織田道子さん(2024年2月27日)
基本情報
1) 話し手:織田道子
2) 聞き手:杉浦郁子/呉丹
3) インタビュー実施日:2024年2月27日
4) 実施場所:港区立男女共同参画センター リーブラ
5) インタビューで話題になったこと:
ウーマンリブ/リブ新宿センター/ぐるーぷ闘うおんな/学生運動/三里塚闘争/若草の会/すばらしい女たち/ユニオン・チャーチ/あいだ工房/ザ・ダイク/まいにち大工/女のパーティ/JORA/水玉消防団/レズビアン・フェミニズム/LF(レズビアン・フェミニスト)センター/コンシャスネス・レイジング/ポルノグラフィは女への暴力である(スライド)/女の展覧会/声なき叫び(映画)/女たちの映画祭/東京・強姦救援センター/性暴力被害支援/活動と仕事/労働組合/1970年代/1980年代/首都圏
6) 形式:音声/文字
7) 言語:日本語
8) データ公開および共有の区分:文字を公開(public)/音声を非公開・非共有(private)
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内容
【高校時代】
杉浦:まず、何年生まれかということを教えてください。
織田:1951年です。
杉浦:51年で、どちらでお生まれになりました?
織田:東京です。
杉浦:東京ですか。では、ちょっと話が飛ぶんですけれども、「ぐるーぷ闘うおんな」の1970年ぐらいから話を始めていいのかどうかがよく分からないのですが、これ以前に何か運動に関わったご経験ありますか。
織田:高校生の時、学園祭で学校のパワハラ問題には取り組みました。生活指導教員の叱責で、在校生が学校の中で飛び降り自殺をして、音楽室からです。私が入学する前のことなんですけれども。そのことに取り組んでいた友達から、その問題をぜひ学園祭でやりたいということで。教師によるパワーハラスメント。その頃はそういう名前はなかったんですけども。たばこを吸った学生をとがめて、そのとがめ方が全然言い分を聞かないという一方的なもので、話し合いの最中にトイレに立って、4階の音楽室から飛び降り自殺して死亡した。
杉浦:1960年代の半ば?
織田:そうです。そういう事件がありまして。もともと問題のある高校で。女子高だったんですけど、男性の先生がネクタイを締めて学校に勤務しなかったということで裁判になって。もちろんネクタイを締めない先生が勝ちましたけど。
杉浦:裁判。
織田:そうです。学校が訴えたのか、どっちかな。私はその頃、いなかったんですけど、中学からその学校にいた地元の近い友人が、その問題にずっと関わっていて。その人はあとで生徒会長になったんですけれども、ぜひ一緒にやらないかって。なぜ私が誘われたのか、よくわからないんですけど、イラストが描けたんです、その頃は。美大のほうに行く予定で。漫画とかイラストを描いていたので、イラストだったら柔らかく表現できるんじゃないかって学園祭でイラスト部分を受けもって。学校教職員によるパワハラ、生徒への過度な風紀の取り締まりということで、犠牲になった生徒や職員、先生たちもいる。それを訴えたくて、やりました。
杉浦:1960年代、半ばぐらいですよね。
織田:半ば過ぎ、70年のちょっと前です。
杉浦:時代の雰囲気としては、どんな感じだったんですか。
織田:時代は、アメリカはフェミニズムの運動が起き始めて、日本では。
杉浦:まだ全共闘とか。
織田:全共闘がちょっと下火になった。下火って言っちゃいけない。ちょっと落ち着いてきた状態で、その頃に「ぐるーぷ闘うおんな」(が活動を始めた)。まだその時、高校生だったんです。
杉浦:高校を卒業したのが1900…。あるいは大学に入学したのが。
織田:万博のとき、万博のちょっと前かな。「1970年のこんにちは」(大阪万博のテーマソングの歌詞の一部)だから70年です。だから69年か68年ごろの学園祭で。そのときに集まったグループの中で、先輩が学生運動をしているとか、社会問題に関心のある女の子たちが集まって、先生の問題とか自殺の問題を取り上げた。ずっと心にしこりのように残っている問題を、その人たちと一緒に、暴力教師を葬ろうと。
それは私の担任だったんです。私も補導されたことあるんです。友人のお父さんがテレビ朝日に勤務していたので、学校の帰りにそのお父さんのところにみんなで遊びに行ったんです。その帰りに補導されたんです。父兄と一緒だったんですけど、それでも駄目だっていうような、そういう学校だったんです。
杉浦:どうして駄目なんですか。
織田:学校の帰りにいったん帰宅して保護者と一緒に外出するのはいいけれども、帰宅しない制服のまま、どこかに立ち寄ることはいけないと。
杉浦:じゃあ、校則が厳しい。
織田:校則はそこまでうるさくないんですけど、その問題教師が摘発して自分の成績を上げるみたいな、ゆがんだ考えの持ち主で。全部その人だけが悪いんじゃないでしょうけど、学校自体がそれを良しとしてきたので、そういうことが理不尽だと思いました。
そのときの父親が「自分が一緒なのになんでいけないんだ?」と抗議して、それで処分はされませんでした。だって友達のお父さんの職場にパフェをごちそうになりに行っただけですから。もちろんテレビ局だから楽しくて行っただけです。でも、そのぐらいうるさい。方向が違うんじゃないかと思う。ただ単に自分自身の「風紀」という概念で生徒を強行にもっていこうとする、支配欲の塊みたいな男性の教員が、学生が死んだことも「あいつのせいだ」「自分のせいじゃない」ということで、そのことを悔んだりしていませんでしたので。
杉浦:そうすると、その高校にはそういうちょっと理不尽なことがあったら、みんなで抗議しようというような雰囲気とか空気があったということですか。
織田:表面的にはないです。個人的に誘われたんです。1人は地元が一緒で時々話はしていたんですけれども、そういう考えをもっていることは知らなかったんです。たぶん私がイラストを描けたのと、エキストラのアルバイトをしたりしてて、けっこう自由にやってたんですね。それで、この人だったらそれほど嫌がらないで、物おじしないでできるんじゃないかということで、個人的に誘われて。行ってみたらそういう人たちが集まっていた。
杉浦:怒っている人たちが集まって。
織田:そう、怒っている人たちが。「最後なんだから、これでやらなきゃ」ということで。そのいちばん仲が良かった生徒会長の子が、卒業式に代表で、みんなでつくった答辞を読むことになっていたんですけれども、脅されて読めなくなったんですね。学校が用意した答辞を、泣きながら読んでいました。
私は入試のとき、「思想的に問題がある」「他の生徒に与える影響も大きい」ということが内申書に書いてあって。照明に透かして見ると、見えるんです。「これが書いてあったら受かんないだろう」って思った。でも、私立の美大だったからOKだったけど、他の学校だったら駄目だと思います。
それが最初の私が受けたダメージですかね。「もうこれで無理かな、自分の将来は。こいつが担任な限り、こういう目に遭うんだ」と。その人の似顔絵を描いただけで。そっくりだったんですよ、うまかったから。悪い顔、ドラキュラの顔にして。その人の普通の似顔絵もそっくりなのを描いて、めくるとドラキュラが出てくる。それも似てるんですよ。でも私は「似てますか? いやぁ、わかんないな、先生のこと描いたかどうかは。うーん、先生といつも顔を合わせてるから、これになっちゃったんですかね」ってとぼけて言ったんですけども。
【「ぐるーぷ闘うおんな」を知る】
その時のメンバーが「ぐるーぷ闘うおんな」のビラを持ってきたんです、高校生のときに。みんなで学園祭の打ち合わせをしているときに、「近くの公園でこのビラをまいている人たちがいる」って。「これは私たちの考えに近いんじゃないか」ってみんなでその1枚のくしゃくしゃになったビラを見て「ここに絶対に話しに行きたいね」って言って。いちばん仲良かった生徒会長が、まず飛び込んで。家出をしてそこに入っちゃったんです、コレクティブというのに。
杉浦:それは何年ぐらいになりますか。
織田:69年ぐらいかな。
杉浦:もうその当時からビラを配って?
織田:70年になってなかったと思います。最初のほうのビラです。最初の頃にまいていたビラを、四谷の清水谷公園とか、あの辺でよくまいていたんです。そんな大きな公園じゃないんですけれども、学校から近かったんです。歩いて行ける距離なので、そのチラシをその子がもってきた。それで最初にその生徒会長が行った。高校のその人の担任から、(生徒会長が)人気者だったものですから、「家出して家族が心配して大変だから、あなたいちばん仲いいんだから知らないか」って。「いや、大丈夫ですよ、あそこ行ってもどうってことないから」って。私も行ってたんです。ただし私は家出をしなかった。私は通ってたんです。友達も入ってるし、時々通っていた。だから「自分も行ってますけども。じゃあ様子見て、何かあったら知らせますよ」って担任の先生に言って。
その担任の先生は佐多稲子の友達で、ちょっと左っぽい、いい人。佐多稲子というのは、婦人民主クラブの創設の頃に携わった。『キャラメル工場から』というプロレタリア文学の女性の作家です。進歩的な考えの持ち主が、生徒会長の担任だった。私は1年のとき、その人が担任だったんですよ、だから彼女が「行ってあげて」って。(私は)「なんかあったら知らせますよ、命の危険があったらね」って。
私は家出するという感じはなかった。家庭環境が割と自由だったので。親が公務員で安定していましたし、父親のほうは自営業だったんですけれども、2人で働いていましたので、とくに問題がないというか、子どもはほったらかし。いちいち文句言わないような家。子どもにも厳しくないし、母親に対して父親はすごく優しくて、亭主関白とは真反対の人だったので、自由に。友達は厳しい家庭だったので、家出しなきゃいけなかった。
杉浦:織田さんはその当時、自分が女性のことを好きになるというような。
織田:まったく思っていませんでした。ただ、中学生のときも、子どもの頃も、女性も男性も気に入ったら「自分は好きだな」と自由に思ってきたんです。それが普通なんだと思っていたんです、自分の自然な感情で。けれども、物語を見ると、どうも女の子は待っていて、男の子は能動的に白馬の王子様みたいな。「自分が白馬の王子様になりたいのに。待ってるの、嫌だな」とか、そういうことは思ってましたよ。
杉浦:性差別的なものに対する感情。
織田:そうです。だからそれは女の人が好きというよりは、女性の行動が狭められていたり、立場を固められているというのが(嫌だった)。「もっと自由でなければ」って。生理が始まったときは「もう人生終わった」と思いました。決定的な男性と女性の違いがあって、これ(生理)でこんなに体調が悪くなったり不便なことがあって、でも誰もそれを割り引いて考えてくれない。「損だなぁ」と思いました。それは中学に入るあたりです。その頃にものすごく女性は損をしていると。世の中でも、女性のほうが活発にできなくなってくる、その頃になると。子どもの頃は自由だったのに、生理が始まる前後から女性としての枠がどんどん固められていくような気がして、とても嫌でした。生きていて損だなと思いました。こんな未来のない人生で、自分は果たして人間として生きていく必要があるのかと考えました。自殺までは行かなかったんですけども、そういうふうに考えました。
ただ、主婦が多い時代でも、母親がずっと職業をもって働いていたので、女性は働くものだという考えはもっていたので、その点は助かりましたね。母親がそういう人だった。父親もそれでいいという考えだったので、家庭の中が差別的ではなかった。家庭でないところに出ると、一気に差別的になるんですよ。
杉浦:じゃあ「ぐるーぷ闘うおんな」のビラが、「あ、これ、私たちだ」「自分の問題だ」というのは、そのあたりと関係して。
織田:そうです。とても言葉が下品だったけれども、言っている内容は正しいと思って、これこそ胸を打つビラだったんです。本当にがんと頭を殴られたような感じがして。それで、こういう人たちに会いたいと思って、行って、通い詰めるようになったんです。
【ウーマン・リブでの活動】
杉浦:それは、最初、文京区のほうに事務所があったって、そこですか。
織田:そこです。その後でも、いろんなところに行ったりしていました。
杉浦:活動にも関わる。
織田:そうです。ビラを印刷したり、大学でまいたりもしたことあります、誰も来なかったけど。だから「もうここでやってもしょうがないな」とも思いましたけど。でも、コレクティブには他の大学の女性が1人いて、その人と非常に考え方が近かったんです。コレクティブに入るのは目的ではなかったので、「じゃあ、考えの近い人たちでグループをつくろう」って「リブ学生戦線」(おんな解放学生戦線)っていうのを作ったのかな? 確か資料も残っていて、写真集(『のびやかな女たち 松本路子写真集』1978年6月)にも載っていますけども、その友達とは今も交流しています。その人たちといちばん話が合って。
でも「ぐるーぷ闘うおんな」は、下着を共有するんです、パンツを。私は彼女たちとパンツの共有ができなかったんです。中に性病の方がいらっしゃって、それでもパンツを共有するという。それこそが結束だったり、お互いを大切することだって。極端だとは思うんですけど、(共有)しなくてもいられたんでしょうけど、私はできませんでした。下着の共有。病気じゃなかったらできたかもしれないんですけど。トリコモナスかな、他のもあったかもしれない。自分はうつったりするものは、やっぱりちょっと避けたかった。勇気がないみたいに言われましたけどね。「あんたは甘い」とか「勇気がない」とか、さんざん言われましたけど。でも、通ってくる者は拒まないんです、田中美津さんは。
その中で、友達の学生の女性たちのほうが気持ちが通じるなって。そういう人たちのほうが一緒にいて楽しいなって。「常に一緒にいたいのは誰?」と思ったら、女性の友達だったりコレクティブの女性たちだったり。私は純粋にそう思ったんですけれども、コレクティブの人たちが夜になると消えるんです、男性の恋人のところに行く。夜、人数が減るんです。私(も)泊まったりしていたので。それが自分の中で矛盾に感じたんですね。こんなに話が合って、何もかも共有できるのに、なぜ共有できない男性のところに行くのかが、純粋にとても疑問だったんです。「私はそれが理解できない」と田中美津さんたちに言ったんですけど、「いや、あんたも男が好きなくせに、そういうふうに言ってるだけだ」というふうに言われた。「全然違うのにな」と思ったんですけど、それは最後まで理解してもらえませんでした。「あんたは男が好きだ」ってお経のように言われ続けましたから、耳元で。それだけはちょっと支配的だなと思いました。
【女性のパートナーができる】
その中で話せるのが麻川さんでした。麻川さんはすごく優しくて。来る人にすごく優しい。優しいお姉さんで、誰に対してでも優しくて。(この頃は)「この人、親切だな」とぐらいしか思ってなかったんですけど。
リブ合宿(1971年夏、長野県)に行く前に、京大のリブのグループがコレクティブに来たり、学生同士で交流をしていたんです。その中でけっこう話が合って、「リブ合宿に来る? じゃあ、その前に京都に遊びに行く」と言って、京大の寮に泊まったんです、お金がないから。相手の方はレズビアンだったと思うんです。私は「すごくいいな」と思ったんです、話が合うから。私の基準はそこなんです。考え方が一緒とか話が合うとか。
私はデッサンをしていても、女性の体のほうが好きだったんです。きれいでなじみもあるし。お父さんが嫌いとかそういうことではないんですけど、丸みのある柔らかいものが、ネコとかそういう動物もそうですけど、肌なじみが良いものは安心感がある。もともとそういうものが好きだったので、一緒にいてとても安心できる。それで思想も共有できれば、こんないいことはないと思って。話が合ったので、恋愛関係になっていくんです、その京都の方と。「リブ合宿で次は会おうね」ということで、リブ合宿でも会って、それでパートナーになっていくんです。
リブの学生のグループがいくつかあったんですね。その中の1つ(「思想集団エス・イー・エックス」)は、「モナ・リザ スプレー事件」といって『モナ・リザ』が日本に来た時に防護ガラスにスプレーをかけた。それは多摩美の人だったんですけれども。
杉浦:米津さんですよね。
織田:そうです。米津がまだ学生の頃に、「やりたい仕事、似てるね」みたいな感じで。
杉浦:米津さんもコレクティブですか。共同生活なさって?
織田:していました。多摩美の人たちが中心になって「エス・イー・エックス」というグループを作っていて。ただ、どのぐらい共同生活していたのか、わからないんです。小児まひで義足を着けてらっしゃったので、みんなで共同生活するというのがなかなか大変。皆さんと同じペースにはできない。だけど、理路整然と落ち着いて話す、田中さんとは真逆で感情を出さない、抑制するタイプの人で、それでも一緒に話ができるんです。米津さんのほうが、田中さんに対して付き合い方を合わせているのかなと思っていました。
田中美津さんというのはカリスマで、怖かったんです、決め付けるしね。あの強烈さは好きなんですよ。ただ、私にはちょっと支配的過ぎて。私は攻撃的なものとか支配的なものが嫌いなんですよ。子どもの頃から。なので、女性の中でもそういうのが見えると、ちょっと…。ほとんどの人はないんですが、田中美津さんには感じたんです。「あんたは男が好きだ、好きだ」って呪文のようにね。そういうふうに人のことを決め付ける女性というのが、田中美津さんしか、私の人生の中では出てこなかったんです。他の人はあまりそうじゃなかったので。でも、それなりの魅力があった。
レズビアンになる前は、男性とデートとかしていたんです。それはやらなきゃいけないもんだと思っていた。仕事みたいな感じで。そうすると、喫茶店とかレストランに行くと、ドアは自然に開いて、椅子は自然に引かれて、メニューは目の前に出てきて、お金は払わなくていい。そういう生活がおかしいなと思ったんです。楽ですよ、ドアは開けてくれるし、椅子は引いてくれるし、プレゼントはくれるし。派手な格好して、美術系で、ちょっとかわいい感じにしていれば、男の人はいっぱい来るんです。好きじゃないけど付き合う男性がいなきゃいけないと思っていたので、いちばんまともそうな、見た目がきれいな男の人と付き合っていました。
杉浦:大学の頃ですか。
織田:そうそう。たくさんいたんですけど。だって、たくさんいないときれいな男の人がいない。たくさんいても好きになれなかったんですけど。でも、しょうがないから女性のような美しい男、女性と間違えるような、そういう人と付き合っていました。
だけど、リブセンターに行くとき、その彼が「行かないで」と言ったときに、「これで選ばなきゃいけないな」と思って。「いや、悪いけど、私は女性と一緒に話したいから」「それで行かないでって言うんだったら、じゃあ、やめましょう」と言って、それでもうすっぱりやめました。見た目は良かった。見た目は好きなんです、すごく美しいから、まだ10代の男性は美しかったから。だけど、うるさいじゃないですか。うるさいことを初めて言われたんです。1回でも言われたら駄目です。たとえ支配的でも、美津さんの魅力のほうがやっぱり数段上だった。やっぱり分かり合えるという、中身が大事。
それで、自分はどうしてこんなに男の人は好きにならないのに、女性の言っていることには「なるほど」とか惹かれたりするのかなって。自覚はしていませんでした。レズビアンのモデルがいなかったから。サッフォーとか話には聞いたことあるけど、でも、周りにいなかったもんですから。宝塚も見てなかったし。宝塚はばかにしていたんです。おたくみたいな女の人や子どもが見るものと思っていたので。あと、良妻賢母みたいな変な思想があると勘違いしてました。後でそれはなくなるんですけども、偏見をもっていたので、そこにも通わず。一つのコミュニティがあったんですよ、宝塚という。でも、それには足を踏み入れないで、女性運動のほうに行きました。
そこで知り合って、パートナーができて、それで彼女が。
杉浦:先ほど言っていた京大の。
織田:そうそう。東京に就職をして、うちの親が保証人になって、公務員になったんですけれども、彼女としてはそれは望んだことじゃないかもしれないです。それはわからない。もう今はアメリカに行っちゃっているかな。
杉浦:それは織田さんと住む場所を。
織田:一緒に。
杉浦:一緒にするということで、京都から東京にいらして。
織田:そうです。
杉浦:そこでカップルというかパートナーとして。
織田:うん、そうです。一緒に生活しました。
杉浦:それは1975、6年ぐらい?
織田:そうです。6年ぐらい一緒にいました。彼女と「まいにち大工」を作りました。彼女が東京に出る前に「若草の会」というのが雑誌に出始めた頃。鈴木道子さんのところにも行ったりしたんです。
【若草の会】
杉浦:そうそう、その話も伺いたかったんですけど。
織田:リブ合宿(1971年)の後ですね。レズビアンの場所がないか探していて。ウーマン・リブの中でも、麻川さんはレズビアンで理解があったけど、他の人たちはそうでもない。とくに田中美津さんが全然駄目だったもんですから。自分たちで場所をつくったり、自分たちと同じ考えの人がいるはずだと思って、どこかないかと散々探して見つからず。そうしたら、雑誌に「若草の会」というのが載っていて、「ここに行けば、ここしかないから、いろんな人たちが来ているはずだ」って。他にないからね。男性のは『薔薇族』とか二丁目とかありましたけど、ここしかないからということで行きました。
杉浦:2人で?
織田:いや、最初は私一人で。ほとんどが私一人かな。そこにいろんな人たちがいました。いわゆる今でいうトランスジェンダーの人たちと、それから「ネコ」というフェミニンなひとが、私、感覚がわからなかったんです。背広ネクタイの女性と。いろんな人たちがいて、主宰している鈴木さんは、三つ揃えの背広を着ていましたね。
自分のおうち、マンションで開いていて。レズバーとか時々連れていってくれたりしたんですけれども、レズバーは全然肌に合いませんでしたね。それだったらリブの人たちとか、女性問題をやっている学生のときの友達のほうが話が合った。
その中で「俺は男だ」って言った人がいるんです。近くに住んでいる「おばさん」と言ったら怒るおじさんが。家が近かったのでうちに時々遊びに来たりして、「あなたたちは自分たちと全く違う生活をして、違う人たちだ」「自分はそういうふうに生きたかった」「でも、もう自分は年寄りだから、そういうふうには生きられないから」「あなたたちは希望だから、絶対生き方を変えないで」って言われたんです。その人はパートナーがいたんですが、結婚しなきゃいけない時代の人で、結婚してた。嫌で嫌で、家出をして、旦那さんからも逃げて、暴力にも遭って。その人は今でいうトランスジェンダーだと思います。トランスジェンダーの方で、ズボンを男仕立てにして、そういう服装をしている。
杉浦:そういう方が近くに。
織田:いました、家の近くに。
杉浦:女性と住んで。
織田:そう。「若草の会」で知り合いました。「家、近いね」とか言って、私、誰とでもけっこう友達になるので。「じゃあ、お茶飲みに暇だったら来てね」って、それでいろんな悩みを聞いて。それで「いや、でも私、男の人に見えないんですけど」と言ったんです。そうしたら「俺は男だ」って突然怒りだしたのね。だから「いや、男じゃないでしょ」って言ったら、「いや、俺は男なんだ」って言って、泣きながらそうやって怒って。それはわからなかったです。その気持ちが。自分がそういう苦労をしてないのでね。割と自由にやってきたので。差別されるという経験が、田中美津さん以外には、ないんですよ。田中美津さんからは差別されました。女が好きだってことで徹底的に。だけど他の人からはないんです、それまでは。なので、その人の気持ちがそのときはわからなかった。
「若草の会」で、やはり背広ネクタイで三つ揃えで、割腹のいい方がいらっしゃって。すごく親切な方で。先輩だから「どうやって会社で話しているんですか」って言ったりしながら。その人はすごくいい人で、いろんなお話をしたり遊びに行ったりもしたんですけれども、琵琶湖に入水自殺されました。会に来なくなった。何カ月か何年か経ってから、自殺したことを知った。「孤独に耐え切れない」っていう遺書を残して。
だから「私たちみたいなほうがパートナーを見つけやすい」とも言っていた。どっちかわからないほうがね。「でも、自分みたいなのだと、そういう服装をしている人を嫌う女の人がいる」って。女の人が好きで、男みたいな格好をしている人を好きじゃない人もいるじゃないですか。私なんかはもっと自由な格好のほうがいいなとも思いますけど、それが嫌だってわけじゃないんです。その人がその格好を好きならいいかなって。
その人がよく「男装をしていると、交通事故に遭って救急車で運ばれたりすると非常に大変だ」「見た目と体が違うので、病院で混乱が起きたり、家族に通報する時にいろいろ言われる」「そういうのもつらかった」って。男性の下着をつけているから、男性の病室に入れられた。それから診察するじゃないですか。そしたら女性だってことで、そのときに自分がきちんと言い訳できなかったって。自分たちには何か起こったら大変。だから、何も起こらないで平穏な毎日を過ごせるようにしないと、何か起こったときに大変な目に遭う、というのは教えてもらいました。その交通事故の話で。「ああ、そうなんだ」って。「じゃあ、そういう時どうしたんですか」って言ったら、「もうしょうがないから、治療してもらうしかないから」って。自分のことを話して看護師さんとも仲良くなったっていうけど、内心は…。家族に知らされたりとか、それが大変だったというようなことを言っていました。
杉浦:それは「若草の会」で会った方?
織田:そうそう、そうです。いつも話をしていて。「若草の会」で相手を探すというよりは、「プライドハウス」みたいな居場所なんですね。そこに集まって、別にテーマがあるわけじゃなくて、いろんな人たちがいろんなことを聞きたい人に聞くという、割とフランクな場所。ただし、外から見ると背広ネクタイがいっぱいいたり、髪の毛が長い人もいたり、いろんな人がいるんですよ。
その中で、そこの場所になじめない人、どうもなんかちょっと違うという人たち、女性の現状に満足しない人、キャリアを積みたいという人たち。その人たちと話し合って、「まいにち大工」をつくりました。
【ユニオン・チャーチのレズビアン・フェミニスト】
杉浦:その前に『すばらしい女たち』があると思うんですけれども。
織田:はい、そうですね。それは「若草の会」に行きながら、リブセンターに行ってたんです。それと「ユニオン・チャーチ」というのが原宿にあるんですね。そこに在日レズビアン・フェミニストのグループがたくさんあったんですね。
杉浦:ユニオン・チャーチ?
織田:うん、ユニオン・チャーチ、今でもあります、大きな教会が。
杉浦:教会の中にレズビアンのグループがある?
織田:うん。教会に行ってる人たちの中にいろんなグループがあって。レズビアン・フェミニスト、要するにフェミニストのグループなんです。フェミニストといったら、その頃はアメリカから来る人はほとんどレズビアン。フェミニストと言っているけど、イコール、レズビアンだったんです、その頃はね。レズビアン・フェミニストが全盛の時代だったので。
杉浦:1973、4年ぐらいですか。
織田:そうそう。やっぱり話の合う人たちと一緒にいますから、それは外国人であろうが何だろうが、いちばん話が合う人たちといるわけですよね。彼女たちが日本語を話せたりするので。
杉浦:何をしに来る方ですか。教会の教えを広めに来る方ですか。
織田:いや、違いますね。宣教師じゃなくて、日本に仕事をしに来ている人と学校の先生になりに来ている人。英語を教える。それと、貿易じゃないですけど、通訳もいるし。ドイツの人もいたり。『すばらしい女たち』に書いた中にいるから。そのなかでいちばん話が合うのは、やっぱりアメリカの思想、レズビアン・フェミニズムという視点をもった人になるので女性差別、女性の損な状態。そこがメインだったので、そこを外さない。
「若草の会」だとちょっとずれるんです。どうしてもね、フェミニズムよりも生活とか孤独。自分は独りでいるのが嫌だとか、そういう人もいるのでね。だから、そこ(女性差別)に気付いた人と一緒に。それは外国人であろうが日本人であろうが。とにかく探しても探してもなかったので。探して探して探して、いろんなところから一緒になりました。ユニオン・チャーチは「ふぇみん」も近いですしね。そこらへんの関係もありました。
要するに、在日フェミニストみたいなのは、イコールほぼレズビアン。違う人もいましたが、大体そうだったので、一緒にユニオン・チャーチでバザーしたり、交流したり、いろんな資料をもらったりしながら話をしていく。それで『すばらしい女たち』は、日本人じゃない人も一緒にいるんです。その頃はまだ、そこまでフェミニズムというところで話ができる人が、ばっちり根底にフェミニズムがある人が、日本の中でもなかなか見つからなかったんです。
いちばん許せないのは女性が虐げられて自由にできないこと。だからレズビアンになった。私はリブの中でレズビアンになったと自分では思っているんです。このリブとの出会いがなかったら、まだ「つまんないな」と思いながら男と付き合っている可能性はありました。その頃の私は。
でも、幸いにしていろんな女性たちと会って、外国からの影響も大きいんですけれども、自分が無理をしないで話ができる人たちを手に入れた。それで、リブセンでみんなで集まって、ミーティングをしたり、いろいろ話し合って。で、「これだけ話してるんだから、ここだけじゃなくて、もっと人に伝えたい」ってその頃はミニコミがはやっていたので、「じゃあ、そういうものをつくってみないか」ということで、(『すばらしい女たち』が)できたんです。だから外国人2人ぐらい、何人かな。
杉浦:何人か、はい、入っていました。
織田:入っていると思います。
杉浦:じゃあ、そのユニオン・チャーチで会ったフェミニスト、レズビアンの方もリブセンに来て。
織田:もちろんです。だってフェミニストだから、リブのエリアには(来ていた)。いちばん過激なのはウーマン・リブ、「闘うおんな」ですけども、それに近い。要するに、「リブ」ということを言っている人たちが、「女権」「女性の権利」と言っているおばさまたちの団体とは一線を画して、激しい人たち。その中で、さらに激しいレズビアンというとやっぱり限られていて、雑誌(『すばらしい女たち』)をつくった。
【美容の仕事に就く】
でも、私はその頃ね、就職して美容のほうに行ったんです。食べられないから。舞台美術をやろうと思ったんですけれども、就職口もないし、女がそんなところで働けない。何人かはいたんですけど、就職先がない。歌舞伎が好きだったもんですから、そういう舞台で大道具なんかをやりたいなと思っていたんですけども、そんな甘いもんじゃなくて。女性の深夜労働もできなかったし。10時以降の深夜労働禁止でしたので。そういう時代だったので、やっぱり制限されて。手っ取り早く自分がぎりぎり譲れるところということで、そういう(美容の)仕事をしていたため、ものすごく拘束時間が長くて。
杉浦:美容ですか。
織田:そうです。徒弟制度がものすごい激しいところで。
杉浦:メークアップとか、そういうことですか。
織田:そうです。日本髪を結ったりとかね。髪を切ったりとか。
杉浦:じゃあ、資格を取られて。
織田:そうです。
杉浦:大学時代に方向転換したんですか。
織田:そうです。食べていけないのが途中でもう(わかった)。誰も就職できないし。家はそこまで豊かじゃない。だって、絶対に働けないんですよ。就職口が一個もないんですよ。本当に一つもないんですよ、求人が。
杉浦:男子にはあるけど、ということですか。
織田:そうです。深夜労働ができないから。舞台美術なんていうのは深夜、皆さんが出てないときに後ろでトントン、トンカチでつくるわけじゃないですか。絶対そんなの駄目じゃないですか。テレビ局も夜は駄目じゃないですか。テレビ局はバイトでエキストラして様子を見ていたんですけれども、「ない」って言われたんですね。「深夜労働できなかったら無理だよ」って言われて。全然、ほぼなかったんですね。うちのところに来なかっただけかもしれないけど、全くなくて駄目でした。
アングラ劇場の舞台美術に行った先輩が1人いました。私が「リブ合宿あるんですよ」って誘って、話の合った先輩。その人はアングラしか仕事がなかった。「早いうちに自分の方向を決めないと、年ばっかり取っちゃうよ」って言われて、そうかなと思ったんです。
メークとかヘアカラーとか、今までのいろんな知識も生かせたし。その頃ヘアカラーってあまりない頃だったから。色彩学をやっていたのもあって、自分としては、その世界で新しい分野を開けるみたいなのがあって、楽しかったんですけど、活動ができなかった。夜9時に帰って、ミーティングの終わりの頃の30分だけ参加するとか、そういう状態でした。でも、楽しかったからやってました。どこまで行きましたっけ?
【レスビアンに関するアンケートを配る】
杉浦:そうですね。それで『すばらしい女たち』をつくった頃ですけど、麻川さんに伺ったときは、アンケートを配るところから始めたって。
織田:そうかな、忘れちゃった、そうかもしれない。うん、アンケートつくったと思う。
杉浦:その時、織田さんと織田さんのパートナーの方と麻川さんが、3人で中心になったって。
織田:全然覚えてない。
杉浦:麻川さんいわく、麻川さんよりも、織田さんと織田さんのパートナーの方が、かなり一生懸命つくって配ったって。
織田:そうですね。私のパートナーは優等生タイプ。頭は良くて。清く貧しくというような家庭で、頭だけは良くて、体育会系もできて、という文武両道の女性。すごく当たりがいいので誰からも好かれるような、いわゆる優等生です。アンケートとか、実務能力はすごくあるんです。私はいい加減でふわふわしていますけど、彼女は本当にしっかりしていた。麻川さんは割と緩やかで、型にとらわれないという形で幅ができるし、ちょうど良かったと思うんですけどね。麻川さんはちょっと緩すぎるかなって私たちは思っていたんですけど。
杉浦:時間を守らないとかって。
織田:そうです、はい。「どうしたの?」って思っちゃうんです。でも、それはそれで、麻川さんは嫌いじゃなかったので、個人的にはとても慕っていた先輩なので。ただ、活動を一緒にやるのには向いてないかな。締め切りがあったり。そういうタイプじゃない。大らか過ぎる。いいところですけど。
杉浦:じゃ、パートナーの方がアンケートをつくって。
織田:そうです。一緒に。私のほうが「若草の会」に行ったりしていろんな人たちと会うので、いろんな情報でいろんなタイプがわかるので、それで作ったんだと思います。彼女はしっかりしているので、文章も書いたりすると思うんですね。ただ、真面目すぎて。私にはない良いところですけど、非常に真面目で。彼女がいたからできたようなものかなと思います。しっかりしていました。
杉浦:織田さんもアンケートの配布とか。
織田:うん、やったと思います、たぶん。顔が広かったから。
杉浦:出雲さんはそのアンケートを受け取って、それでこの(『すばらしい女たち』の)座談会に参加したとおっしゃっていたんですけど、「そのアンケートはどこから来たんですか」って言ったら、回り回ってきたって。
織田:あ、わかった。私が美容学校に入ったんです。そのときの美容学校に大学を出てきた人が2人いた。早稲田の男。そいつとは話さないから。いけ好かないやつで顔だけがいいやつね。それと、美術系の人とは話が合った。在日朝鮮籍の方で、非常にユニークな人もいた。それでお友達になってグループをつくって。友達には自由に話してたので、「私の大学の友達にそっくりな人がいるよ」「同じような人がいるよ」「その人がカットの練習台に来るから、そのときには紹介するよ」って言ったんですよ。
そしたら、どう見てもレズビアン丸出しのマロが来たんですよ。いいところのお嬢さん。お金に不自由したことは一回もない。お医者さんのお嬢さんですから。性格も、私から見ると、ゆがんだところが一つもない。素直な。豊かな家庭で育つと人はこんなふうに大らかになるのかな、というような、そういう人だと思いました。それで話が合って、アンケートを配りに会いにいったのかもしれない。覚えていない、そこらへんは。
杉浦:それでまろうさん、アンケートに一生懸命書いて出したと。座談会にも参加したと言っていました。
織田:マロにはすごい美人のパートナーがいたんですよ。私が「玉次郎」ってあだ名を付けた。玉三郎の上を行くというぐらい、一度見たらみんなが振り返るような美人です。誰が見ても。そうですね、杉浦さんをもうちょっと面長にして日本的にした感じ。ものすごい美人だったんです。その人がパーマかけてくれっていって、やったときに、私、ロッドを落としちゃうんです。ロッドって巻くやつをね。手が震えるぐらいの美しい人。好きというんじゃないんですよ。あまりにも美しいので、私、そういうのを見ると感動しちゃうんで、仕事ができないんですよ。本当にきれいで日本舞踊もできて、発表会とか行ったりしたんです。でも、マロは深刻で「いや、彼女は保守的な家庭だから大変なんだ」というようなことを言って、結婚式を一緒にぶっ壊したりしたんです。
杉浦:本(『まな板のうえの恋』)に書かれてました、まろうさんが。
織田:本当に美人です。私が見た中で本当に美しい人でしたね。美しいって見た目です。仕草も日本舞踊をやっているから、本当に動きが滑らかなんです。笑い方なんかも「女優でもこんなふうにしないんじゃないの?」と思うような感じ。私の中でカルチャーショック。そういう人が周りにいないんで。「どうしてこの人はマロといるの?」と思うような。「なんで一緒にいるの?」って言ったら、「マロ、かわいいから」みたいに言ってたから、「ああ、そうなんだ、良かったね」っていうふうに言って。でもマロは「この人は保守的だから、ほんとに心配なんだ」と言っていたけど。そのとおりになっちゃいました。
杉浦:まろうさん、もてた。
織田:もてたというか、マロは誰にでも親切。レズビアンのいいところ。女の人に優しい。どんな人に対してでも。そうじゃないやつもいるんですけど。自分の好きなタイプだけに優しい、そういう人もいるんですけど、マロは誰に対しても優しい。だけど、その頃は自立する気持ちがゼロでした。みんなで「働かないやつは許さん」って言って、マロをいつもいじめていて。でも、その相手のパートナーの人は、女性なのに自分のお店を切り盛りして、ものすごいやり手なんですよ。対照的でした。
【あいだ工房】
杉浦:それ、たぶん1975年ぐらいだったと思うんですけれども、75年に田中美津さんがメキシコに行って。
織田:衰退期ですね、リブの。
杉浦:その頃のリブの雰囲気とか、何か覚えていることがあれば。
織田:(リブが)出た当時はみんなが注目して。「便所からの解放」というキャッチフレーズは、女性の体は排泄器官。男のそういうものを受け止めて、自分が楽しんでないから、男が女性の体を使って精液を排泄してるんだというようなことを、そのままずばり書いていて、すごい脚光を浴びたんです。マスコミの男の人はみんな寄ってきた。
美津さんに心酔したファンのマスコミの男たちもいっぱいいました。そういう男しかいなかった。美津さんには女性が寄ってくる。だけど、彼女は男が寄ってくるのも好きだから。男に甘いから、それはしょうがないけど、自分の付き合っている人だけコレクティブの会議に入れちゃってね。「なんで男が入っているんだ?」って私が言ったら、「あれは美津さんの今の彼氏よ」とか、そういう感じ。私たちは「それ、変だね」って言ってたんですけど、誰も美津さんに逆らえないから。「その男が邪魔しない限り、いてもいいかな」みたいな感じでした。
そのときも私の友達のサチは、ずっとコレクティブにいました。「あいだ工房」というのをつくりました。
杉浦:あの生徒会長だったっていう。
織田:そうそう。それがあいだ工房をつくったサチ。
杉浦:印刷。
織田:そうです、女性の印刷所。こういうレズビアンのものやなんかを頼むときに。普通の印刷屋でもやってくれる印刷屋があるんです、すごい肩入れしてくれる。それ1つしかなかったので。やっぱり女性は手に職を付けて、自分たちで信念をもった印刷所をつくる。気に入らない人の選挙ポスターは印刷しないとか、ちょっと極端と言われてたんですけど。それに米津さんと同じだったグループのピーさん。
そして、コンバ事件の被害者のお姉さん。コンバは黒人の東大留学生。タンザニアに留学した女子学生が、コンバがタンザニアの「文献を読ましてあげる」とか「手紙を読ましてあげる」とかで。彼女はタンザニアのことを知りたい一心で、彼にいろいろ教えてもらうために寮に行ったりして、それで強姦されたという事件。そのお姉さんが「あいだ工房」のメンバーだった。
【学生運動のなかの性暴力】
そういう事件もいろいろあったんです。学生運動で突然、今までばりばり頑張っていた人が、廃人のような状態になって来なくなった。バリケードの中で集団強姦されたりとか、そういうのをずっと見てきた時代。一緒に学生グループをつくってやっていたら、突然来なくなった。「中央大学のあの人たちはどうしたんだ?」って言ったら、「いや、1人が強姦されて廃人のようになってしまって、付きっ切りでいなきゃいけないから、2人とも来られない」って。すごく頭が良かった人たちだと思うんですけど、男に言い返せない。言い返せなくたって関係ないじゃない。逃げればいいんだけど、論理展開できないために被害に遭うという女性が何人もいました。
そんな格好だけつけたって。逃げるが勝ちだと私は思いますけど、彼女たちは真面目だからそういうふうになっちゃって。「私有財産制みたいなのはおかしい」「一夫一婦制はどう思うんだ?」みたいに言われて、屁理屈をまくし立てられて、それに反論できなかったりすると、「じゃあ、反論できないってことはいいんだな」ということで強姦されるんです。そのとき、逃げればいいんですけど、逃げない。まぁ逃げても駄目なのかもしれないけど、それで活動家の女性たちが、何人もつぶれました。
杉浦:それは70年代の前半?
織田:そうそう。リブの中の学生の人たちが、大学に帰ったらそういうことをやっているわけじゃないですか。男の人と一緒にグループつくってるから。そういうのはありました。それはとっても残念だったけど。
それから、学生の人たちもこれから働くから、働く人たちの応援をしようということで、出版社を首になった女性の解雇撤回闘争というのをやりました。もう一度復職するために応援する支援の会。そこに学生のグループが呼ばれて、私たちも呼ばれて、彼女を職場復帰させるために労働運動をやったんですね。もちろん女性だからやったんですけれども、それが負けちゃったんです。
杉浦:それは「ぐるーぷ闘うおんな」として?
織田:ではないです。その中で知り合ったり、外で知り合った学生のリブ戦線の学生たち。私、いろんなところに行っていたので。私たちはそこまでストイックじゃないので、危なかったら逃げるという考えをもっていたんです。「それは恥ずかしいことじゃない」「やるほうが悪いんだから」と思っていたけど、それができない人たちがいた。うまく利用されたんですね。そういうことがどこでも起きていました。私たちの身近でもそういうことがあった。
それと同時並行にリブにも関わっていて。順番で行くと、リブ新宿センターのあたりで、『すばらしい女たち』をつくって、「あいだ工房」ができたりして、みんなそれぞれ、いろんなことをやりだしたんです。自分たちの歩む道を探しているときのコレクティブでした。コレクティブから出て活動資金のために水商売に行く人が多かったんです。私も行こうとしたんですけど、水商売、ホステスができなかったんです。ホステスで短期間にお金を稼いでコレクティブにもっていく、「それのどこが悪い?」みたいな風潮があったんですね。
【三里塚闘争】
三里塚闘争がその頃あって、リブからも三里塚に応援に行こうということで援農をした。ドンパチじゃなくて、耕したり土に触れる形で応援をする。お百姓さんたちが闘いをやっているから、農作業が遅れている。遅れている農作業をフォローしようということで行ったんです。コレクティブだけで集まらないで、いろんなものを試すようになって、いろんな場所をみんなが見つけて。私も三里塚には行ったんです。そこで、リブの女が男のいる前で洋服を着替えたっていうんで、問題になったりとか。私はしなかったですけれども。
三里塚は土に触れてとても楽しかったし、お百姓さんが親切だったし、作物が育ったりするのは楽しかった。帰りたくなくなった、と思ったんです。そこのご飯を食べさせてくれるんですよ。お金の代わりに。いくらでも好きなものを食べてよくて、ご飯はそこで食べるんです。そのときにお米は「自分は自分でよそいます」って言うじゃないですか。そしたら、しゃもじを握って、おかみさんが放さなかった。だから「いや、自分でやります。申し訳ないですから」「好きな量を自分でやりますから」って言ったら、「絶対に駄目だ。これは自分のやっと勝ち取った仕事だ」と。
農家の中で農民として生きていくときに、おしゃもじの権利を持つ、そこのおかみさんになるということが、自分にとってステータス。やっとつかんだステータス。若いおかみさんで、その場にはおばあさんもいるんですよ。「おばあさんからやっとつないだこのおしゃもじは命に代えても渡さない」みたいな感じがあった。「そんなしゃもじに命懸けんのかよ」「みんな、おっさんだって自分でつげばいいじゃない」みたいなこと言っちゃう。そうすると「いや、違う」って。怒られないんですけど。でも「あんたたちはわかんないかもしれないけど、農家の嫁は、嫁からおかみさんになる。このしゃもじが自分の血と汗の結晶なんだ。この三里塚に、村に受け入れてもらえた」って。そんなこと言われちゃったら、しょうがないなと思って。それを聞いたときに、「あ、ここは私のいる場所じゃない」と思ったんです。
時々来ようかなと思ったんですけど、「ここは私の考え方と全く違う。封建制を良しとする女性とは、コミュニケーションがちょっと難しいな」と思ったんです。私はせっかちで、すぐコミュニケーションができるほうがいいので。感謝はしたけど、それは違うなと思ったんです、はっきりと。こういう考え方があるから世の中変わんないんだと思って、ここにいたら楽しくないぞと思った。土は楽しいけど、これは楽しくない。
あと私がいた時に、機動隊が1人死んだんです。私たちは耕しているだけだから、そっちのほうは行かない。そのときにおばあさんが手をたたいて喜んだんです、「わあ、死んだ」って。私はそのとき、ぞっとしたんですね。人がやらなくていい闘争の中で死ぬわけじゃないですか。それを殺した側のグループの人が、殺して手をたたいた。それもショックでした。それも、私のいるところじゃないと思った。
戦争じゃないんだから。空港に明け渡したくないという主張でやっているのはいいけど、人を殺すことを喜ぶ場所じゃないはずだと思って。それで「もうここは私のいる場所じゃないし、これ以上いたら、今は楽しいけど疲れるだろうな」と思って。それは石井紀子さん(後述)の追悼文集にも書いたんですけど、それで「もう二度と行きたくない」「もう三里塚は嫌だ」と思ったんです。この空間は女性の未来がないところだと思ったんです。人を殺して喜ぶような状態で、一緒になって喜べないし。いくらおかしいぞと言う側であっても殺したくない。だって殺さなくてもいいんだもん。殺さなくたってできるはずなのに。そういうやり方は違うんじゃないかと思ったんです。そういうことが同時に起きていました。
杉浦:それが美津さんがメキシコに行く前後っていうか。
織田:いえ、少し前。三里塚でリブが過激なことを言ったり、男の前で脱いだ。それを「挑発した」って。挑発じゃない、普段のことやっただけなんです。人の前で脱ぐのがどこが悪いという考えですから。パンツを共有するぐらいですから。悪意があったり、挑発するためにやってるんじゃないんです。普段の着替えで、みんながいてもやっていただけなんです。それをやったら、ものすごく罵倒されて大変だったんです。理解をする人も中にはいました。私は「もういるとこじゃない」と思って「もう次は行きません」と言ってやめたんですけど、このことは後で聞いたことです。
別の時期に行った人がいるんです。私のいちばんの親友で、リブセンターで唯一話ができた学生。その人が三里塚の人たちとコミュニケーションを取って、「自分はやっぱり分かり合いたい」と言った。その人の住んでいるところが千葉県だったんです。地元だから人ごとじゃないということで、彼女は三里塚闘争に入っていって。三里塚のただ一人のリブだと言って、三里塚の(アウンサン)スーチーさんと言われています。
石井といって、三里塚闘争のリーダーですよね。石井という市議会議員かなんかをやったおじいさんがいて、その息子さんが闘争のリーダーで。その息子さんは1人だけ死刑の求刑が出ていました。何にもしてないのに。その人、殺したわけじゃないから。でも、リーダーだっていうだけで死刑求刑を受けた唯一の人なんですよ。その男と結婚したんです。
私は許せないのは、女を使ってという言い方は失礼だと思うんですけども、これもまた美人なんですよ。『夕鶴』のつうのような。玉次郎の華やかさではないんですけれども、美人なんです。その人は法政なんですけど、法政で待ち合わせして、門のところに待ち合わせの時間になってもいないんです。どうしたんだろうと思うと、男がたかって、たむろしてるんです。もしかしたらと思って、男をかき分けていくと彼女がいるんです。そのぐらい、男がたかるぐらいの美人。またそいつも男にたからせるのが好きでね。「なんでそんなことやってるの」「時間の無駄だ」って。そしたらすぐ来るんです。そうすると男がついてくる。シャットダウンするけど。「私と話したかったら男たちとはやめてね」って言って、一緒にいたんです。彼女も好きだったけど、私にはパートナーがいて、その人のほうが話が合うから。もしいなかったら彼女を好きになっていたかもしれない。うん、そのぐらい、いい女でした。それが新聞にも載ったけど、何年か前に自動車事故で死んで、追悼集会とか追悼文書とかいっぱい出た。いっぱい書けるし、しゃべれるし、三里塚闘争の嫁のリーダーになった。
結婚式のときに「行くの、嫌だな」と思った。結婚式自体が許せなかったから。だけど、リブの学生だったときのグループと行ったんです。そのときに、そこにいた若いお百姓の男の人たちが、若い女が都会から来たっていうんで喜んじゃって。ウーマン・リブとして許せないような。私たちを駅まで送ると言いながら、いろんな団結小屋をたらい回しにして、「みんな、女が来たぞ」という感じで連れていくんです。もうみんな車に酔っちゃって、気持ち悪くなって。私は「こいつの結婚式のために来て、やっぱり三里塚には足を踏み入れるべきじゃなかった」と思って、それから全然行かなかったんです。
そういう前近代的な日本の封建社会が、それでも成田空港反対ということで闘うわけじゃないですか。だから、自分の生活と、土地を守るというお百姓として権力に対して闘うというのが別なんです。その中に女性解放はなかったと私は思っています。
彼女はおしゃもじを持つほうに行ったなと思ったんですけど、普通の女じゃないから、そこで集会を開いたり、お嫁さんを集めたりいろいろして、中を少し変えたんです。だから三里塚のスーチーさんと言われているんです。彼女を慕ってファンがいっぱい援農をしに来るんです。だから手伝いに不自由しないんです。「またこいつ、こういうことやってんな」と思ったけど。
数年前、憲法9条の集会のときに偶然会ったんですよ。雑踏の中で。だから運命かなと思って、三里塚に遊びに行きだしたんです。前よりは封建的じゃなくなって、彼女の家に行くからそうなんですけども、三里塚も少し変わって。お嫁さんたちも、もうちょっと自由になってきて。そういう中で有機農法をやっていたので、外国から勉強に来る人たちに教えたりとかしながら、相変わらずファンが集まって、カリスマみたいなんです。
杉浦:それ、最近の話ですか。
織田:つい最近。憲法9条の集会だから。それでカリスマみたいになっていて。人が集まるのが好き。自分のファンがたむろしているのが好きなんです。みんなに「こういうふうにやって」って教えたり。憧れの目で見ているんですよ。「石井さんのお友達ですか。リブの方たちなんですか」って。みんなそういう感じなの。だから、少しは三里塚は変わったかなとは思いましたけど。
実績は残したと思う。農民としての女性の生き方に対して、お嫁さんとか封建制というのでない形で、農民としてどうやっていくかということは出せたと思います。だって、離婚したから。女性1人で農家やって、それでも頑張っていたから。また男(元夫)がほんと許せない。自分の娘と同じぐらいの年の女性を好きになっちゃって。自分の奥さんはきれいだけどうるさいでしょ。そういう女ってやっぱり何だかんだ言う。若いうちはきれいでいいんですけれども、いつまでたっても彼女はどんどん激しくなるから。中を改革するわけじゃないですか。嫌なんですよね、やっぱり。
杉浦:夫が。
織田:そうです。進んだ男のはずなんです。三里塚の中ではいちばん。死刑求刑が出るぐらいなんですから。それでもそうなんですよ。
【身内の性暴力被害】
でも、私の友達のリブの人たちは、みんな自分の思ったことをやっている。それなりにあのときの信念を変えてない。今でもばばあになっても変えてない。三里塚の人もそうだし、私も性暴力(のことをやっている)。それはレズビアンの被害者の方のことがやっぱり大きいですけど。あと身内が強姦、輪姦の被害に遭っています。
どんなことをしても防げない強姦。海の真っただ中でヨットに乗っていて、海に沈んで死ぬか、あるいは強姦を受け入れるか、2つに1つしかない。岸までは泳いでいけない、絶対に防げない輪姦です。そういうようなことがあって、そういう伏線が昔にあって被害者の支援を続けている。
そこには婚約者がいたんです。でも、婚約者はフランスに逃げちゃった。見た目ではソフトで、男のひきょうさは1時間、2時間じゃわからない。命に代えて闘うこともしないで。私だったら闘うのにと思ったりしたんですけど。今みたいに事後ピル、緊急ピルがなかった。だから当然、輪姦されたら妊娠します。誰の子かわからない。おろすしかないじゃないですか。ものすごく苦しんで、畳がぼろぼろになるんです、ちぎっていて。そんなの見たことないでしょ? 畳がちぎってぼろぼろになるぐらい大変だったんです。だから私は貯金を全部渡して。それしかできなかった、死なないように。こんなに壮絶なのかというのは、高校生のときに知りました。
杉浦:畳ぼろぼろになるっていうのはストレスで?
織田:こうやって畳をつかむんです。つかめるわけないじゃない、畳なんか。だからぼろぼろになっちゃうんです。普通の畳ですよ。ならないじゃない、普通は。爪なんかもぼろぼろになっちゃいました。剝がれたりとか。そのぐらいつらいんです。
杉浦:それはトラウマの。
織田:妊娠したとき。これをどうしていいか、わからない。でもやっぱり産めないからということで。その頃、中絶は優生保護法があって。誰かの承諾か、経済的な理由か、幾つかの理由で(中絶することができた)。男の人に書いてもらえないから、頼み込んで。10代の、20歳になってたかな、そのぐらいの女の人が1人で行って。親にも言わないで、私だけが知っていることです。
その姿を見てやっぱり許せないなと思ったんです。絶対逃げられない。彼女は水泳がすごく達者で、その後、潜って逃げられなかったことを後悔して、スキューバダイビングの1級を取りました。潜ってでも逃げられるように、もう二度とそういう被害に遭いたくないっていって。だけれども、それでも被害の後遺症は消えないじゃないですか。潜れなかった自分が悪いと思うわけです。普通は潜れないし、泳いでいけない。オリンピック選手でも泳いでいけるかどうかぐらいの距離。陸から離れたところだから。
杉浦:それは織田さんが高校生ぐらいのときの?
織田:そう。だからそういう伏線もあって。やっぱり割に合わないなと思いました。優生保護法の活動もやりました。だから同時にいろんなことをやってるんです。これは障害者のためというんじゃなくて、女性に不利な法律だと思ってやりました。労働者の支援をしたことで、雇用平等法も一緒になってグループでやりました。
【まいにち大工】
そういうことを同時にやりながら、でも、どうしても共通して語れないのがレズビアンの話。合宿なんかやったりすると、夜になると布団をずずずずずっと向こうに持っていくやつがいるんです。「何やってんの?」って言ったら、「だって隣に寝たくない」とかって言うから、「なんでそんなことやってんの? おかしいでしょ」って言って、私は話すんですよ、そういうことをした人間とは。それで傷ついちゃう人もいるだろうけど、他のところではこれだけ信頼関係をもって合宿をしている人だから。それが今のいちばんの親友です。
杉浦:話をした?
織田:そうです、そのずずずずずって失礼なことやったやつ。話をすれば。でも、その人は頭が固いからわかりませんよ、でも、行動で見せるしかないから。
私はいろんなことをやりながら、人の役に立てば、やっていることが認めてもらえると思うようになったんですね。労働運動でも何でもね。レズビアンは女性の役に立たなきゃいけないと思ったんです。人の役というのは、私にとっては女性の役に立つこと。女性の未来に役立つこと。自分の望んでいることを、果たして他の女性たちも望んでいるか。他の人たちにとって良くないことだったら、やらない。まず活動としてはやれない。
他の人たちも困っている、だけどやらないだけ、そこまで余裕がない。余裕がないというほうが大きかったです、最初の頃、東京・強姦救援センターにたどりつく前の頃は。だからレズビアンで居場所に集まるということをしたんです、パーティーをやって。どこまで行ったっけ?
杉浦:70年代の後半。「女たちの映画祭」とか女のパーティーとか。
織田:『ザ・ダイク』の頃は場所をつくったんです。駒尺喜美さんっていらっしゃるじゃないですか。法政の女性の教授、第1号、あの人と。あと「JORA」というのがあって、「水玉消防団」という(女性バンドが運営していたスタジオ)。女性に基金を出して、女性の起業を推進するという東京都の資金援助の企画があったんです。それに申し込んだ女性たち(水玉消防団)が、女性のスペースをつくろうということで、早稲田に「JORA」という貸しスタジオをつくったんですよ。そこにお店もあって、まかないとか、レストランみたいな居酒屋をやりながら、スタジオを貸していた。
そこのスタジオを借りて、パーティーを月に1回、ダンスパーティーかティーパーティーか、交互にやりました。女の人がたくさんしゃべれる場所。私はレズビアンが来やすいだろうと思ったんですよ。私たちがレズビアンで「ダイク」ということでやっているから。「まいにち大工」というのは、「毎日レズビアン。そのときだけじゃないですよ」という意味だったんですけど。あと「ひかりぐるま」というのもありましたよね。
要するに、「若草の会」じゃない場所をつくったほうがいいということで、フェミニズムを語れる、レズビアニズムも語れる場所。そこで好きなことをオープンマイクでしゃべれるということで、女性だけのバンドとか、女性だけの劇団とか。「青い鳥」というのがあったんですけど、木野花さんがいたところと私のパートナーが仲良くなって、呼んで寸劇をやってもらって。だから、女性同士で頑張っている女性たちがつながる場所をつくったんです。
杉浦:JORAですね?
織田:そうです、JORA。そこの経営していた「水玉消防団」というのは女性だけのバンドです。そのカムラとはまだ今でも交流がある。彼女、イギリスで活動して、イギリスに行ったときに会ったり、彼女が東京に来たときに交流しています。
そういうパーティーをやりながら、そこに駒尺さんたちも来ていて。でも年代が若い人が多い。なのでシニアはちょっと疲れちゃう。でも駒尺さん、黄色のサッシュのベルトを巻いて歌ったりするんです。うまきゃいいけど(笑)。田嶋陽子とかも来て。うまきゃいいけどね(笑)。わーって楽しいから、みんなやってくれるんです。一流のアーティストもいっぱい来ました。アメリカからも、ただで。
そういう場所をつくって、レズビアンもフェミニストも劇団をやっている文化的な女性たちも一緒に集まってやる。そこで交流が起きて、みんなが女性の劇団のファンになったり、見に行ったり、バンド聞きに行ったり。思想は文化だと思いますので、そういう文化的なつながりとの接点の場所で、毎月やっていた。そのうち駒尺さんたちは、シニアグループ、シニアだから激しくダンスなんてのはないグループをつくった。シニアのレズビアンとかフェミニストたちが集まる。そういう2つ(のグループ)ができました。
そういう意味ではどんどん広がった。私たちのイベントは派手ですよ。中山千夏も来た。そういう場所ですから。本当に文化人がいっぱい来た。男以外は、限定女性だから。
杉浦:じゃ、70年代の後半ぐらいに。JORAを中心にいろんな交流ができた。
織田:文化的な交流。レズビアン・フェミニストを中心にフェミニストたち、あと文化人たちが集まる場所。そこで自分の展覧会とか、自分のコンサートとか。有名なギタリストが日本に呼ばれるじゃないですか。日本で演奏して、その夜は私たちのところに来てギターを弾くとか、そういうことをしてくれたり、けっこうハイレベルなときもある。そこには在日外国人、多かったです。ユニオン・チャーチのみんなも来た。そういう場所をまずつくって、いろんな形で活動していく。頑張っている女性たちを応援するという形で、お互いに応援し合う。そういうようなところでの場所、サロンをやっていました。
【『すばらしい女たち』にこめた思い】
杉浦:ちょっと戻りますけど、『すばらしい女たち』で印象的だったこととか、何かあれば。麻川さんはけっこう大変だったって。
織田:あの題名を付けたのは麻川さん。
杉浦:はい、それは言ってました。
織田:いろんな題が出たんですけれども、最大公約数ですよね。私はちょっとぴんと来ないなと思った。今は素晴らしいと思います、あの題は。あらゆる人の意思を反映した言葉だし。肯定的な言葉なので。
レズビアンは、その当時のレズビアンの文化的なものを表している小説でも何でも、最後に死んだりとか、マイナスイメージなんです。だから、とにかく私たちは肯定的に明るく、開かれた形にしてかなきゃいけないと思って。社会に対して変革になるような。しかも自分たちが力を付ける、そういう場所じゃなかったら意味がない。他の女性たちの役に立つ。これが一番大事ですね。自分さえ良ければいいというのは意味がない。それだったらやらないほうがいい。みんながそこで力を付けて、自分たちの場所に生かせる。さらに相乗効果で、どんどん女性たちが元気になって活躍できる、というような。
『すばらしい女たち』の題名は、けっこうもめました。あの頃は本当にやっとできた、という感じ。本当に個性的な人の集まりで、ピンからキリまでというか。職業でも、ものすごいたくさんお金を稼いでいる人、翻訳をやっていたのかな、貿易をやっていたのかな、ドイツ人の大金持ちのくせのあるレズビアンの女。まぁいいんです。ちょっと冷たいんですけど、基本はちゃんとしているので。
あとキムという金髪で青い目のレズビアンが迷惑なくらいもてて…大変だった。だからみんなばらばらで、とにかく集まっている人たち一人一人が、爆発しているような人なんです。爆弾抱えてるんじゃなくて、もう爆発してるようなやつらの集まりなので、まとまるのがとっても大変。私のパートナーはその中でも一番ちゃんとした人。
杉浦:大変だったと思います。
織田:麻川さんは穏やかなのでクッション。あの2人は大事でした。
杉浦:この『すばらしい女たち』は、どういう思いをのせた媒体だったんですか。
織田:それはフェミニズムですよ。レズビアン・フェミニズム。日本で最初の。レズビアニズムといっても、レズビアンといったらそれまでは下半身。「若草の会」はそこ止まりなんです。やっぱり性的指向まで。社会に対するメッセージまではいかなかった。今はあるかもしれないけど、全ての人間に共通するようなメッセージを出す。やっぱりフェミニズムが根底にあって、それのいちばん影響を受けるのがレズビアン。女性2人ですから。男性と女性のカップルだったら半分でしょ。でも、女性と女性だったら、もろに女性差別を受けるじゃないですか。その頃は女性賃金が男性の半分だったんですよ。50%。レズビアン2人で男の1人と同じ。明らかにそういう違いがあったので、フェミニズムと結び付かざるを得なかった。
まずはレズビアンとして生き残るという人たちが。生き残るためには経済って大事じゃないですか。だから雇用平等法も大事だし、それから場づくりも大事だし。経済面と心身共に自立。心だけ自立していても、生活面で自立しないと、実際に足元をすくわれる。なので、やっぱりしっかりと食べていく。50年前の頃は、食べていくこと。まだ主婦になる人とか、女性は腰掛けということがあったので、女性が本当に自分のやりたいものを見つけられるように。女性の大工さんというのも、その頃、出てきました。もちろんレズビアンでした。
レズビアンの大工であるミドリさんたちは体力付けて、大工仕事をやって、「男にできることは女にできないことはない」というキャッチフレーズでやっていたんです。そういう何人かのレズビアンが自分の場所をつくっていって。お互いに信頼し合ってますよ、それは。「あの人はあそこで頑張ってるね」「この人はここで頑張ってるね」って、横目で見ながら自分は自分の頑張りをするという感じで、本当にレズビアンがいろんなところにいました。
それから、自分の手帳をつくろう(ということで)、女性のための手帳づくりをやったりとか、女性の講座をやる。レズビアンだと言わないけれども、もうやっていること見たらすぐわかります、私たちは。もうみんなレズビアンなんです。あの頃、活動して中心になっていた人たちは。女性の場所を無償で提供した駒尺さんたち。初めての女性の老人ホームをつくったのも、やっぱりあの2人のカップルじゃないですか。だから当時の日本で女性を底上げしてくれたのは、レズビアンの活動。レズビアンの人たち。フェミニストとね。フェミニズムの思想を持ったレズビアンが非常によく働いたと思います。
駒尺さんが自分が教授になるときに、1人選ばれたそうなんです。第1号ということで喜ぶ人もいる。でも駒尺さんの場合は、「自分が条件を出してのんでもらえますか」「もう一人の女性の教授をつくってくれるなら自分は受けます」と言って、2人でなった。そういう発想の人が活動するんですよ。彼女はどっちかというと、文化人ですよ。文筆家だし。だけれども、フェミニズムの思想をもって、他の女の人、レズビアンじゃない人を、共に手をつないで、時には引き上げる。踏み台を用意してあげるとか、それができるのがレズビアンだと、私は今でも思っています。それは当たり前だと思っているんです。皆でそういうことをした。
『すばらしい女たち』はばらばらだったけど、レズビアンのフェミニズムというのを日本で言わなきゃいけないって、その強い気持ちで集まりました。だから、書いていることはいろいろだけど、そこの根底にあるのはリブの場所でやるということ。リブの場所でつくるということが大事だったんです。これ、若草の会とか、他でつくっちゃ駄目なんです。リブセンターのあるときに、そこで会議をして、リブの場所でレズビアンがこの雑誌をつくる。そのときは、田中美津さんは参加できません。「皆さん来ないで」「レズビアンだけでつくる」と。レズビアンで初めてレズビアン・フェミニストだけで活動した最初のものです。
杉浦:じゃあ、美津さんがまだメキシコに行く前から、割と。
織田:芽が出て、その頃、いろいろ分かれ始めて行った。
杉浦:行ったってことですよね。
織田:うん。
杉浦:わかりました。ありがとうございます。ちょっといったん休憩しますか。
【フェミニズムとレズビアニズム】
杉浦:織田さんは「女たちの映画祭」とか、そのあたりはあんまり関わられてないですか。
織田:ここの時のメンバーには入ってないです、うん。
杉浦:じゃあ、『すばらしい女たち』に関わって、その後『ザ・ダイク』をつくって。
織田:そうですね。レズビアンのことしかやってないから。女たちの映画祭のメンバーには1人いたかな。でも違うかもしれない。
杉浦:わかりました。じゃあ、もうレズビアン・フェミニストセンターあたりの話からお願いするということで、なんか70年代までで何か話し忘れていることがあれば。
織田:どんなことがあるかな。
杉浦:さっきおっしゃっていたように、75年ぐらいまでは割とリブが。
織田:そうですね。
杉浦:その後、みんなやりたいことを始めた。
織田:そうです。やりたいことといってもフェミニズムです。でもリブという言葉を使ってる人もいる、今でも。
杉浦:そうですよね。
織田:リブという言葉は今はあんまり一般的じゃないじゃないですか。一時期の流行じゃないけど。
杉浦:でも、80年代後半ぐらいまで、リブに関わった人たちがだいぶいろんなことをやっていた。
織田:そうです、今でもやっています。言わないだけでやっている。ただ……うん、やっています。残ってない人もいるけど、続けている人はやっている。
杉浦:『ザ・ダイク』に関しては、タイトルからわかるとおり、ダイクのこととかレズビアンのことですけれども、女全体じゃなくてレズビアン、女を愛する女の話だけでミニコミをつくろうと思ったのは、何か理由があったんですか。
織田:それは、自分の中でフェミニズムというのは、そういうものだと思っていたんです。女性に向けてエネルギーを女性が使う。今のこの性差別の社会では、そういうものだと思っていたんです。三里塚の封建制とかいろんなのを見ると。あと、今もあるけどもDVで暴力ふるう夫のところに戻ったりとかね。そういうことが多かったので、1人でできることって非常に少ないじゃないですか。自分のできることで、最大限の効果を上げるためには。いっぱいいろんなことを同時にやりましたけれども、でも、自分のエネルギーを無駄にしたくない、生かしたい。
女性の活動というのは、その頃はグループができてはつぶれて、できてはつぶれて。黄色いくちばしでなんか言っても、すぐ「あの女たちが」って言われてつぶれていく。つぶしているくせにつぶれていくって言うんです。そういう連続でグループができては消え、できては消え、というような状態だったので。自分のエネルギーを一つも無駄にしないでできるのが、レズビアンであるということ。自分の存在、エネルギーを無駄に垂れ流さない、というか、変なところで必要もないところに使わない。どうしても一滴も無駄にしたくないと、それしかなかった。それに特化する。
もちろんフェミニズムと結び付いてないと駄目なんですけれども、無駄にしたくないために、自分を最大限表現している。自分の基本的な立つところはそこなので。そこから外れることはないんですね。今でもそれは全くありませんので。余裕がなかった。他の人たちまで手が回らない。
まずは自分自身の拠って立つところを深めて。それは、カウンセラーの河野貴代美さんの力を借りて、コンシャスネス・レイジングをした。自分たちで「自分たちは一体何者か」ということをディスカッションしながら、自分たちで答えを出していく。他にお手本がなかったので、やり方を教えてもらって、自分たちは一体どういう存在で、何をしたくて、というのをはっきりさせたかった。
はっきりしてなかったんです、世の中で。はっきりしているものはマイナスイメージの変なものばっかりだった。プラスイメージでモデルがなかったから、自分たちで後に続く人たちのために何か形に残したい。残っていれば、そこをきっかけに何かできるだろうというので、ミニコミをつくったんです。それは『すばらしい女たち』も『ダイク』も同じ。後に続くレズビアン・フェミニストのために、あるいはレズビアンのために。フェミニストじゃなくても、この女性の問題というのはみんな大事なんです、レズビアンだったら、女性だから。
だから、いちいちフェミニストとか言わなくても、レズビアンの人だったら誰でも話ができるんです、この女性問題。女性差別という言葉を使わなくても、自分の生活とか生き方とか人生を語れば、それがこの女性差別社会を語ることになる。それは抜き差しならない2つ。イコール。私たちはレズビアニズムとフェミニズムがこういうふうにずれて重なっているものじゃなくて、全くずれがなくて重なっているものだと思っている。だけど、「ひかりぐるま」の沢部と前に話していて、沢部さんはちょっとこうやってずれているとか、いろんな考え方の(人)がいるんです。
でも、どこかに接点があれば、ずれていても誰とでもできる。それこそ男装でレズバーばかりで仕事をしている人でも話せるんです。「若草の会」の人とフェミニズムについて語れるのはレズビアンだから。それは女性として生きるということの不自由さで、何とか自立した女性になる。レズビアンというのは自立してないとレズビアンでいられないから、要するに女性が自立するということなので、女性の性差別社会の中のテーマですよね。
別にフェミニズムとか、どこかの講座に行くとか、そんなことをしなくても、「若草の会」の人と十分話ができるんです。全く重なった話もできる。孤独に耐えらないという場合もありますけれども、でも話ができない人はいないんですよ。女性だったらね。それが活動の中にいようがいまいが。だからそれをしっかりと2つ出す。
「ビロー・ザ・ベルト・レズビアン(Below the Belt Lesbian)」って、私のパートナーは「下半身レズ」って言って「そういうのは良くない」って言ってるんですけど、ミナ汰さんに散々それを言ったらしいんですけど、ミナ汰さんがそういうふうに言われて「フェミニズムというのがどんなに大切かというのは、私のパートナーから聞いた」って言うんですが。その頃、帰ってきたばっかりだったのかな、日本に。そんなことを言っていたけど。要するに自分のことを「レズ」だと言っている、そして「俺は男だ」と言ったとしても、話は100%できるんです。かつて女性であったり、女性であるという部分がある人は話ができる。だから、トランス男性も、話はほぼ重なると思うんですね。
トランス女性に関しては、女性を意識したときから、その人たちと少しずつ、つながるところがある。トランス女性というのは、2つの人生を生きているわけだから。女性として生きるというのは、中身ですよ。トランス女性で、手術をする人としない人は、ものすごく差があるんです。手術できない人もいるけど。それは何かの事情でね。でも、手術をすることには何のメリットがあるかというと、自分(MtF)が女性に危害を加えないという宣言になっているんです。自分が女性として生きるときに、女性と本当に対等に話をするためには、男の部分を自分の努力でなくせるところはなくす。自分にとって嫌な部分、体が嫌だという人もいるんだけど。だから、その人は本当に女性になろうという人だと思って、お友達で、さっきまでお話してたんですけども。だから、その人たちはこうなんです。
杉浦:重なっている? 重なりがある。
織田:うん、そうそう。重なった部分で行けるんで、話はできるんです。重ならない部分は、その人の個性だったり生き方だから。私と重なる部分も、重ならない部分もある。重なったところでやっていこうと考えてなかったんです、昔は。だから、トランス女性とかトランスジェンダーの方ともお話はできなかったし、できるだけ自分と近しい人とやっていたのが、やっぱり今までやってきたことで一つきっかけになったのは性暴力。『声なき叫び』。(先に)行っちゃっていいんですよね?
【スライド「ポルノグラフィは女への暴力である」】
杉浦:そうです、はい。
織田:スライド(「ポルノグラフィは女への暴力である」)は、まずアメリカのレズビアン・フェミニストにスライドを持ってきてもらって、それを日本のものに差し替えて。その頃は、ノーパン喫茶とか女性差別オンパレードの歌舞伎町とか、ポルノ全盛時代だったので、SNSはなかったけど、そういう時代だったので、ここでこれだけ女性がばかにされて虐げられていることに黙っていられない。「なんでみんな黙ってるの?」って思ったんです。
だけど、それを強要はできないじゃないですか。女性は大変な状況で生きているから。多くの女性たちは、本当に子どもを抱えて大変とか。そういう中で「じゃあ、自分たちはこの少ない塊で、1人で何ができる? 何人かで何ができる?」と思ったときに、やっぱり性差別を目で見える形で表現する。書くものじゃなくて。書くものは一応ミニコミをやった。レズビアンのもやった。
ポルノに関心を持ったのは、レズビアンが三大ポルノの一つだったからです、その頃。少女もの、妊婦もの、それからレズビアンか。あ、強姦(ごうかん)ものか。妊婦ものは3番目に入らない。少女もの、強姦もの、それからレズビアンが3位に入って。ベスト3の男の人たちの楽しむポルノ。
でも、レズビアンというのは、女同士が楽しむものであって、それが男の楽しみになっちゃってるわけじゃないですか。単に女が2人いるという。自分はプライドをもってレズビアンとして生きているのに、それを性の対象にしか見ない。しかも自分たちの支配、支配する人間というようなものが、ポルノの中で、非常に人気のものとして扱われていたので、スライドのポルノというものに注目した。だからレズビアニズムから来たんです、あの「ポルノグラフィは女への暴力である」のスライドは。
だけれども、多くの女性たちが性的搾取されて、被害に遭っているので、他の女性たちに対するものも同時に知らせようと。それは同じなんだけどね。レズビアンって女が2人いるだけだから。だけど、レズビアンの部分は長くしました、説明を。
杉浦:スライドですよね。
織田:そう。最初はもっと長かった。「長すぎる、いい加減にしろ」って言われた。だけど、要するに、他の女性たちも全部自分なんです。レズビアンのところだけじゃなくて。ポルノにレズビアンが落とし込められて、レズビアンのラブ、愛情というものがそういう商品として、男たちの楽しみのために、全く違う方向に買われている。お金出して買うものですから。そういうものはやっぱり許せない。女性たちが商品にされているのも、もちろん許せないです。レズビアンはそこから一歩違った生き方をしている、直接的には男の力を借りないで生きようとしているにもかかわらず、そこまで支配下に置こうとするというのがどうしても許せなくて、ポルノグラフィに対するスライドを作った。
それで、コマーシャルも入れた。「悪書追放」ってその頃あったんですけど、教会の人たちの運動で「青少年にこんな本(ポルノ)は良くないです」と言っていた運動も、もちろんあったんですけれども、それではやっぱり女性差別の怒りは伝わらない。それとポルノだけに焦点を当てたら、ポルノを読んでいる特殊な人だけに言えばいいみたいな感じになってしまう。じゃなくて、これが社会にどれだけ悪い影響を与えているのかを伝える。女性は見ないから。男性だけが楽しんでいる。男性は楽しみの中でいろんなものを見て、女性を見ている。女性が知らないところで、そういう支配の物語がつくられていくというのを、女性たちが見ないから知らせるのと、それが社会にどのような悪影響があるのか、それがどうやって女性を差別することにつながっているのかということを表すために、スライドにコマーシャルへの影響を入れたんです。
だから、もともとのアメリカのものより、コマーシャルの部分が非常に多いです。というのは、日本では七五三とかでも、男は戦いに行く端午の節句じゃないですか。戦争。それが男の子のお祭り。でも、女の子は結婚式。きれいな人形と比べて「どっちがきれい?」って。3歳ぐらいのちっちゃい女の子が、その時代から「お人形と自分とどっちがきれい?」と。お人形以上にきれいになれるように、お人形のようにきれいになれるように。それに対して男の子は「どんな夢をつかむのか。わが子は」みたいなコピー。何かの夢に挑戦する、そういう積極的なイメージと、生きてない人形に近づける、というようなコマーシャルをスライドに入れた。いろんなのがあるんですけど、それを持ってくる。どれがいいか。ものすごい膨大なコマーシャルの中から、どれを皆さんに伝えたらいいかというので探したんです。
杉浦:手作業っていうか。
織田:そうです。街をずっと見てて。ポルノショップにも。だから、そのお仕事をしている人だと思われたんです。「いや、いいの入りましたよ、お客さん。こないだ探してたでしょ、妊婦もの」とかいって、ポルノショップの店員と顔なじみになっちゃう。それをスライドに映して、日本のものに代えて、「日本ではこういうことが行われている」「広告を見て何となく嫌だなって感じるのは、ここから来てるんだよ」って。その根っこのところはどこにあるのかって。女性は根っこのポルノは見てないから。
「何となく不愉快なポスターだな」とか「何となくこれ嫌」と感じる。「何となく」じゃなくて、100%計算されて、そのポスターはつくられているんです。ポルノが全く同じポーズ。だからそれを探すんです、全部。「この宣伝があった」「これポルノの中によくあるところだな」って。大股開きのところとか、性器だけを拡大したものとか。それが宣伝に使われているとか、それを全部。街を歩くときに目が100個ぐらいあるような感じで探す。
どの視点でこれを選ぶか、それがレズビアンの視点なんです。男に頼らないで、男にほんの一滴でも支配されたくないと思っている人間だから、見える視点だというふうに私たちは思ったんです。他の人たちはそこまで分からない、探しても。なんかちょっと違うんです。見つからないって言うんですよ。でも見つかるんです、いっぱいあるから。どんぴしゃのものをすぐ見つかるんです、私たちが見つければ。
杉浦:ショーウインドーの写真とかもありました。
織田:そうそう、森英恵の。肉が置いてあって、動物を鎖でつないでね。あんなファッショナブルなもの。あれはニューヨークのデザイナーみたいな人が来て、そのときだけやるんですって。その頃流行っていた、いちばんおしゃれな『流行通信』という雑誌がその当時あったんですけど、それは森英恵さんの息子さんかなんかデザインしてて、ものすごくおしゃれなんですけど、暴力がものすごく洗練されたおしゃれな感じで、きれいな写真とか映像になって出てるんです。
私たちが見たら、どんなにきれいでも、そこから来るメッセージは女性に対する暴力なんです。だけど、それがきれいだから許される。女の人をたたいているような構図。男女平等みたいな同じ服を着ているんだけど、違いを出すためには男性が女性をたたいている。どうしても対等な洋服は駄目だから、そこで違いを、上下関係を付けようとする。ファッションにおいてもそういうことが行われているというのは、やっぱりなかなか見抜けない。
杉浦:そのスライドづくりは、織田さんが発案者なんですか。他にどういう人たち。
織田:パートナーと一緒に。
杉浦:じゃ、ほとんど2人で?
織田:それは、彼女はアメリカの情報を知っているから。そういうのがあるよっていうことで。
杉浦:学生時代に知り合った方ではない方?
織田:じゃない、うん、『ザ・ダイク』の後です。
杉浦:ですか、わかりました。
【レズビアン・フェミニストセンター】
織田:レズビアン・フェミニストセンター(LFセンター)をつくったときは、ひかりぐるまも解散して、ダイク(まいにち大工)もなくなって、LFセンターになった時点で。
杉浦:今のパートナーの方が中心になってLFセンターをつくって。
織田:そうです。考え方が少しずつずれてきて。
杉浦:スライドの企画をやろうということで、そのスライドをやるためのグループとして、LFセンターをつくったってことですか。
織田:違います。LFセンターは、ミニコミがなくなっちゃったから(つくった)。レズビアン・フェミニスト、今まではそこまで出してなかったかもしれないけど、フェミニズムというものをちゃんと打ち出して社会に対して言っていこうと、そういう考えをもつ人たちが残って、LFセンターという名前にしたんです。
その頃、いろんなレズビアンのグループはもちろんでき始めました。でも私たちは、社会に向かって女性差別というのを明確に打ち出すグループにしようということで。それでモデルがなかったから、自分たちの中から出すしかないじゃないですか、考えて。その考え方の練習を河野貴代美さんから教えてもらった。「コンシャスネス・レイジング」というアメリカの草の根運動の中で行われた。本当に自分はどうしたいのかということを、女性たちが自分の意識を掘り下げて。そうしたら納得いくものができるので。それを教えてもらって何回かやりましたね。
そうすると自分が揺るぎないまでは行かないけれども、ふらつきがなくなるんですね。混乱がなくなる。レズビアンとして生きていくということに不安がなくなるので、コンシャスネス・レイジングによって。自分はこれでこうやって、これが欲しくてこういう生き方をしたいんだということで、自分自身に納得して、自分のことを嫌いじゃなくなる。それで生きていける。そういう話し合いを何回かやって。それも役には立ったと思うんです。
ただ、自分たちが答えが出ちゃうとやめちゃう。もうこれ以上、人のためにずっとやりたくないなというのがあるんですよ。順を踏んでやってきて、これの先があるはずだと思うわけですね、私たちは。みんなで集まって、いろいろ場を共用するだけでは満足しないんです。その後、社会に出ていくときに生きられるようにということになるし、社会に出て、これだけ許せない社会だから、これに対してメッセージを送ったり、何か活動するためにどうするか、という段階。やっぱりいっぺんには全部できないので、そこまで力がないのでね。力を付けながら、勉強しながら、そういう形でやっていった。
杉浦:河野さんとはいつ、どういうタイミングで会ったんですか。
織田:河野さんはアメリカのボストンでずっとカウンセリングの勉強されていたんですよね。日本に帰ってきて3日目に会いました。
杉浦:1980年っていうふうに。最近『1980年、女たちは「自分」を語りはじめた』という本を読んだんです。ですので、帰ってきて、コンシャスネス・レイジングの手法を。
織田:アサーティブ・トレーニング。河野さんがまだカウンセリングルームをやる前。これからやるんだけど、練習だから無料で練習台にということで。しばらく日本を離れていたから。フェミニズムにもとづいたグループ・ディスカッションとか、アサーティブ・トレーニングとか、いろんなのをやっていくから。だからそれのテストみたいなのになってくれるんだったら無料でやる、というんで、全部無料でやってもらったんです。
それで、河野さんが交通整理をやってくれて、その交通整理を見て学んで、「ああいうふうに交通整理をする」と学んだ。それは救援センターのスタッフ養成トレーニングでやっています。自分の意識を掘り下げていって。被害者に対して批判的なものをもっている限りは相談員になれないんで、自分自身の本当のところを知らなきゃいけない。これは本当に役に立ちます。そういうことを教えてもらいました。
杉浦:けっこう長期にわたってやってたんですか。
織田:いや、そんなことない。長期にはやらないで、何回かやって。
杉浦:パートナーさんと一緒に?
織田:そうです。みんな。だからLFセンターのグループで。ジャムさんもいたかな。
杉浦:じゃあ、何人か。
織田:そうです、もちろん。
杉浦:何人ぐらいいたんですか。
織田:何人いたんだろう、1、2、3、6人ぐらい。
杉浦:じゃあ、「ダイク」とか「女のパーティ」とかで一緒に?
織田:そうです。マロはいたのかはわかんない。何人かとやっていました、コンシャスネス・レイジングを。何人か忘れちゃったけど。あのミニコミ(『C.R.ワークショップ』)があればね、誰が何を言っているかが全部わかるんです。そこには「世界を駆け抜けた女たち」というコーナーもあって、そこに駒尺さんとか、今までのレズビアンの先輩たちで、世の中に影響を与えた人たちを全部、生きている人にはインタビューして。そういうのもあるんです。それは、だから今までのもうちょっとワンランク、みんなに伝えるためのもの。
杉浦:じゃあ、LFセンターのミニコミというか、そういうメディアもあったんですね。
織田:あった。それがたぶん、いちばん充実していると思います。
杉浦:何号か出したんですか。
織田:いや、1個か2個じゃないかな。もうそれで良かったんです。
【女の展覧会】
織田:それでやっぱり表現をしようということになって。「女の展覧会」というのがあったんですね。駒尺さんとかも一緒になって、要するに女性差別を作品で伝えようという企画。今までミニコミとか読み物とかスピーチで伝えてきたけれども、目で見て形にしたもの。だから作品として出す。
例えばそこに出した人の中では、後でレズビアンになった人、トシコさんという人が宝塚の男役と女役の構造についてとりあげた。写真で宝塚の場面を出して。写真は宝塚のですけど注釈が違う。だから、それは私たちと同じやり方です。ポルノだけどもメッセージが違う。コマーシャルだけど、そこにあるメッセージが違う。そこにはポルノのどういうメッセージがあるのか。だから同じものでも使い方です。これがどんなものなのかという私たちの視点です。
一からつくるのは大変な人は、在るものに対して、自分のメッセージを付ける。どの写真を選ぶかということで。写真を使った人と、あと、作品みたいのをやったり。いろんな作品で、それが音楽であったり。私たちはスライドを出したんです。
杉浦:これ、このスライド(ポルノグラフィは女への暴力である)ですね、
織田:そう、うん。だから形で表現しよう。
杉浦:それに出すためにスライドをつくった。
織田:そうです。メンバーが撮影とか、写真の得意な者に協力してもらったり。それを何回かやりましたね。JORAでもやったと思うんですけど。JORAじゃなかったか、何回かやりました。
要するにわかりやすい。一目見てわかる。差別だったり、もやもやしていたものがすっきりこれだってわかるわけです。わかったけれども、もちろん問題解決じゃないんです。でも、ここのどこに自分が怒っていたり納得できないものがあったのかということ、そのメッセージがわかる。女性差別を視覚的なもの、いろんなもの、ちょっと楽しいものもので表現する。それが良かったんですね。「女の展覧会」って、ポルノみたいなのだと誤解して来た人もいましたけど、女性差別を作品で見せる。そんなの、今いっぱいやられてますけど、たぶん、日本で最初だと思います。
杉浦:じゃ、これ(女の展覧会)は駒尺さんと小西さんたちが。
織田:と一緒にやりました。
杉浦:その2人がリーダーシップをとったんですか。
織田:いや、そんなことないですね。みんな集まったんです、女の展覧会をやろうって、なんかできるよねって。理論的にずばずば言うんじゃなくて、自分は写真のほうが得意とか、いろんな人がいるじゃないですか。文化的な表現のほうが得意とか。どんな形でも表現していいんだよ、自分のしたい表現で、という形で。テーマは女性差別ですね。女性の現状。
何の気なしに見ているもの、あるいはきれいだなと思って見ているもの。そこにはこういう落とし穴があったり、こういうメッセージがあったり、ということで、見る人がそこから考える。自分だったらどう表現するかというディスカッションの場所もあるし。自分の感性を育てる場所。
だから、集まる場所を最初つくっていました。それから考える場所をつくった。感性を育てる場所、もっと自分自身の感性を育てる、その人一人一人の感性を育てる場所が必要だという段階になったわけです。
杉浦:この女の展覧会は、レズビアン中心だったんですか。それとも女の。
織田:いや、女性。
杉浦:リブの人たちが。
織田:うん、そうです。レズビアンは私たちだけだったかもしれない、最初は。その後、メンバーみんなレズビアンになりましたけど、最初は私たちだけだと思います。
杉浦:じゃあ、女性運動というか、70年代からのネットワークというか、つながりというか。仲間でやっていた。
織田:そうです。段階を踏んできた。表現する。多様な表現をして自分の感性を発掘するみたいな、そういう段階。私たちはその中で、ポルノに閉じ込められているレズビアンというところから出発して。ノーパン喫茶とか歌舞伎町オンパレード、それになかなか女性たちが反対できなかったんです。そういう現実があったので、これをこういう形だったら、それほど反発もない。あるものを使っているわけだから。メッセージだけ違うけど。
【スライドの反響】
広告も、広告会社から文句は付けられないわけです。「この人は、このポルノと似ているからこう思ったんだ」というだけだから。だからそういう形でやりました。それは「80年、女の集会」というところでやったんです。(女の)展覧会の頃かな。そうしたら、すごいウケました。実は主催団体には、あんまり受けなかったんです。「そんなものは時間短くしろ」とか散々怒られて。
だけれども、マスコミの人と女性の有識者の人、議員とか、もちろん河野さんたちもそうですけれども、文化人とかそういう人たちにめちゃくちゃウケました。すごい、素晴らしいとか言って。私たちはただやっただけなんですけど。コマーシャルとポルノの関係を言った人がいなかったので、日本にはね。
アメリカでは、「ちょっと影響してますよ」と言うけど、あんなにずばりはやってないんです。でも、日本は時代がそうだったから。本当に女性が強姦されて当たり前の日活のロマンポルノとか全盛のときだったんで。そのことに対してノーと言うときに、センスのいいノーというやり方をしたかった。ださいやり方は嫌だった。寸劇で「いや、許せない」というのはあるんですけど。それはそれで楽しいんですよ。だけど自分たちは、取り上げてもらえるようなもの、プロが見てある程度いいと思えるものをつくりたかった。
それには流行の先端の雑誌を使ったり、デパートのコマーシャルを使ったり、皆さんがいいねと思っているものの中に潜んでいるポルノのメッセージをのせる、ということをしたんです。ヒットしている漫画とか。そうするとマスメディアもすごく取り上げてくれて、レズビアニズムなのに違う人たちが反応した。
杉浦:じゃあ、やっぱり核にあるのはレズビアニズム。
織田:もちろんです。レズビアンがポルノに閉じ込められたのが許せないで、それを表現するためにつくったスライドです。
杉浦:でも、レズビアンだけじゃなくて、強姦とか妊婦とか、もっとコマーシャルとか漫画とか、日常にあるようなものを(入れた)。
織田:そうです。レズビアンの愛の形をポルノにしていたのが許せなかったんですけど、レズビアン一人一人では女性じゃないですか。レズビアン一人一人にかかってくる差別。レズビアンをポルノにして男性の楽しみにしている、というのが怒りの根源です。
ただし、それが他の人たちにとっても役に立って、有益なメッセージになる。だから「なんでこんなにレズビアンのところが多いんだ」とかみんなに言われたのは、それはそりゃそうです、自分はそれでやってんだから。だけど、私たちはレズビアンというのは女性が2人いることだと思っているので、矛盾はないんです。でも、「レズビアンとして」というのがイメージできない人の場合は「わからない」みたいなのがあるじゃないですか。私たちにはその方のイメージはわかるんですけどね。
だから、矛盾なく、レズビアニズムに対する否定とか支配に対して告発する。でも、それが結果的に女性差別とポルノ社会、性搾取している現状(に対する告発)にぴったりあった。それを狙ってやったんですけど、この世の中だからこれを出そうと。この世の中で、レズビアンがそういうふうに消費されているということが、自分たちの生き方と全く矛盾している。男性に向けてないエネルギーを全部吸い取られている。自分たちは、そういう感じで。だから、スライドは、レズビアン・フェミニストセンターの名義になっているはずです。フェミニズム、レズビアン・フェミニストだから、このスライドができる。
杉浦:そうですね。それでそのスライドが話題にもなりましたし。
織田:なりました。PTAとか母親大会とか。PTAのお姉さま、おばさま方が、こんなに借りてくれるなんて、信じられないって感じでした。「この人たちがこれ借りてくれるの? 大丈夫なの?」と思ったんです、こんな過激なメッセージを。いろんな条件を付けて、男性が入る場合は女性の数のほうが多いこととか、費用は上にのせるとか、男性が入る分だけ。賃金が2倍なんだから男性は高くしろとか、いろんな条件を付けて。それでもみんなやってくれたんです、PTAのおばさまたちが。学校の先生とか、母親大会とか、そういう活動家じゃない人たちにウケたのが、自分たちのイメージしてなかったこと。
その結果、ものすごい、何万人の人が見たかわかんないぐらいになった。それがいろんなところに種をまけることになったので。私たちが行って話さなくても、発言しなくても、貸し出せばそれが行ってやってくれるわけじゃないですか。だから、そういう方法じゃないと、1人のエネルギーで社会に影響を与えるということはできないので、今みたいにSNSがないから、だからそういうやり方を考えました。
杉浦:スライドを。貸し出す、お金を取る。スライドに付いている解説も貸し出して、ということですね。
織田:そう。それを読んでもらうことによって。それを読むと意味がある程度はわかる。一応、あれクイズもいくつか付けていたんですよ、「この画面を見てやってみましょう」みたいなね。
私たちが呼ばれたときは、もちろん自分たちで解説しますけれども、自分たちでもできるように。私たちがやらなくても、中身は一緒ですから。それはその場の人たちが、自分たちの感想も載せて、使ってもらえればいいことで、ものは変わらない。そのスライドが仕事をしてくれるので、このやり方は良かったなと思います。
杉浦:なかなか画期的だと。何て言ったらいいかわからないけれども、よくある手法だったんですか。それとも。
織田:ないない、初めて。だからマスコミの人がいいねって言ってくれた。
杉浦:しかも貸し出して全国を回り、そこでお金を取り。
織田:本当にPTAの頭の固いおじちゃん、おばちゃんがやってくれたんです。「悪書追放」だと一部の人だけど、これだったら万民に影響するということで。子どもの被害も入ってましたから。あと障害者の被害も、全ての差別を。女性がその下にいるので、全部入れた。そういうものなので、差別のオンパレードという形で。身近な生活の中でそれがどのように悪用されているか、それが大事なんですよね。だまされるから、私たち。おおもとがわからないから。
男の子の中でも、ポルノを見たことのない子が吐いたりしてました。大学1年ぐらいの東大の、勉強しかしてこなかった男の子が吐いてた。宮子あずささんに呼ばれて。吉武(輝子)さんが強姦救援センターのアドバイザーだったんで、まだご健在の頃。あの家でスライドをやって、学生とか来てやったときに、具合悪くなったんです、男の子が。初めて見て「こんな気持ち悪いもの、どうしてみんな楽しいのかわからない」って言って。だから、まだ可能性はあるなと思った。こういう真っすぐな男の子もまだ残っているんだから、早くちゃんと教育すれば、まだ何とかなるかなって、その時はちょっと希望をもった。でも、すぐ染まっちゃうけどね。
杉浦:70年代から80年代の前半ぐらいまで来ていますけど、今日、全部(インタビューをするのは)無理かもしれないなと。
織田:どうだろ、急いでやろう。
杉浦:はい。時代の雰囲気も変わってきているとは思うんですが。80年代というとわれわれからしたら、大衆消費社会になって豊かになって、女性の権利も少しずつ認められて。
織田:それは頑張ったからです、先輩が。私も一緒にやってきました。頑張りました。
杉浦:70年代の初め頃の「ぐるーぷ闘うおんな」の頃と、このレズビアン・フェミニストセンターをやる頃ですよね。時代の雰囲気とかだいぶ変わりましたか。
織田:変わりました。やっぱりやり方が大事だと思った。人への伝え方。正しいから伝わるもんじゃないし、役に立つから伝わるもんじゃない。その人その人の感性に働きかける。だから、その人自身も自分のとりたいようにとって、それに対して何か感想をのせたりとか。
これは自分たちでも頭が痛くなるほど考えたんです。ディスカッションをものすごくやるから、いつも頭が痛くなっちゃうんです、私、頭の回転があんまり良くないから。パートナーは頭の回転がいい、かみそりのように切れる人なんです。ずばっと何でもやれて。私はそこまで行かないんですけど、ただ、いろんなものを知っているから、日本の。彼女はお金持ちの家庭で育った、フェミニストじゃないレズビアンだったから。そこらへんで合体すると、けっこう広くなったみたいな。
杉浦:それで、じゃあ、そのつながりで『声なき叫び』の上映グループとかですよね。だから、このへんは性暴力の問題にかなり特化し始めて。
織田:そうです。それはなぜかというと、スライドがポルノだったから。そこに強姦の問題も入ってきた。ポルノ女優さんなんかが、頑張って風俗ライターになって。スライドで自分がAVから抜け出して。その人たちがどんなに大変かということまで表現したいって、だからスライドを借りたいと。ポルノの当事者だった人たちも借りてくれたんです。だから、すごいいろんな人が借りてくれたんです。いろんな人といろんな話ができて、いろんな現実を知ることかできたんですね。面談したりとかするので。
なので、性被害当事者の人と会いました。それ(スライド)をつくったときは会わなかったけど、つくり終わってから、元ポルノ女優の方とか、そういう方と接して、現実の声を聞いた。それで「ここは失敗したな」というところはなかった。それが良かった。「自分たちのやり方、間違ってなかったんだな」と思えたので。
抜け出すことの大変さ、それから自分自身が消費されていくときの、立ち直れない現実みたいなのも、生の声でなかなか聞けないじゃないですか。それを対等に話をして。そういう経験がすごく助かったというか、ありがたかったですね。これをやることによって、私たちは大したことをしてないのに、思い付いたことをやったんですけれども、それに対する反応が、とっても実りの多いものだったんです、私たちにとっては。スライドから返ってくるものが。
【『声なき叫び』上映グループに参加】
そういう活動をしているときに、「女たちの映画祭」が。岩波ホールの高野悦子さんがカンヌ映画祭で見た映画『声なき叫び』に感動して、「これを岩波ホールでやりたいけれども、今の日本の現状ではとてもできない、過激過ぎて」って。それで、「女性だけでやっている映画祭に、この強姦というテーマでできないか」と。「女性監督を使っているから、女性の目で見ている。自分が岩波ホールの女性支配人として、その見方、この映画は絶対日本の女性に見せたいんだ」「どうしてもやりたい。でも、自分はできない」ということで。すごく協力してくれて。
「女たちの映画祭」はやりたいけれども、理解できない。この性暴力というものを。自分たちはやったことがない。字幕を付けて、それをチェックする側じゃないですか。でも、わからない。周りを見渡したら、やっているのはうちだけだった。女性問題と性暴力、フェミニズム、そういうものを結び付けてやっているのは。探したんですって。
映画祭があるのは知っていました。見たりもしていたけど。「やってくれないか」って言われたんです。中身のチェック、字幕、日本語に換える。パートナーはそれができるので、パートナーが翻訳して。戸田奈津子さんって、今でも日本の字幕の第一人者、あの人が協力してくれたんです。高野さんが「この人たちに全部やってもらうから、先生、教えてあげてください」って。字幕の練習したんです、何文字以内でやるって。
本当に素晴らしい、協力してくれる女性たちが、無償で全部教えてくれて、私たちも一から習って。字幕のおじさんに、こういうふうに打ち込んでって。その頃は打ち込んでいたんです、フィルムに。それを全部やってもらって、教えてもらった。何文字以内でやるとか、これだったら何文字に入らないから駄目とか。
訳すのも自分たち。訳してから、字幕のアイデアをだして、それを在日の被害者に確認してもらった。アムネスティの中で被害者の人がいらっしゃるんです、女性の。その人が泣きながらずっと協力してくれました。つらくて泣いちゃうんです。かなりひどい被害に遭われていて、その人が泣きながら「この内容はもうちょっとこういうふうにしたほうがいい」とか、訳したものを。これは絶対日本でやったほうがいいって言って。その人はすごくありがたかったです、アムネスティが連れてきた被害者。ちゃんとしていられない、具合悪くなっちゃう、それでもやってくれたんです。
杉浦:じゃあ、レズビアン・フェミニストセンターにそういう依頼が来た。
織田:来た、そうです。性暴力のでやってくれと。
杉浦:翻訳、字幕までやって、この(『声なき叫び』の)パンフレットもつくったという。
織田:そうです。あと、しゃべるのに慣れていたので、試写会の切り盛りというか当日のこと。マスコミにまず試写を見せるので。最初は女性記者だけとか、そういう形にしました。最初に女性記者に見せて、女性記者の印象で男性記者にどのぐらい見てもらうかという形で、順を踏んでやりました。女性記者の人に活躍してもらいたかったから。その頃は男の下でろくな仕事させてもらえなかったから、女性記者だけには特別に前もって見せた。散々「なんだおまえら、生意気だ」って言われましたけど、関係ないから。
高野さんは無料で試写室を全部貸してくれた。岩波ホールが全部、本当だったらものすごいお金かかるところをやってくれた。監督も日本に呼んでくれた。私たち一銭も出してない。そういうような他の人たちと協力できるものをやると、私たちだけの感性で足りないところで、女性たちの総意のものができるんだなということを、また勉強したんです。
でも、字幕なんか日本語に直せばいいのに、やっぱり難しかった、性暴力は。誰も「もう無理」って感じだったから。パートナーと2人じゃ駄目だから。やっぱり被害者の視点で、しかも女性の。
ただ、失敗したんです、1カ所。これはレズビアンと関係ないんだけど「近親相姦」という言葉があったんです、その頃。日本で、うちの団体以外で性暴力というか、性の問題に取り組んでいるのはキリスト教矯風会。戦前からあった日本の歴史の中で長い活動をしている女性団体です。もちろん宗教をバックにしています。従軍慰安婦のスライドをつくったりしていて、それでスライドのおさめ方(編集)もアドバイスをもらったんです。
そのときの縁で映画も見てもらったんですけれども、映画はもうできちゃった、字幕を打ち込んじゃってから「これは近親姦に変えなさい」って。「相姦なわけがない」って。被害者が対等じゃないんだから。それは本当にもっと早く高橋喜久江さんに見てもらいたかったと思った。だから宗教、関係ないんです。クリスチャンの文化長官が差別発言をしたときに、向こう(矯風会)はクリスチャンの面汚し、私たちは女性差別だというところで、一緒にその後やることになるんですね。高橋喜久江さんに性暴力の視点。子どもの問題もやってらしたんで。それだけが1つ失敗です。私たちの力が至らなかった点。子どもの被害についてそれほど見識がなかった。それは反省。DVDになったりなんかしているのは、(字幕が)変わっていると思います。だから、日本の性暴力の先頭を切っている人と、民間の文化人の心ある女性、識者の人の協力があって、この『声なき叫び』ができた。
でも、私たちがレズビアンだったことが、どのぐらい影響しているかというと、たぶんレズビアンじゃなかったら、性暴力には取り組まなかったです。これだけ怒りをもって。自分たちのプラス面、レズビアンというのはプラスなんですよ、すごくエネルギッシュで自立している、というのが蔑まされて、性の対象の奴隷のような扱いをするという両極端なものに対して怒りをもった。「レズビアンは自分たちと違う」みたいに思われるシス女性の方もいらっしゃるので。だから、やっぱりこれは私たちの仕事で、ポルノの中にレズビアンが押し込められていたということで、やりました。
【東京・強姦救援センター】
その中で、たくさんの被害者の方に会ったんです。私、試写会の司会をしていたので。そうすると、目に見える人のところに来るじゃないですか、「相談するところがない」って、すがりつくように。帰れなくなっちゃうんです。たくさんの被害者に言われて。マスコミの中の方も、表に出ないけどはっきり言ってセクハラだらけ。女が男並みに活躍しようなんてすると、いろんな目に遭うわけじゃないですか。だから、共感してもらったりして、みんな自分の問題になっちゃって、帰れなくなっちゃうんです。
とくに被害者は、ここしか話す場所がないという感じなので、「これは場所がないんだな」というのがわかったんですね。でも、自分たちのやることじゃないと思ったんです。自分たちはレズビアンとして、レズビアン・フェミニストの活動をもうちょっとやっていきたい、という気持ちがあったんですけれども、ここまで来られたら。他の人はたぶん、できないんです。それだけたくさんの被害者に会ってないから、そこまでの感覚がまだ。私たちのほうがたくさん勉強しているので。情報も入るし。
「やっぱりなんかやったほうがいいんじゃないか」って言ったら、みんな大反対。「そんなものはやりたくない」「映画だけやりたいんだ」とか、いろいろ。まあそうでしょう、映画をやっているところだから。だけど、その中に何人かが(やろうと)。自分は、この映画をやりましょうっていうことで、みんなを集めたんです。「やっぱり必要だ」「これだけ必要とされているのにないのがおかしい」「一緒にやろう」という人が出てきた。
杉浦:それは、(東京・強姦救援)センターですよね。
織田:そうです。真っ二つに割れちゃったんです。「映画祭も上映したい」「別にどんどんいろんな映画を上映していけばいいじゃないか」というのと、「私たちはいろんな映画を上映するのが目的じゃないから」(というのと)。レズビアンの性暴力からここに来て、でも、そこにはレズビアンの被害というのがあんまり出てなかった。だから私たちとしては十分満足できるものじゃなかった。
だけどたぶん、その当時はできる人がいなかった。だから必要に迫られて、被害者があまりにも大変な現実を見てしまって、他にないならもうやるしかないのかねという感じで。パートナーがそういう活動をアメリカで見ていますので、それでどうしようかねって言って、それならやりたいという人が出てきて、その中にもちろんレズビアンがいました。レズビアンが出てくるんですよね、先鋭的なものに対しては。
なので、レズビアンがものすごい働いてくれて。法律にも詳しい人で。それで(東京・強姦救援)センター(ができた)。そこの中でレズビアンとしての視点が、私は絶対あると思うんです。その創設メンバーの中の半分がレズビアンだから。
杉浦:強姦センター。
織田:6人で始めたうちの3人がレズビアンです。あとが被害者です。レズビアンが女性に優しいから。優しいって当たり前なんですけど。「女性同士だと女性に冷たい」なんていう、変な人がいたりするんですけれども。「女性に厳しい」って。厳しくないんです、自分には厳しいかもしれないけど。自分は厳しく生きないと生き残れないからね。でも、女の人がこれだけ大変な時代なんだから、女性の大変さはわかるから。自分も大変なんだから。だから大変な女性に対して攻撃しないんですよ、レズビアンは、絶対に。だから優しいじゃないですか。だからできた。その人がレズビアンだったから、被害者を責めないと思っています、私は。
女性に対しても、本当に連帯したいとか、本当に一緒にやりたいとか。自分は厳しいんです。自分は厳しい現実でも、他の人、大変な人に対しては、やっぱり手を貸そうという、それがレズビアンなんです。だから、私とパートナー以外の3人目のレズビアンが、強姦救援センター設立メンバーの募集に来た。彼女もフェミニズムの中では全然あわなかったんですけれども、レズビアンとしての生き方をしてきた人が、そういう態度ができるんです。被害者には厳しくないんです。他の団体の女性はほんと厳しいんです。「なんでこんな被害を受けている人に言うの?」と思うんですけど。だけど彼女が全然そういうところがなくて。だから半分被害者で、半分レズビアン。半数近くがレズビアンというのは公にしてないんですけれども。ほぼレズビアンと被害者で強姦救援センターをつくりました。
杉浦:じゃ、その段階でレズビアン・フェミニストセンターはなくなって。
織田:なくなりました。強姦救援センターになりました。
杉浦:LFセンターのうちの一部の人が強姦救援センターに入ったっていうような。
織田:はい、そうです、そのとおりです。
杉浦:おおもとはLFセンターですよね。
織田:うん。ネタバレしちゃうんですけども、強姦救援センターは、レズビアンの視点がものすごい入っています。だから、トランスジェンダーの方のご相談が何十年も前にあったけども大丈夫なんです。
杉浦:この後はもうこのセンター、今もやってますけれども、もう40年?
織田:そうです、40年なりました。
杉浦:ずっと続けてらして。
織田:いや、私個人は途中に宝塚で遊んだりしました。ばかにしていた宝塚の中でも性被害があって、本当にものすごい事件があるんです。宝塚のジャニー北川みたいな人がいて、タカラジェンヌに加害を。その人はカリスマ的な作曲家みたいな人で、一度事件が雑誌なんかに出たりしたんです。被害に遭って辞めて、告発した人もいました。今は労働問題で告発されていますけれども、今回は(劇団員が)亡くなったじゃないですか。亡くならないで辞めたんです、みんな性被害に遭って。後で死んじゃってるかもしれないけれども。
その宝塚で楽しく遊んで。疲れるんです、やっぱり、相談を聞いていると。ものすごく大変な相談で、ものすごい壮絶、地をはうような、血の涙を流しているようなご相談が、最初は多いんです。家に帰れなかった、徹夜したこともいっぱいあって、電話を切れないで。
女性記者の人が取材に来るときも、女性記者がなぜか言うんですよ、「自分は男にこんなひどい目に遭ってる」って。「仕事の中で、こんなセクハラを受けてる」とか「パワハラを受けてる」とか。スライドのときも聞いていたので、だから取材は女性記者だけ。女性記者が社会面に全然登場しない時代。1人か2人ぐらいなんです、それも朝日(新聞)のね。そういう時代だったんです。女性は家庭欄の記事しか(任せてもらえない)。これだけキャリアを積んで、男性以上に力がありそうな女性記者でも、女だっていうだけで家庭欄しか任せてくれないというのを記者の方からも聞いていたし、知っていたので。それで、じゃあ、私たちにできることを考えた。取材をしてもらわないと知ってもらえないから、それだったら女性記者がいない場合は取材は受けないことにした。強姦救援センターなんて面白いじゃないですか、当時の日本では。
杉浦:初めての?
織田:そうです。それで珍しかったし、性に関するものってやっぱりキャッチーなんですよね、いい意味でも悪い意味でも。だからマスコミはそこら中から取材が来るんです。テレビ局も、みんなやりたい、新しいもので。ジャニーズでもすごいじゃないですか。あんなもんじゃないと思います、最初の頃は。
だから、そういう話が来たときに「じゃあ、ちょっと決めようね」って。私たちが何かこれで誰かに応援できることはないか。それは女性記者を家庭面から社会面に、力があるんだからランクアップしてもらうためのフォローをしようと。それには女性記者がいない取材は受けませんと。みんな家庭面の記者をよこすんですよ。その人は頑張るじゃないですか。ここでやっとチャンスが巡ってきた。記者となったら社会面を書きたい。だけど、女だっていうだけで書かせてもらえない人たちは、頑張るわけです。自分もひどい目に遭ってきたから、その恨みもあって、熱心にいい記事を書くんですよ。
男の人だけの取材じゃなきゃ駄目だっていう、その当時の『朝日ジャーナル』、今の『AERA』、それだけ断りました。そうしたら、ものすごい怒った、「自分はそんなふうに限定されたくない」って。でも、選ぶのはこっちですから。「女性記者来ないんだったら、どこであろうがお断りします」って。そこだけは怒り狂ってたけど、受けませんでした。あとはテレビ局でも何でも女性。だから性暴力のところは女性記者が担当するっていう習慣付けを。その人もやっぱり自分のセクハラの経験でちょっと力を入れて、そういう突破口をどうしても開きたいって。それは今でもあんまり変えてない。だから伊藤詩織さんとも取材で会ったんです。
杉浦:レズビアン・フェミニストセンターまでの活動から、支援という方向に会の性質変わっていますけど。大変っていうか。これまでやってなかった支援っていう仕事が入ってくると。
織田:そうですね。それは河野さんにカウンセラーの女性に対するものとか、ものの聞き方とか接し方を勉強しました。それから女性の相談を聞いているキリスト教矯風会の大先輩。宗教がバックにありますけれども、すごく寛容じゃないですか。それと、宝塚でも勉強しました。男役は理想の、世の中に一人もいないような素晴らしい男性なんです。地位もお金も教養も全てもっていて、それでどんなひどい女でも、人を裏切ったりするような犯罪者みたいな女性に対して、白馬の王子様が「今のままのあなたで僕とお付き合いしていただけますか」って。そんな話あるわけないじゃないですか。そんな犯罪者の女にね。でも、それが宝塚なんです。「なんでそんな話を書けるの」って思って、いや、それはちょっと違う話、すいません。その作家が障がい者で、その手伝いもしたときがありました。
杉浦:いえ。質問の意図は、支援っていうふうになるとすごく忙しくなりますし。
織田:ものすごい忙しいです。命の危険もありました。
杉浦:実際に支援って中途半端にできないから。
織田:できないですね、うん。
杉浦:本当に24時間。
織田:いい加減にしたら被害者、今まで映画のときに協力していただいた被害者の方とか、たくさん協力してくれた人に申し訳ない。見てるわけです。「この人たちがやるんだったら応援しよう」という人がいっぱいいるんですね。田辺聖子さんもそうです、文化人の。あと『武蔵野婦人』とか書いた人、『野火』とか。オオエじゃない。大岡昇平さんなんかものすごいお金くれたんですよ。
あの人は対談で「女性のことをあんたはばかにしてる」って誰かに散々言われたんです。自分は女性が主役の(作品を)書くくせに、そこの女性って、武蔵野婦人なんて、とんでもないひどい目に遭うんです。それで、そういうところができたというのを聞いたんでしょう。ニュースにいっぱい出たから。そしたら何十万もお金くれたんです。死ぬまで会員になっていた。もう死んだからしょうがないんですけど「そんな人いたのか」って、そんな人がいることさえ知らないぐらい忙しかった。でも、いっぱいいました、そういう文化人。詩人の人、作家の人、皆さん、たくさんお金をくれました。
杉浦:じゃあ、そういう支援者とか会員からの寄付とかで運営をして。
織田:支援の方法は「いのちの電話」で教えてもらいました。電話の取り方。それから人との接し方は河野さんとか、矯風会の高橋さんに学んだり、そういう経験が全部合わさって。それとやっぱり基本は女性に優しい。女性に厳しくない。これじゃないとできないと思う。レズビアニズムがやっぱり根底にあって、女性を助ける、女性に対して役に立つ、女性を支える、女性を守るという根底にある思想と、皆さんから勉強したテクニックが合わさって。救援センターの相談のやり方、独特だと思います。
一切その人のプライバシーが聞かなくてもいい、話した中でやっていくというんだから、ものすごく大変だと思います。マニュアルはありますよ。トレーニングは厳し過ぎて、スタッフが来ない。脱落しますね。「今、ワンストップに入っている(相談員の)みんな、恨みをもってんじゃないかな、私に」とか思っちゃう。みんな落ちたりなんかしてるから。
杉浦:すいません、今、何時ぐらいですか。
呉:16時53分。
織田:じゃ、もう終わりですね。
杉浦:すいません。じゃ、呉さんから。呉さんのほうでいっぱい聞きたいことをためていると思うので、ちょっと呉さんから質問。
織田:53分だったら出なきゃいけないので、外でいいですか。
呉:たぶん、2つぐらい。
織田:2つぐらい。じゃ、歩きながら。
呉:じゃ、録音はどうしようか。
杉浦:録音、じゃ、はい、今、いいですか、片付けながら。
呉:はい。1つ目の質問は、強姦救援センターが最初の頃からレズビアン視点が入っていることがあるんですけど。
織田:もちろんです。
呉:でも、さっき話している中では、公にしていない部分もあって。
織田:いないです。
呉:それはどういう理由ですか。レズビアンに対する差別とかがあるんですか。
織田:そうです、もちろん差別が。私「(公に)できたらいいかな」みたいには思ったんですけど、より相談しやすいように、色が付かないというか、被害者の人が誰でも相談できるようにと思って。まだまだ同性愛というものに対する差別とか、そういうのがありますので、そういうところがネックになって、被害相談がしにくいということを避けました。
呉:わかりました。スライド放映会の時はPTAとか、すごく私のイメージの中で保守的な団体からの。
織田:そうです、保守的な団体がいっぱい。
呉:連絡が来て、でも、その当時はレズビアン・フェミニストセンターという名前を付けている。
織田:付けていました。でも「LFセンター」って書いてあるから(レズビアンの団体だとわかりにくかった)。ただ、それを越してでも、ポルノグラフィに対してまずいと思っているということです。相手がレズビアンであろうが何だろうが、やっぱり使いたいという。そこが良かったと思います。そのときは隠してないから、わかっても借りていました。いちいち言わないけど、書いてあるから言う必要がない。
呉:この状況は現在になったら、ちょっと改善されているんですか。それともやはり公に。
織田:現在になったらもっとできない。今のこのLGBTの、これだけの嵐の中で、ちょっと私、今の活動の状態は議論もできない状態になっているので、無理だと思います。もうちょっと前だったらできたかもしれない。
(会議室 片付け中)
呉:最後の質問は、強姦救援センターは、長年、40年ぐらい続けているんですね。長く続く理由というか、いろんな資源とかをもらったりしているから続いている?
織田:公共の寄付はもらってないです。会員からの会費。会員が多い人は10万(円)ぐらい。あと裁判をやって勝った人が100万(円)ぐらい、そのままくれたり。ただし、交通費も全部自前だから。自分たちには一切使っていない。全部活動に使っています。いつつぶれるかなと思った、危機的な状況は何回かあったんですけども、そのたびに女性の劇団で劇をやったり、1,000円ぐらいのせてカンパをしてもらったり。「お金がなくなりました」と言ったら、集まるんです。やめられない。相談電話がない日はないんです。どうしてと思っちゃいます。
呉:スタッフさんたちはどういうような方ですか。組織を運営する中では、そういうスタッフさんたちは、どういうようなところから。
(会議室 支払い中)
呉:新しい方たちは、どういうようなルートで来たんですか。
織田:「スタッフになる人をトレーニングしますので」って募集をかけるんですよ。そうすると、なりたいという人が。今は少ないですけど。性暴力の最初の相談所なので、興味をもっている人が20~30年前はたくさん集まって、スタッフになりたいという人がいっぱい来るんです。
ただ、残る人がほとんどいない、厳し過ぎて。300人ぐらい応募してきて、残るのは3人とかね。だから評判が悪いんですよ。嫌われてるの、残らないから。ものすごい厳しいんです。だって無理じゃない、レズビアンの視点を持とうなんて。残るわけない。でも、なかなかの人もいるんです。議員とかね。信念を持っている人も中にいるんですけど。
でも、もうそろそろワンストップができて、そこだとちゃんとお給料も出るし、うちは交通費も出ないんですよ。どんなに遠くから来ても一円も出さないし。一切そういうのがなくて、頂いたものは全部、活動と被害者に返すという形なので、今時そんなものという感じになって。最初はそれでもいっぱいやりたい人が来た。だけど、トレーニングが厳しくて、「なんだ、なんでそんな厳しいんだ」って言いながら。どんなにやりたくても入れなかったんです。だって絶対できないから。何が大事かって被害者が大事なので、評判がたぶん、悪いと思います。そういう意味では「変わった人たち」(と見られている)。
【活動と仕事の両立】
杉浦:たぶん、これで活動がすごく忙しくなったと思うんですけど。
織田:ものすごい忙しい。
杉浦:お仕事との両立とかはどうなさってたんですか。
織田:それは、仕事先は首になりそうに。専門学校にいたんです。美容学校。今、教員になる資格みたいのがあるんです。いくつか学科の資格とか取るんですけど、それで教員で。
杉浦:もう当時からですか。
織田:そうです。美容の仕事をしていたら。美容の仕事って、自分で行くというよりは勧誘で来るんです、「来てね」って。それである日「来てください」と言われて、「どうしようかな」と言ったら、「給料これだけ出します」というんで、行ったんです。
活動するには学校のほうが楽だなと。週に2日間休みだったんです、その学校。その当時、そういう(週休2日の)学校がないので、これで活動ができると思って、それで学校に変わって、けっこうできるようになりました。学校に変わらなかったらできなかったかな、やっぱり。夏休みも。1年のうちの3分の1が休みの学校だったんです。給料が良かったので、保障もけっこうあった。あったけど、でも、救援センターをやると言ったら、辞めてくれと言われた。
「来てくれ」と言ったその校長が。「強姦なんていう世間体の悪い」「人が聞いたらびっくりするようなことを、うちの職員、先生がそういうことをやられると、学校の評判が悪くなるから、辞めてくれ」って言われたんです。そのとき、どうするかということを考えるじゃないですか。辞めてもよかったんですよ。他で働いてもよかったんですけど、ちょっときつくて、そのときに河野さんに相談に行った。だって「来てください」って言うから行ったのに、その他の理由で辞めろっていうならいいけど、センターを始めたからって。別に会社休んでるわけじゃないしね。
映画祭をやったときは首にならなかったんです。学校を休んでないし。センターやったときだけそういうふうに言われて。他にも学校を縮小するんで人を辞めさせたいという中のリストに載ったんです。テレビに出たとかって。テレビに出てたんですよ、何回か。レズビアンでも出たことあるんです、私、夜の番組で。
杉浦:当時ですか。
織田:そうですね。レズビアン・フェミニストセンターの頃ですかね。呼ばれて。じいさんでよくニュースの番組やっている人、今でもやっている人。
杉浦:田原総一朗?
織田:そうそう。あの人が夜中の番組をやっていて、それに呼ばれて。その番組のテレビ朝日の人が「おすぎとピーコで番組をやりたいから、『レズは知的でホモは下等よ』っていう番組をやりたいから、レギュラーでどうですか」って言ってきた。そのときはたぶん、もっとしゃべりが面白かったんだと思う、今みたいに年寄りじゃないから。パートナーはものすごいずばずば言うから、面白かったんです。だけど、「ホモは下等」というのは、私は違うと思ったんです。そういうふうに人のことを下に見るような、そういう趣旨のところはできないと言って、断ったんです。
私たちのやりたいことは、目立って世間に出ることではなくて、レズビアンとして元気に、将来ちゃんと生きていけることが大事であって。自分は生活者。だから仕事もちゃんと持っている。仕事もちゃんとやる。ずっとそれで仕事をやってきました。だからすごい大変だった。
杉浦:じゃ、センターで首にはならずに続けて。
織田:だから組合つくった。そこ、労働組合がなかったので。大体こんなことで首にするような会社は。役所に相談に行ったんです、ちゃんとしたルートを踏もうと。関連のアメリカの化粧品メーカーに連絡すれば、そこから待ったがかかるようなこともあったんですよ。アメリカではそういうことが通るので。だけど、その方法はやめよう、ピンチをチャンスに変えるには正攻法で行こうということで。自分にこんなことが起こるというのは、他の人にも起こるわけじゃないですか。じゃあ、ここで学校の中を改善しようということで、組合をつくったんです。
他にも辞めたらって言われた人がいて、私、何でも屋みたいな感じだったから、何でも相談員みたいな感じで、皆さんのいろんな相談を受けていて。その人が相談してきたときに、「じゃあ、一緒に行こう」ということで役所に行って。役所から「こういう組合があるよ」というのを紹介されて、組合を設立して、職場の中の改善をしました。お茶くみもなくして、出産、結婚で辞めるという職場で、それを全部なくして、就労規則をつくって。だから組合の委員長やりました、30年近く。
センターやったためにそういう目に遭って。それで活動できなくなるじゃないですか。だからちょっと大変。できなかったんですよ。そういう時期もあったんです。それと狙われた。なんか尾行みたいにしてくるんです、男が。それは命の危険ね。「爆弾仕掛けたぞ」は日常茶飯事。
杉浦:センターにですか。
織田:もちろんです。命の危険。つけてくるんです、怖いです。真っすぐうちに帰れない。うちなんかばれたら大変だから。
その校長も、「あんたのことだけだったら」「(あなたの)性格は知ってるから大丈夫」みたいな感じだったけど。「あなたの一緒にやってる人たちの住所も職場も全部調べてあります」といって、持ってた、そのリスト。それで脅したの、私を。
杉浦:ストーカーみたいな人がですか。
織田:違う。校長が。校長が「あんたたちの救援センターのメンバー、全部」って。興信所、探偵を使って。身上調査に探偵を使ってるんです。それで全部調べてリストを持ってるんです。それで「この人たちの職場に言う」っていうの。本人じゃなくて。「これはちょっと辞めざるを得ないかな」と思った。
だけど、黙っていて、辞めるっていうポーズにして。「じゃあ、辞めようかな、3月いっぱいで、年度末で」「子どもたちにも突然辞めたら悪いし」というふうにしておいて、それで突然「組合結成しました」って言って。上部団体のある組合で、それで行って、学校がびっくりしちゃって「いやいやいや」という感じになって。それで驚いちゃったから、反対の仕方が分からなかったらしくて。つぶし方が。
社員会とかつくってつぶしたり、私の技能テストをして(つぶそうとしたり)。(技能テストは)みんなも一緒にする、1人だけするとまずいから。「こいつは下手だから辞めさせよう」とか言っても、それもできないんですよ。そういうことを散々、嫌がらせをしたけど、やっている人たちが嫌がってきた。だって悪いことはやってないし、いつも親切だし、悩み相談をいくらでもしてきたし、やっていることは職場のためになること。自分たちの給料を上げてくれんのにね。というふうにみんなが考えだして、味方ができたんです。
だから、人の役にも立つ方法はないかなと思って探して、組合という形をつくって、職場の悪い雰囲気を変えて。女性が早く退職しなくちゃいけないという不文律をなくして、就業規則がなかったから、それもつくらせて。後の人たちが困らないように。出産したら辞める、結婚したら辞めるという風潮があったから。女性の職場。女の人が活躍するわけじゃないですか。それができなくなるような、そういう空間でなくしたいと。全部変えたんです。
だけど、味方をすると出世(できない)、出世って大したことじゃないけど、できないと言って。協力はするんです。裏で「僕の給料明細これだから、参考にして」とか、みんなは協力するけど、表立ってはしない。仲良くはしますよ。だから組合やって、逆にみんながとっても親切になった。「こんなのがないから困ってるんだけど、何とかできるかな」とかって。「分かった。じゃ、これはできないけど、これはできる」とか「他にはないの?」って。みんなの困りごとを交渉するのを全部やった。だいぶ変わったと思います。
ここまでやるから、面倒くさくなるんです。でも、レズビアンだったらやらざるを得ない。他の女の人たちがひどい目に遭うわけじゃないですか。自分はピンチをチャンスに変えて、他の女の人たちの役に立つ。自分にとってもいいし、他の人たちにとってもいい。だけど(救援)センターの活動がそれで制限されるんです。でもやらざるを得ない。他の女性をフォローするために。だからやりました。
たぶん、あの学校でいちばん長くいた職員です。色彩がある程度できたので、他の資格を取って。色彩のブームになって、パーソナルカラーとか。これで講師会の支部長になって、講師をまとめてということをやったりして、そこでどんどん、そこの協会では上に行くじゃないですか。大したことはやらない、誰もいないからそうなるだけなんだけど、言い出しっぺで。そしたらやっぱり態度も変わるわけですよね。
うちの学校の合格率は「じゃあ、上げましょうか」って。「上げるには検定変えましょう」「この検定にしたら合格率が上がって、学校の評判も良くなって、新しいことやってるって注目になるからどう?」って。だいたい闇で取引するんですよ、副校長とか校長にね。若い子が好きそうな検定を入れて、私はその講師になって、その講師会でもある程度優遇される、支部長になると。それをメインではやらないです、私は(救援)センターでやるべきものがあるから。だから出世はできません。だけど給料は上がりました。
それで、みんな仲良くなって、職場を変えることができた。それから、生徒たちには、美容だってばかにされないように、他の資格も取って、他の学校ではやってない資格を取って、合格率も日本一にして、みんなが楽しく勉強できるようにカリキュラムを考えて、それで合格率も良くなって、表彰されて。そしたら校長はあんまり言わなくなった。で、長くいて、定年までいて、辞めました。
「レズビアンだったらやらなきゃね」と私は思ってるんです。やっぱりレズビアンはそこで引っ込んではいられないです。でも、大したことやってないですよ。ただ、何かあったときに受けて立つ。それで絶対勝つ。
杉浦:じゃ、センターを始めてから、例えば「れ組スタジオ」ができましたけど、そっちとの関わりはもう。
織田:若林が知り合いっていうだけ。
杉浦:じゃあ、その後はセンターとお仕事と組合と。
織田:そうです。ただ沢部に会ったりとか、いろんなとこで会うじゃないですか。だから昔のお友達とはちょっと話したりはしますけれども。それで最近ですね、また話すきっかけになったのは、このLGBTの問題がここまでになって。
杉浦:じゃ、本当に最近なんですね。
織田:そうです。トランスジェンダーの方が相談されてきたり。LGBTの方の相談も、他で駄目でもうちなら、どこで聞いたのかわからないけどOKじゃないですか。(レズビアンが)いるというのは言ってないけど。でも、本当に困ったときは、裏の手とかいろいろ使ってやるんです。レズビアンだったらやんなきゃいけないから(笑)。いや、本当ですよ。私の中ではそれしかないから。「ちょっと助けてよ」と言っている女性に対して、できることがあったらやらなきゃいけない。それが私の、たぶん、一生の仕事だと思っています。
レズビアンが一生の仕事というのは変だけど、でも私はそう思っています。自分がレズビアンでいることが一生の仕事。レズビアンというのは、女性のために女性を守って、女性のために女性が生きやすくするために闘って、死ぬこと。死ぬというか、寿命を全うすることです。どんなに狙われようが、どんなにつぶされようがしょうがないです。今はちょっと大変です。
今はトランス男性で被害に遭った方とか、そういう方の相談をどこも受けられないとか、そういうのもあって。あとはLGBTの中で、女性とトランス女性が対立させられるみたいな構造は絶対おかしいので、それを何とかそういう形じゃなくて、お互いに協力し合っていけるようにしたい。ここ(港区立男女平等参画センター「リーブラ」)ではそういうことが起きたんですけど。だって私、呼んでいるんだから、講師やなんかにトランスジェンダーの人。ここが知らないだけで、呼んだりしているんです。性暴力のことで呼んでいるんです。当たり前にやっていることを、びっくりしちゃうのでなくて、変に気張らなくて、自分の本当にやりたい仕事とやりたい表現が自由にできるというような形の生活がしたい。だから、気張りたくないんです、私。「LGBT」って皆それぞれ違うから。Gとは給料も違うし、一つ一つ問題が違う。私にはまだもうちょっとだけ、やることがあるんです。
この問題に今、関わっちゃったから、これが私の最後の闘いです。人生最後の。このLGBTの対立。いろんな女性との変な対立をやめさせること。私はそれをやっているんだけど、「性暴力被害者支援の織田」としてやっているんです、「レズビアンとして」じゃなくて。自分の中ではレズビアンとしてやっているんですよ。前から知り合いはレズビアンって知っています。だからそこらへんとは話をしたりするけど、知らない中でどこまでできるか。知っちゃうと「あの人はレズビアンだから」ということになるので、性暴力被害者の支援者の立場と、女性の立場で、LGBTの人と一緒に協力し合って生きやすい社会をつくっていく。これが私の最後の仕事です。やっと戻れた、という感じなんです。ここに。自分の生き方に戻れた。ただし、それを全面的に言うと、今の状態だと大変なので逆に言えないかな。そんな感じですけどいいですか。
呉:はい、わかりました。ありがとうございます。
杉浦:じゃ、(録音を)止めます。ありがとうございました。