたのか、4、5年続いたのか、そのぐらいですね。1年や2年で終わりはしなかったと思います。
杉浦:それを月1回続けるっていうのはかなり大変ですね。
浜田:そうですね。けっこうしんどかったけど、みんな若かったからね。毎週じゃないから。毎週だったら、とても持たなかったと思いますけど。
杉浦:浜田さんご自身が「日御子」から離れた理由は覚えてらっしゃいますか。
浜田:それもずっと思い出そうと考えていたんですけれども、「日御子」がなぜ終わったのか、その経緯が思い出せないんですよ。でも何か特別な事件があったとかだったら覚えていると思うので、疲れちゃったのかな。わからないですけど。誰かが都合が悪くなって抜けなくちゃいけなくなって、そうすると後の人たちの負担がすごく重くなって、それでやめたということもあり得るし、いろんな可能性がありますけど、何かもめてやめた記憶はないですね。そういうことではなかったと思います。私自身は「日御子」をやめてからは、レズビアンの運動からは外れました。
杉浦:浜田さんは、90年代の「アリス」とか、GOLDでの「モナリサ」とかは。
浜田:それも全然知らないです。なぜ情報が入らなかったのか。私もこの年表をいただく前に、織田さん、まろうさん、沢部さん、麻川さんのインタビューを読ませていただいて、少しはそうだったとか思い出すこともあったんですけれども。
【私たちの男女雇用平等法を作る会】
浜田:私自身は78年ごろから「鉄連の7人を支援する会」とか、79年には「雇用平等法を作る会」ができて、そこに入った。雇用上の男女差別。就職差別とか、女の人は常に補助職であるとか、それから賃金差別ももちろんそうです。そういう労働問題のほうで活動するようになった。それで「JOKI女性解放合同事務所」という、固い名前ですけど、それができたのがいつだったかな。
杉浦:JOKIですね。
浜田:いろいろなグループ共同で事務所を借りて。若松町だったかな。曙町から降りて歩くところでした。いろいろなグループや連絡会が入っていて、「雇用平等法を作る会」もそこを拠点にしていた。だから、いろいろな情報が入ってこなくちゃいけない場所だったはずなんですよね。
だけど、この後に出てくるようなレズビアンのグループ、織田さんが始めた「レズビアンフェミニストセンター」や「れ組」も一切知らなかった。耳にしていれば参加するとか、連絡を取るとか、たとえばミニコミ誌を取るとか、そういうことはしたと思うんですけれども。何でしょうね。運動の領域が重ならなかったんでしょうね、たぶん。でも、優生保護法改悪阻止の連絡会議もそこでやっていたし、社会党系の婦人団体なんかもそこに来ていたし、いろんな人たちが出入りしていたんですけどね。
杉浦:じゃあ、その頃には浜田さんはレズビアンのグループにあまり関わっていなかったんですね。
浜田:なかったです。ただ、「雇用平等法を作る会」に、私以外にもう1人、レズビアンがいました。その人とは時々、「作る会」のテーマ以外のことで話をしていたんですけど。レズビアンのこととか、一緒に暮らしている人のこととか、将来の計画とか、そんな話を聞いたりした覚えはあります。
けれども、運動のテーマそのものは違いましたから。「雇用平等法を作る会」は、たとえば法案を作ってあちこち働きかけたり、就職差別に反対するハンストをやったりした。社会党の当時の副委員長の田中寿美子先生に2回ほど呼ばれて、私たちの雇用平等法案についてお話したり、けっこう動いていたんですね。
杉浦:その「雇用平等法を作る会」は78年ぐらいにできた。
浜田:結成そのものは79年ですね。鉄連のほうはその前に発足していて、78年かな。
杉浦:鉄連の賃金差別と闘う会は、裁判ですよね。
浜田:そうです。裁判支援もやっていました。
杉浦:これはどういう判決になったんですか。
浜田:あれはね、最終的には調停か和解だったと思います。判決じゃなくて。途中で方針が合わなくなって弁護士が代わるんですけど、とにかく裁判長の調停かで和解になったと思います。ある程度こちらの主張を認めるかたちで。
杉浦:「雇用平等法を作る会」というのは、「均等法を作る会」というか。
浜田:均等法じゃなくて、平等法。
杉浦:それが後の均等法につながる運動ですか。
浜田:いえ、均等法に対しては、私たちは敗北宣言を出しましたから。私たちが主張していたのと全然違う法律ができた。均等法では、多くの項目が努力規定だったんですね。赤松良子さんの気持ちもわからないではなかったんですけどね。赤松さんとは2、3度お話したこともありますけれども、内心では、立場や気持ちもわかりました。あのかたちでしか手を打てなかったと思いますよ、現実にはね。だけれども、運動する側としては「一歩前進しました」とはとても言えなかった。
現にあれから後、職種を分けることによって、つまり総合職と一般職という女性差別の新たなかたちができた。形の上では平等、でも実質的にはそのまま、一般職と名前を変えたにすぎない。だから、その当時、私たちの主張からは、これは受け入れられないということで、敗北宣言を出して解散しました。
ただ、「行動する会」と「作る会」とは別組織で、「作る会」は平等法、就職や雇用に関するだけの別のグループでしたから、「行動する会」はいろいろな分科会があって、そちらの活動はずっと続いていた。私自身は「行動する会」のメンバーにはなっていなかった。「雇用平等法を作る会」が解散したのが、85年頃だったんでしょうね。それからも何かに関わっていたような気はしますけど、ちょっと覚えてないですね。90年ごろには、もう関わっていなかったかな。
杉浦:「平等法を作る会」は、「差別を禁止する」という禁止規定を入れることをめざした。
浜田:もちろんそうです。それから労働時間を削減していく、今で言うワークライフバランスですか、そういう提言もしていた。今でこそ言われているようなことをその当時から言っていました。
運動をしているプロセスで、いろいろな集会があるでしょ。歌ったり踊ったりというのもありましたよ。そういうのは覚えています。何かの大きな集会で、舞台でお芝居をしたり、歌ったり。当時、ジャズダンスも習っていたから。JORAにジャズダンスのクラスがあって、そこに私たち仲間うち、レズビアンも多かったしリブも多かった、そういう人たちがジャズダンスを習っていた時期があるんですね。そのグループが舞台に出て、自分たちで振り付けたピンクレディーの替え歌を踊ったり、そういうこともけっこうしましたね。
杉浦:浜田さんは、女の問題に関する運動に集中していきますけれども、その間、同性愛とかレズビアンに対する差別の問題については、どのように感じられていたんですか。
浜田:女の雇用問題を中心にして、そちらの課題に取り組み始めた。その運動仲間は、「まいにち大工から来た浜田」という感じですんなりと受け入れた。まだありましたからね、「まいにち大工」。抵抗とか偏見とかは、私自身は全然感じなかったし、運動仲間というか、話の合う、意識の合う友達。合うから一緒にやっているわけで、レズビアンであるということに関しては、別に問題も感じなかった。
ただ、その問題を取り上げて話し合うということもしませんでしたね。もし誰かが偏見を持ち出したとしたら、たぶんそこでそういう話になったと思いますけど、そういう引っかかりがなかったから。そういうことを直接話題にする必要もなかった。そんな感じでしたね。
杉浦:女の運動のなかではそういう感じ。でも一歩外に出るとそうでもない感じだったのでしょうか。
浜田:あとは、職場だけですからね、私の生活の場は。職場ではそういう話は一切しませんでした。ただし、2人、3人かな、この人は信用できると思った人には言ってます。それは問題なくというか、それによって私が思ってもみなかった反応をされることはなかったし。
杉浦:じゃあ、レズビアン解放とかレズビアン差別に抵抗する運動に関わるようなモチベーションが。
浜田:あまりなかったんですね。でも、情報をぜんぜん知らなかったんですよ、ほんとに。
杉浦:「日御子」を何年も主催なさってきたので、そういう場が必要だという問題意識はおありだったのかなというふうには思うのですが。
浜田:問題意識そのものはありますよ。ただ、具体的な運動としては関わらなくなった。その当時どういうふうに考えたのかはよく覚えてないんですけれども、今思うに、自分の活動範囲のなかでは、自分たちの表現をして、仲間や友達がいっぱい増えて、自分自身も変わったからね。自分のなかでの「自分はおかしい」とか「異常」だとか、そういうネガティブな意識はなくなってましたから。抑圧を直接感じることが少なくなっていたと思うんですね。一つには。
それから、働いていて職場の女性差別が思ったよりもあった。役所でもですよ。賃金は一緒なのに歴然と違いますから。2回目に配属された職場では、私より年下で、私より物のわかってない男の補助に付けられたんですからね。仕事の経験とか知識は、私のほうがあるのに。そういうことが当たり前な職場だったんですね。
私はいちいちその子に教えなくちゃいけなくて。これはこうするんだ、ああするんだと、書類の作り方から予算の作り方まで。しかもそれがまたばかなやつで。私が教えてやらない限り何も自分でやろうとしないんですよ。ちょっとは自分で考えろよなって思うんだけど、そういうのはすごく腹立たしかった。でも、直接けんかをするわけにもいかないし。
そういうこともあって、意識改革のための運動も大事だけれども、具体的な社会のテーマに一つ一つ取り組んでいくことも大事だなと思って。それで労働問題のほうにシフトしたんですね。
杉浦:職場は毎日行くところですから、そこでいろんなことが起きて。
浜田:3つ目の職場からは面白くなりましたよ。上司に恵まれました。完全に一人前扱いしてくれましたから。
【ウィークエンド】
杉浦:浜田さんは『ザ・ダイク』の後はそういう運動で忙しくされて。
浜田:そうですね。そちらのほうに専念するようになりましたね。
杉浦:85年以降になると、たとえば沢部さんが別冊宝島というところから『女を愛する女たちの物語』という本を出されて、それが80……。
浜田:これでしょ。
杉浦:それです。それはご存じで?
浜田:私のパートナーが持ってた。
杉浦:そうなんですか。
浜田:私、見たことも聞いたこともなかったんです。
杉浦:そうでしたか。
浜田:こういう情報を知らなかったんですよ。だけど、今度かくかくしかじかでインタビューを受けるんだと話をしたら、どこかに持っていたらしくて探し出してくれて、読んだんですけど。
杉浦:そうですか。私はそれこそ浜田さんもそこに書いたり関わったりしたのかなって。
浜田:いえ、全然。それ何年ですか。
杉浦:87年です。
浜田:87年ね。まだ日本にいたけど知らなかったです。
杉浦:じゃ、同じ時期にレズビアンウィークエンドという合宿形式の。
浜田:あれ1回目何年ですか。
杉浦:あれは85年ぐらい。
浜田:1回目は行きました。それは覚えてます。埼玉の国立婦人教育会館だったと思います、確か。それは外国人もけっこう来ていて、人数もけっこう来ていて、それは覚えています。でも、他の話は全然。何で私、「れ組」を知らなかったんだろう。だって、若林さんはよく知ってるから、リブセン時代から。
杉浦:リブセン時代から。
浜田:リブセン時代から若林さんとは知り合いですし、ウィークエンドでもよく覚えていますし、でも、「れ組」は知らなかったんですね。何でだろう。わからない。ウィークエンドをどこから聞いたかは覚えてないんですけど、とにかく行きました。最初の1回目だけでしたけどね。次からは行ってないんですけどね。感情的にそんなに入り込めなかったというか、違和感があった部分もあって。もちろん面白い人たちもいて面白い話もしたんだけど、全体的に私にはちょっとなという感じがあったんですよね。それで2回目からは行かなかったと思います。
杉浦:ちょっとなというのは。
浜田:私が覚えているのは、大きなホールでの全体討論で、アメリカ人とか外国人がけっこういたのに、誰も通訳しないんですよ。通訳も決めてないし、誰も通訳しようとしない。私自身は通訳できるほどの英語力をもっていなくて、だからそれが気になって言ったんですよね、「誰か通訳をしたらどうなのか」って。そうしたら、進行役の人が「決めるものじゃなくて、通訳したいと思う人が自主的にやればいいんだ」って言ったんです。その結果、誰も出てこないわけですね。「自主的にやればいいもので、それは決めておくべきものではないし、通訳をやったら自分が参加できなくなる、自分の意見を言う時間も削られる可能性もある、そういうのは自主的にやりたいと思う人がやればいい」という答えだったので、私、それは違うと思ったんですね。私が運営するんだったら絶対そんなことやらないと思って。
日本語にくわしい人もいますよ。でも、ほとんどはわからないわけですよ。そんなのってないでしょ。そんなにきちんと訳せなくても、大体のところでいいから「こんな話をしてるんだよ」ぐらいは誰かが通訳するべきだと私は思ったから。
何でも従来のやり方を拒否する。すべてに渡ってね。従来のやり方を批判的に見るのは、正しいと思うんですけれども、でも従来のやり方がすべて間違っているわけではないし、必要な場合はある。やり方を変えることが目的じゃなくて、目的はコミュニケーションでしょ。いろんな意見を聞いたり言ったり交流することが目的なんだから、それに合わせたやり方をするべきであって、やり方そのものを壊せばいいというものではない。そういうやり方だったら私は嫌だと思ったんです。
杉浦:英語を第一言語にする人たちの参加が多かったという話は聞いてます。
浜田:今でもそういうやり方をしていると思わないですけどね。その当時は、すべてに対して一度は疑ってかかるとか、従来のやり方をすべて一回否定してみるとか、そういう時代ではありましたからね。
【メキシコに移住】
杉浦:最後に、日本を離れた経緯を差し支えない範囲で教えていただければ。
浜田:恋愛至上主義です(笑)。
杉浦:そうなんですか。
浜田:日本でも前から友達だったんですけど、メキシコ人で、日本にいたときは単なる友達。遊びに来たんですよね、メキシコに。92年の5月に、41歳のとき。
杉浦:92年。
浜田:92年に遊びに来て、そこで私、その人に恋に落ちた。私が口説き落としたんです。最初は旅先の気の迷いかなと思ったんですけど、どうしても彼女と一緒になりたいと思った。それで、その人は日本に留学したり日本の大学で教えてたりしていた人だから、日本にまた行こうかという話にもなったんですけど、私が行くって。彼女に来てもらうのではなくて、私がメキシコに行くほうを選んだのは、日本を離れたかったというのもあったんだろうと思います。
日本からメキシコに行くときにいちばん悩んだのは、親の死に目に会えないなと。これは思いました。行ったら親を捨てることになる。親の死に目に会えなくなる。これがつらかったです。それこそ清水の舞台から飛び降りる感じでしたけどね。足を折るかもしれないし、どういうことになるかもわからない。だって、こちらに具体的な仕事の当てがあったわけでもないし、スペイン語だってわからない。
41になる頃でしょ。あのとき私を突き動かしたのは、好きになって自分でびっくりしたんです、自分のなかにこんなにエネルギーが残っていたことが。こんな情熱が残っているとは思わなかった。だからそれに懸けたといったら変ですけど、すべてを捨てる気になったんです。
それでその年の秋には退職願いを出した。というのは、人事異動の作業が始まるのは年明けぐらいからで。4月1日に異動なんですけどね。私はそのとき管理職、課長級に昇格していて、他の団体に派遣されていた。その任期が切れて戻る年だったんですね、ちょうど。戻ってからすぐに辞めますというわけにいかない。迷惑掛かるし。だから秋には退職願い出して。
杉浦:すごいですね。
浜田:それから93年の4月に来て、32年半たちますね。今も一緒にいますけど。
杉浦:滞在するためのビザは。
浜田:私は観光ビザで入って、それから6カ月で更新するのかな。それで滞在ビザが取れるのはいつからだったかな、忘れちゃった、半年後かな、1年後かな。とにかくそれで手続きをして、それから何年かしたら永住ビザが取れる。今は永住ビザを取って、それから20年以上たちますね。
杉浦:じゃあ、たとえば仕事がないとビザが下りないとか、そういうことでもない。
浜田:それはこちらで学校を一緒に共同経営するので、学校の教師という肩書で就労ビザを取りました。
杉浦:学校ですか。移民の話は、呉さんが興味あるかな。
浜田:日本はもっと厳しいでしょ、今まで。少なくとも。
呉:そうですね。就労でビザを取れるんですけど、でも短期間のビザしか出てなくて。
浜田:日本って基本的に排外的だから。こちらに来てほんとつくづく思います。中にいたときにはわからなかったけれども、外から見たらほんとそう思いますね。メキシコは多民族国家みたいなところがあるし、移民でできたような国ですしね。その代わり先住民はものすごく差別されて虐げられて貧しいという構造がいまだに残ってますけどね。もう日本なんかやめときなって言いたくなっちゃう。日本にいたってろくなことないんじゃないですかね、とくに外国人は。どうなのかしら。
呉:最近は排外主義が高まっているところが確かにあります。でも、親との距離とかを考えたうえで、やはりアジアに残ったほうがいいという判断もあって、今はまだ日本にいるんですけど。
杉浦:その後も日本との行き来は。
浜田:それは母が亡くなるまでは毎年。母は2006年に亡くなったんですけれども、それまでは毎年帰ってましたし、それからはだいたい3年ぐらいおきに帰ってます。コロナのときは帰れなかったから、しばらく空きましたけど。
帰るたびに会う友達がいて、一つは大学時代からの親友のグループ。もう一つは職場のグループ。運動とは全然関係なく、仕事の関係で知り合って気が合った。職場で一度、女性差別事件について集まったことがあって。係長試験の勉強から女性を排除する。男の課長は目に入らないわけですよ。女性も勉強会にいることが目に入らない。それで決定的だったのは、合格した女の人の1人を、よりによって組合の新聞が「大抜擢」って書いたんです。係長試験に通って係長ポストに就いても大抜擢でも何でもない。当たり前のことでしょ。それなのに「大抜擢」と書いたから、「これは何だ」「差別じゃないか」って、それにかちんときた女の人がたくさんいたんですね。それはそうでしょ。「大抜擢」なんて、そんなの侮辱でしょ。それで集まって親しくなった人たちがいて。そのグループが残ってます。全員じゃないですけどね。残っているのは5人ですけどね。その頃「お晩クラブ」って。
杉浦:オバンクラブ?
浜田:お晩クラブ。「ばん」は「こんばんは」の「晩」です。晩に会うからお晩クラブ。
杉浦:「晩に会うから」(笑)。

