概要

ウーマンズ・ウィークエンドは、主に性的マイノリティの「女性」が中心となり実施されてきた合宿イベントです。第1回から第19回までのプログラムと、歴代オーガナイザー2名へのインタビューを杉浦郁子がまとめ、「uraiku」名義でブログ発信していました(2003年3月6日~2007年2月26日まで)。そのブログをここに再掲します。

編集人uraikuよりご挨拶(2003年3月6日記)

目次

1.私が「ウーマンズ・ウィークエンドの歴史」を編もうと思った経緯
2.WWEが発足したときのこと
3.参加資格をめぐる議論

.私が「ウーマンズ・ウィークエンドの歴史」を編もうと思った経緯

私が初めて参加した「ウーマンズ・ウィークエンド」(以下WWEと略記)は、第7回(1997年3月21-23日)です。最終日の日曜日だけの当日参加でした。午後におこなわれた「バイ・ネットのこれまで」というワークショップ(分科会)のあと、「さよならミーティング」に参加、次回(第8回)のオルガナイザになりました。このときのことは、比較的よく記憶しています。次回オルガナイザがなかなか決まらなかったこと、気まずい雰囲気のなか「バイ・ネットのこれまで」を主催したワークショップ・リーダー(Bさんです)が手を挙げたこと、Bさんと仲良くなりたくて私も立候補したこと。それに比べて、自分がオーガナイズした第8回(1997年11月1-3日)のことは、あまりよく憶えていません。費やした時間も労力も、第8回のほうが断然多かったというのに。

第8回からちょうど5年後、第15回(2002年11月1-3日、日付まで一緒の偶然にちょっとびっくりです)をオーガナイズしましたが、前回オルガナイザから引き継いだファイルに、第8回以前の資料がないことに気づきました。「ちょっと待て、もしかして、今や、第1回から第8回までは、その正確な日程さえわからないんじゃなかろうか。いやいや、第8回は自分がやったのだから、日程ぐらいはわかるだろう。家のどこかに何か残ってないだろうか...」。探してみたものの、何も出てきません。「資料がない」「自分がかかわった第8回の日程さえわからない」と知るや、俄然、知りたくなりました。

しかし、それはそう簡単なことではありません。回ごとにオルガナイザが交替し、運営を統括する永続的な組織があるわけではないこと、15回すべてに参加した人はいそうにないこと、いたとしてもこれまでのプログラムをすべて保存していると期待できないこと(私も保存していませんでしたし)。となると、調べるといってもたいへんそうだなぁ、と思いました。

「でも、まずはやれることから」と、WWEが立ち上がった当時のことを知るBさんに久しぶりに連絡しました。「第15回でワークショップをやってくれませんか? 第14回の参加者から『初めて参加したが、どういうふうに立ち回っていいのか、わけがわからず3日間過ぎてしまった』といったとまどいの声が寄せられました。WWEとはどのような目的で何をするところなのか--初参加者には、そもそもこれがわからないのです。そこで、WWEが立ち上がった経緯を知ることでWWEの主旨を理解できるような、その成り立ちを話すことで初参加者をフォローできるような、そんなワークショップを企画してくれませんか。ついでに、そのワークショップで話してくれた『成り立ち』を『WWEの歴史』として記録させてくれませんか」。この依頼にBさんは快諾してくれました。

結果的に、Bさんに連絡したのは「大正解」でした。ちょうど引っ越しをしようと荷造りをしていたBさん、なんと、自分の部屋から第8回以前の資料がファイルされているクリアブックを「発見した」のです。引っ越しが幸いした何という偶然。Bさん、えらい!(のか、えらくないのか?) この「発見」がなかったら、第8回以前のプログラムは、依然、空白だったことでしょう。

というようなことで、全15回のプログラムのコピーが手に入りました。それをもとに、日程と場所、ワークショップのプログラムをまとめました。もしかしたら、ワークショップの主催者の都合で中止されたものもあるかもしれませんが、「予定されていたもの」として記録に残します。また、第1回のプログラムは正規のものではないかもしれません。ここにあるコピーは、ノートに走り書きされた「メモ」のようにも見え、そのわりには時間までくわしく記載されているので「正規」のもののようにも思えます。日本語のプログラムもあったのかもしれませんが、とにかく、残っているのは英語のメモ1枚だけでしたので、それを解読して整理しました。第8回も英語のプログラムしかありません。でも、この会は確かに日本語のプログラムがありました。おもちの方、ご一報くださると助かります。

なお、第8回までは、プログラムは日本語のものと英語のものが作られていたようで、第2回から第7回までは、英語のプログラムも手元にありますが、日本語の情報を優先してアップしました。また、ワークショップの主催者の名前は、名前を出しても差し支えないと思われる団体以外は、ふせました。

素朴な感想ですが、全プログラムを概観すると、本当にたくさんの人たちがWWEを支えてきたことを実感します。また、ワークショップのテーマも多岐に渡り、「私も次にこんなワークショップをやってみたいな」といったアイディアが湧いてきました。WWEが多くの人たちの思いや協力で続いてきたことを感じられただけでも、まとめた甲斐がありました。これからも、微力ながら、WWEの足跡を残すための手伝いをしていきたいと思っています。ワークショップのプログラム以外にも、おもしろい情報があったら随時アップしていき、何年か後には「歴史」と呼べるくらいの厚みのある内容になっていたらいいなと密かに思っています。

.WWEが発足したときのこと

Bさんが第15回のワークショップで「WWEが発足したときのこと」をかいつまんで話してくれましたので、Bさんの話をまとめてみました(*1)。

【Bさんの話】

「女のウィークエンド」(*2)は、それ以前からあった「レズビアン・ウィークエンド」(*3)をモデルにしている。合宿形式で週末におこなう、ワークショップをやる、公立の会館を使って安く済ませる、参加者のなかから次回のオルガナイザを決める、といったやり方は同じ。

「レズビアン・ウィークエンド」では、「バイセクシュアル」はあまり居心地がよくなかった。「レズビアン・ウィークエンド」という名前から、「バイセクシュアルもOKなんでしょ」と思う人と、「レズビアン・オンリー。バイセクシュアルはだめ」と思う人がいて、参加者にそういう見解の違いがあるのはわかっていたにもかかわらず、ちゃんと話しあわないできていた。私(Bさん)は「バイセクシュアル」なのだが、「(バイセクシュアルが)何で来てるのよ」と言われてしまうことがあった。

レズビアン・ウィークエンドには、「セパレティスト(分離主義者)」、「レズビアン優位主義」とでも呼べるような考えの人も、一部参加していた。「男と関係しないレズビアンのほうが(バイセクシュアルよりも)優位だ」というかんじ。「バイだったら何でレズビアンにならないの」「男とつるむな」といったリブ的な雰囲気もあった。レズビアン・ウィークエンドは、もともと女性運動の流れを受けていると思う。私が参加したときも「参加者はみんなズボン」「お化粧なんてするほうがおかしい」というかんじで、フェミニズムやジェンダーをテーマにしたワークショップが多かったように思う。

「何でバイが来てるのよ」という一部の人たちと、バイセクシュアルの人たちがどうしても衝突してしまった。「そんなふうに凝り固まるのはおかしい」という人、「どうしても男女両方に恋してしまうんだけど」というバイセクシュアル、バイセクシュアルの自分の恋人をつれていくとトラブルになってしまうレズビアン、もちろん自分が行くと批判されてしまうバイセクシュアルもいた。こういった人たちが、「もっと居心地のいい場所を自分たちで作ろう」ということで、WWEは始まった。

だから、WWEを立ち上げたのは、バイセクシュアルの女性やそのパートナーのレズビアンが中心だった。欧米人が多かった(*4)。私の知っている範囲では、アメリカ、カナダ、イギリス。それから今『アニース』をやっている萩原まみさんもいた。

バイセクシュアル女性が中心になって始めたが、「バイセクシュアル限定」とか「ノン・ヘテロ限定」とかにするのではなく、(参加資格は)最初から「女性」にした。レズビアン・ウィークエンドの制限がきついから、逆に枠を広げようということだったと思う。「男性」は排除したが、最初から「トランスセクシュアル」は歓迎していた。第2回のときに、すでにMTF(male to female)の人を呼んで、来てもらっている。戸籍上の性別ではなく「ジェンダー」で「女性」ならいい、その人が「女性」と言えばいい、自己申告制にしよう、ということに、かなり早い時期からなっていたと思う。

ちなみに、「レズビアン・ウィークエンド」では、その後、参加資格についてちゃんと議論をした。議論のきっかけは、95年か96年頃、私がレズビアン・ウィークエンドのオルガナイザになったら、一部からブーイングが出てしまったこと。「レズビアン・ウィークエンドなんでしょ。何でバイセクシュアルがオーガナイズするの」という批判。それで、どういうやり方がいいか、という話し合いを、1年ぐらいかけてやった。レズビアン・ウィークエンドは、年に3、4回はあるから、それくらい長々とアンケートをして、話し合いもして。1年かけて出した結論は、「レズビアン・オンリー」の回と「バイセクシュアル・フレンドリー」の回と交互にやっていきましょう、という妥協案で、今もそういうかたちでやっていると思う。

立ち上げた人たちの動機はさまざまだったろうと想像しますが、「コミュニティでマイノリティになってしまう『バイセクシュアル』」という構図が、WWEを立ち上げる契機となっていたのは確かなようです。

.参加資格をめぐる議論

ところで、レズビアン・ウィークエンドだけでなく、ウーマンズ・ウィークエンドでも、「参加資格」について議論をしてきています。もっとも、レズビアン・ウィークエンドのように、参加者の目に見える場所でシビアな議論をしたわけではなく、その回のオルガナイザ内部での「合意」作りという次元にとどまっています。Bさんのワークショップでは、何人かのオルガナイザ経験者が、「参加資格」についてどういった話し合いをしたかを話しましたので、まとめてみました。

第8回オルガナイザ(私)
よく憶えているのは、トランスセクシュアルの受け入れについて議論したこと。FTMの人から参加したいんだけど、という話が来て、それで議論になったんだと思う。「女としての経験を共有している、ということを重視しよう」とか「だけどそうしたら、FTMだって『女としての経験』をしている」といったことをえんえん話した。結局、FTMは排除」ということになったと思うが、どういう理由でそういうことにしたのか、ぜんぜん憶えていない。でも、結局当日本人が来てしまって、来てしまったから、オルガナイザの部屋か何かに泊めてしまった。

第8回オルガナイザ(Bさん)
第8回のときは、一歩踏み込んで「インターセックス」を取り上げたくて、橋本秀雄さんを呼んだ。橋本さんは、戸籍では「男」だが、「体は半陰陽、性別は男でも女でもない」という主張の人。私がどうしても取り上げたくて、「参加」ではなく「ゲスト」としてスピーチしてもらう、そこで本も売ってください、という特別扱いをした(*5)。

第12回オルガナイザ
11回のときに参加資格について議論して、MTF・FTM共にOKということになったと聞いている。12回はそれを踏襲した。

第14回オルガナイザ
14回では、男性も「ゲスト」としてなら呼んでも別にかまわないだろう、ということになった。パレードのワークショップにゲストで来てもらった。パレードには男性スタッフがいっぱいいるし、何かを共同でやる作業は、男とか女とか言ってられないのだからいいんじゃないか、という話をした。参加資格については、一応「女性」という自認があればいいでしょう、と。FTM(female to male)については議論にのぼらなかった。WWEは、「女性」として「女性」と連帯をもちたい、というふうに思っている人たちが集まる場所だから、FTMにとってはあまり興味のわかないイベントなのではないか。

「参加資格」については、さまざまな「ウィークエンド」(*6)で話しあわれていることなのでしょう。たとえば、「第14回関西ウィークエンド」(2002年10月26-27日)のサイトには、「関西ウィークエンド 第14回だけの決まり」として、「参加資格」について次のような慎重な記述がありました。「第14回関西WEの参加対象者は、レズビアン、バイセクシュアル、ヘテロ、FtM、MtF、Aセクシュアル、半陰陽など女性(おんなせい)に何らかの関連性があるセクシュアリティーを持ち、かつ上記のセクシュアリティーに理解のある人です。年齢、国籍、配偶者の有無は問いません。女性を恋愛対象とする戸籍上も性自認も男性である人のご参加はご遠慮願います。ご了承下さい」。

Bさんのワークショップでも、「参加資格を設けること」の意義は何なのか、ひいてはWWEの意義は何なのか、ストレートに問いかける参加者がいました(私たちが「参加資格」についてしつこくしゃべりすぎたからでしょうか)。その疑問に対して、私も何とか答えようとしましたが、説得力のある答えを示せませんでした。皆が、それぞれの立場やかかえる状況から、このように「区切られた空間」に「区切られた人びと」と「共に居ること」の意義を見いだしているのですから、それも当然なのかもしれません。ただ、「『女性』だけで共在すること」の意義について、WWEという個別の文脈にこだわって考えていくのはおもしろそうです。まずは「自分がなぜWWEにかかわってきたのか」を出発点に、この問いについて考えてみたいな、と思いました。

4.注

*1
Bさんのワークショップは、参加者の同意を得たうえで録音した。

*2
ウーマンズ・ウィークエンドのこと。第6回までは「女のウィークエンド」という呼び方が主流だったように見受けられる。英語での表記は、第6回までは「womyn's weekend」だったが、第7回、8回ごろから「woman's weekend」になっている。

*3
「レズビアン・ウィークエンド」は、その影響の大きさ、継続期間の長さに反して、記述が少ない。1985年11月に始まったことは、いくつかの文献で確認できる。たとえば、[渡辺 1990: 187]には以下のように記録されている。「一九八五年十一月 第一回レズビアン国際会議が埼玉で日本人と在日外国人の共催で開かれる。これは後にレズビアンウィークエンドと呼ばれ、一年に四回程定期的に続けられている」。「ダイク・ウィークエンド」と呼ばれることも多い。( 渡辺みえこ(1990)「日本における女性同性愛の流れ--あとがきにかえて」シカゴ大学出版局編、渡辺みえこ[ほか]訳『ウーマン ラヴィング--レズビアン論創成に向けて』現代書館)

*4
第8回までは、英語と日本語のプログラムを作っており、バイリンガルな空間を目指していたことがうかがえる。

*5
橋本さんがゲストだったワークショップは、1997年11月3日(日)「20.Differnce ♀ and ♂: Are You 100% Woman?」だと思われる。

*6
「ウィークエンド」は、関西や東海地方など、さまざまな地域でおこなわれているイベントである。