工藤加寿子さん(2022年7月23日)
基本情報
1) 話し手:工藤加寿子
2) 聞き手:杉浦郁子/呉丹
3) インタビュー実施日:2022年7月23日
4) 実施場所:東京都内の貸会議室
5) インタビューで話題になったこと:LIO(Lesbian in Occur)/LIO便り/動くゲイとレズビアンの会(アカ―)/オープンミーティング/電話相談/映画/パレード/若草の会/ウィークエンド/Discoアリス/性教育/活動と仕事/1980年代/1990年代/首都圏
6) 形式:音声/文字
7) 言語:日本語
8) データ公開および共有の区分:音声/文字を公開(public)
音声
文字
+ 内容を表示する杉浦:それでは、お願いいたします。
工藤:よろしくお願いします。
呉:お願いします。
杉浦:ではまず、生まれた年を教えてください。
工藤:昭和35年、1960年です。
杉浦:ありがとうございます。ご出身はどちらかということと、それから育った地域はどちらでしょうか。
工藤:生まれたのは東京です。育ったのは、親の引っ越しとかに合わせて、初めに川崎、元住吉にいて、それから足立区の花畑団地という所で育って、その後に港区に行って三田という所で中学生時代を過ごして、その後に目黒に引っ越して、そこから一人暮らしを始めた時に武蔵小杉。なので、子ども時代というのは目黒までですかね。
杉浦:基本的には首都圏ですね。
工藤:そうですね。東京都内で過ごしていましたね。
杉浦:都内で、神奈川県に出るにしても川崎とか武蔵小杉とか、ベッドタウン。
工藤:そうですね。
杉浦:分かりました。自分のセクシュアリティに関して、ちょっと周囲とは違うなというふうに気付いたのはいつ頃だったかということとか、どのようなきっかけだったかということを教えていただきたいんですけれども。
工藤:思えばという形になってしまわずに、具体的に女の子が好きだなと思うようになったのは多分小学校5年生ぐらい。ただ、自分の周りと違うとかそういうことではなくて、この子が好きという感じで気付いた。レズビアンかもしれないというふうに思ったのは高校生の時です。
杉浦:女の子が好きというのとレズビアンという言葉が結び付いたのはどういう経緯で。
工藤:小学校時代は別に男も女もないような感じで、男の子なんかもかっこいい子がいるなと思っていたり。ただ、女の子が好きだったというのは、団地の隣に住んでいた女の子だったんですけれども、1個下だったんですが、すごく仲良くなって。本当に近くだったからおうちに入り浸ったりしていて。その子が引っ越した時にものすごく悲しくて手紙を書いたりし合っていて。ただ、本当、だから、その時は彼女、サトコちゃんというんですが、彼女のことをすごい好きという感じだったんですね。
大体クラスメートでもお気に入りの女の子とかはいたんですが、中学校の3年生の時に、同級生の男の子もいいなと思うことがあって。その時に「私、男の子が好きになったんだ」と、誰とは言わなかったんですが、お友達に言ったら、「わぁ、カズコも男の子を好きになったんだ」と周りに言われたんです。だから、周りのほうが私は女の子が好きと思っていたのかもしれないです。だから、そこまで無自覚で。
高校は女子校がいいと思って、高校は女子校を選んで進んで。1つ先輩をすごく好きになった時に、これは、今までは性欲とかは別にあるとかないとかではなかったんだけれども、高校の先輩が体操着を着ている姿とかを見た時にどきどきしていたりとか。女子校だから百合の世界じゃないですが、漫研にいたので、放課後一緒に過ごすわけです。それで、私が先輩のことを好きなのを知っているから、わざと手を握ってきたりするんですよ。彼女は今思うと全然ノンケだったんですが、でもその時にすごく「あっ」と思って。でも、結局こんな気持ちがあっても結ばれることはないんだなというふうに思っていた。そういうふうな気持ちの時は、これはやっぱり恋愛なんだなと思ったので、それで私は女性に恋愛感情を持つ人なんだというふうに気が付いた。
杉浦:その気持ちはすんなり受け入れられたんですか。
工藤:気持ちとして?
杉浦:はい。
工藤:でも、私は昔から女の子が好きという気持ちに肯定的だったんですね。だから、そこはすごく「ああ」と思った。
ただ、じゃあこれから先、結婚はしたくないし、男の人と性交渉は持ちたくないし、どうやって生きていくのかなというところの戸惑いはありました。否定はしなかった。だけど、無理やり結婚しなきゃというふうには思っていなかったです。
杉浦:じゃあ、生き方の問題と結び付いたんですね。
工藤:今思うとそうなのかな。だから、恋愛、今好きというだけじゃなくて、これからどうしていくんだろうというところはあったと思います。高校生ながら。
杉浦:何となく不安。
工藤:そうですね。不安でした。ただ、本当に女子校というのは居心地のいい所で、周りが肯定的だったし、クラスメートの中でも後ろでチューチューしている女の子たちとかがいたんですね。新体操部の子たちだったんですけど。だから、全然女性が女性を好きになるというところに否定的ではなかったんです。そんな環境だったので、ぬくぬくと。
杉浦:その後のことなんですけれども、ちょっと飛ぶようですけれども、どうやってレズビアンの情報を取得していったのかとか、どうやって団体にアクセスしたのか。
工藤:この間お話ししたように、周りには同性愛者の団体というのは見当たらない。テレビとかでもおかまさんという形で、男性の同性愛者という人がいるというのは。あと、結構マッチョな人たちが出てくるような映画があって、それで男性の同性愛とかを扱っている映画はあったので、そういう情報はあったんですが、女性のリアルなレズビアンというのは見たことがない。いや、見たことなくはなかった。高校生の時の、多分体育の先生はそうだったかなと思うんですが。でも、脱線するけれども、とにかくそういうコミュニティがあるというところはたどり着けなくて。『ぴあ』という情報誌に。
杉浦:『ぴあ』?
工藤:『ぴあ』。映画とか演劇の情報誌の隅っこの所に「雑民の会」という、東郷健さんという人が主催しているゲイとかレズビアン、そこにわざと「おかま」と書いてあったりしたんですが、そういった人たちの集まる所がありますというのを見たんですが、いかにもじゃないですか。いかにも行って大丈夫かなと。未成年者はアクセスできないなという感じだったので、そこはあるんだなと思っただけで。
新宿2丁目とかも多分あったんでしょうけど、2丁目とかに行くという頭は全くなくて。情報がなかったので。学校は新宿を通るから、よく寄り道はしていたんですが、全然2丁目の情報はなくて。
杉浦:70年後半ぐらいの話。
工藤:そうですね。『週刊女性』で、一番初めが新聞の記事で、『週刊女性』だったと思うんですが、「若草の会」の人がいるという小さな――ああいう時は目ざといですよね――あって、じゃあこれを買おうと思って、「若草の会」を知ったのが初めてでした。
杉浦:「若草の会」が載っている『週刊女性』の広告か何かですか。それを新聞で見たんですか。
工藤:広告だったんです。切り抜きがどこかにあると思うな。でも……
杉浦:新聞で雑誌の広告がありますよね。
工藤:そうなんですよ。そちらの新聞の広告の切り抜きはないんですが、『週刊女性』の記事はきっとどこかに埋もれていると思います。
杉浦:じゃあ、代表の方が出ていた記事。
工藤:そうです。そこで「若草の会」と接触して、まず『Eve&Eve』という雑誌を送ってもらって。送ってもらったんだと思うんだよな。いや、本屋で買ったかもしれない。下北沢で買ったかもしれない。『さぶ』とかと並んでいた。買いましたね。それで連絡先にアクセスして、会合に1度だけ行きました。
杉浦:それは高校生の時ですか。大学生?
工藤:それはもう大学生になっていました。大学生になってからは恋人というか付き合っていた人がいたので。その辺は、恋愛の話とかは後になりますか。一応コミュニティの接触というところだと、そういう感じ。大学、多分3年生か4年生になっていたかもしれない。
00:10:00
杉浦:じゃあ、80年代の前半ということですね。
工藤:そうですね。
杉浦:その会合に行ったという。
工藤:行きました。
杉浦:その時の様子を教えていただけますか。
工藤:団地の一室だったと思うんですけれども、お座敷の所に長テーブルがあってみんなで座っていて、ご飯を食べたり。あんまりお酒をべろべろ飲んだという感じじゃなかったですが、飲食をしていて。本当に雑談とかをしていた感じだったので、リーダーの人が何か演説をするとかそういうことではなくて、本当に親睦会みたいな感じだったんですね。割と年代は幅広くて、学生の人もいたし、年配の人もいて、本当にいろんな層の人がいて。ちょっと年代の後の人は「あなた、学生さんだったら、本当に女性が好きだったら、手に職を付けなきゃ駄目よ」という感じの話をされたりしていて。全然、それも本当に雑談レベル。「やっぱり生活していくというところをしっかりしないとね」なんて感じの話をしていましたね。
杉浦:代表の方にはお会いしました?
工藤:その時いらしたので。でも、全然普通にさばさばとした感じの人で、そんなにこの会をどうやって立ち上げたかとかそういう感じの話はあんまり聞かなかったんですよね。本当に親睦会に参加しましたという感じだったので、あいさつくらい。
杉浦:1回しか行かなかったというのは何か理由があるんですか。
工藤:遠かったという。あと、学生だったのであまり。あの時……
杉浦:どの辺でした?
工藤:大田区のほうだったと思うんですよね。六郷? 結構後になって私は川崎のほうで暮らすんですが、品川から向こうの川崎のほうに寄ったほうの隣だったと思います。ちょっと歩く感じだったんですが、方向音痴なのによく行けたなと今は思うけど。行くにしても、私はその頃目黒区のほうに住んでいたから、場所的にちょっと遠かったかな。あと、恋人がいたので、特に相手探しで行ったわけでもなかったし。「あ、いるんだ」というところで安心してしまった感じでしたかね。
杉浦:『Eve&Eve』の感想は何かありました?
工藤:いろんな人たちのライフストーリーみたいな感じの話もありましたし、あと悲しい漫画とかもあったんですが。あとは文通欄で、こんなふうにいろんな人がいろんな相手を求めているんだなとかいう感じで、楽しく読んだ感じ。同人誌を読む感じでしたかね。
杉浦:工藤さんは本とか漫画とかサブカルチャー的なものにすごくお詳しいですよね。そういうのがお好きなんですか。
工藤:偏っていたんだと思う。
杉浦:さっき漫研と言っていたから。
工藤:そうですね。本当に私は恵まれた世代だったんで。花の24年組という漫画家がすごく百花繚乱時代で、漫画をむさぼり読んで育った世代なので。
杉浦:漫画を読んでいたことは自分のセクシュアリティの受け入れに何か影響がありましたか。
工藤:きっとあったですよね。そうだわ。きっと。子どもの時に、まず漫画のキャラクターは女の子がかわいいじゃないですか。そこですごく。昔ライフヒストリーを語った時にあった、アニメーションのマコちゃんという人魚の女の子がすごく好きだったとか、あとは少女漫画の中でも『ベルサイユのばら』とかは小学校高学年の時に見ていたんですが、あそこでオスカルさまが出てきて、ロザリーがオスカルにほんのりした恋心を抱くとか、池田理代子さんの漫画は歴史大作のほうに見られてしまうけれども、女の子の心を扱った作品がすごく多かったんです。女の子を好きな女の子の話。だから、みんなが思っている大河ドラマ系じゃないところで私は池田理代子の話がすごく好きだったんです。
24年組の人たちになると、今度は少年愛、少年同士の恋愛の話とかも出てくるんですが、少年同士の話はあんまり、特にときめきはしなかったんですね。だから、『風と木の詩』とか『ポーの一族』を読んだのはある程度大人になってから。漫研とかになって、大人のたしなみとして読んだみたいな感じ。だから、自分の中としては、池田理代子の女の子が好きな女の子の話がすごく好きだったというところがあります。
杉浦:もう既に80年代、大学生の時に彼女がいたということですけれども、そのお付き合いについてはやっぱり隠していたんでしょうか。
工藤:女子大だったので、結局周りは「あーあ」みたいな感じで見ていたんですね。当てこすりを言ってくる人はいました。猿山の猿とかでも閉じ込めておくとメス同士で恋愛するとかそういう話を、社会学科の子にそんなことを言われて。女の子同士の中でもやっぱり恋愛は排他的じゃないですか。多分それが嫌だったというのはあったと思う。だから、そういうことを言われたことはありました。多分これは男女共学の学校でも2人きりでいるカップルとかがいたらいろいろ言われちゃうと思うんだけれども、それと同じような感じで。だから、レズビアンだからという感じではなくて、そういう当てこすりは言われたけど、結局隠していない。べたべたしていたという感じだったので。なので、一緒にそれこそ少年愛の漫画とかが好きだった、今思うと「腐女子」の友達とかが一緒にいて、3人で仲良くしていて、一緒に旅行に行ったりしていたという感じで。
あと、やっぱり周りに、付き合い始めた時に同じゼミの女の子に、名前出しちゃうけれども「何でミカちゃんなの? 何で私じゃないの?」って言われて。その時別にもてたわけじゃないんです。そんなふうに女の子同士で仲良くするというところが、女子大になっていておかしいんだけれども、あるじゃないですか。小学校高学年とか中学校の時とか、そういう感じの土台があったというのがあって。あんまり、だから、居心地が悪い生活をしていなかったんだよね。だから、コミュニティとかに接触するにもあんまり欲がなかったかもしれないです。
杉浦:例えばご家族なんかには伝えていたんですか。
工藤:母は23歳の時に、私が23の時に亡くなっているので。いや、24の時。大学を卒業した年なので、24の時に亡くなっているので。どちらだっけ。ちょっと待って。大学を卒業するのは普通だと22ですよね。私は1浪しているので、23で卒業。24の時に母は亡くなっていて。
女の子が好きな私というところは、やっぱりすごく女の子に入れ込むのを、母としては気にはしていたんですよ。だから、母としては付き合ってほしいタイプ、礼儀はちゃんとしていて、勉強とかができそうでとか、そういう感じが見えるタイプの子と付き合ってほしいのに、私は、でも漫画の話とかそういう。高校の時も好きな子がいたんですけど、別に好きな先輩とかじゃなくて片思いで好きな女の子とかがいたんだけれど、そういう子の話とかをすると、母親は嫌がっていて。というところはありましたね。ただ、具体的に私が言った覚えもないし、母のほうから聞かれたこともないし、な感じでした。別にレズビアンについて母が嫌がっているというところはなかったです。母もすごく親友を大事にしているような人だったので、結婚する時も、周りがすごい親友だった人も結婚しちゃって寂しくて、なんていう話もしていたので。全然レズビアンじゃなかったですけれども。
あと、父のほうは朴念仁だったんで、別に同性愛者の話はあんまりしたことがなかったな。男が男を好きになるということに対して、批判的なことを映画とかを見た時に言っていたことはあるけれども、女の人については考えてもいなかったみたい。考えてもいなかったかな。
00:20:00
杉浦:ありがとうございます。じゃあ、その後、アカーに関わるようになった経緯について教えてください。
工藤:そして、大学の時に私が若草の会に行ってしまいまして、若草の会で知り合った人と片思いだったんですが、おうちに遊びに行ったりしたんですよ。別に何にもなかったんですが、どうも彼女、一緒にいたお友達みたいな、知り合った人はネコちゃんだと思ったんですよ。
でも、私、その時に大学時代の彼女が卒業前にしてかなりセクシュアリティについて否定的なことを言い始めたんです。彼女も高校時代にすごく好きな女の子がいて、両思いだったんじゃないかなと思いながら、やっぱり実らないまま大学に来て。そんな昔の話をしながら私たちは付き合うようになって。そういう経過があったからあれだったんですが、彼女は地方の名門校を出ているので、親御さんも教職で、お兄ちゃんもエリート。都内の有名な大学に行っていて。そんなうちにいたので。割と封建的なわけですよ。なので、考え方としてはやっぱり女性を好きなまま生きるというところについては、カムアウトするとかはとんでもない。大胆だったんですけれども。私といる時は大胆に振る舞ってはいたんですが、そこでちょっと否定的なことを言われて。
あの頃、フェミニズムの話だったのか分かんないんですが、今はやっぱりレイプについてはそんなに、普通にノーと言うあれがあるじゃないですか。Me Tooとかいう感じで、女性たちがやっと共有し始めた。実はみんないろんな思いをしていたのに。そこの本当の初めの頃だったんだと思うんですが、フェミニズムの人たちが強姦救援センターというのをやったりしていて、そこは医療、病院ともつながるし、カウンセリングもするようなところ。とにかくああいう運動がここでもあったんだけれども、アメリカのほうでレイプに反対するというデモとかがあって。でも、そこで事件が起きて、また女性が同じようにレイプされてしまった。殺されちゃったのか、そういう事件があって、私はものすごい怒っていたわけですよ。
その話をした時に彼女は、そんなふうに声を上げたりするから、そうやって痛めつけられちゃうのよという話をした時に、それは違うでしょと思って。その時に「あれ?」と思うようになって。私は決してフェミニストという感じで運動していたわけでもないし。だけれども、やっぱり女性としては女性を応援したいというところもあったんです。それは本当にレズビアンかどうかじゃなくて。というところがあったので、そこで共感ができない人というところで私は引っ掛かっちゃったんですね。だから、もしかしたら若草の会と接触するというところは、そこもあったかもしれないですね。
それで、夏休みとかは知り合った人の所に行って。私も下心がなかったわけじゃなかったんですが、ちょっとアタックしたら、「ごめん。私、タチだから」と言われて。残念と思ったんですが、結局私は若草の会に行った話とかもオープンに彼女に伝えていたんですよ。多分そこら辺で視野をもっと広くいきたかったというのもあって。彼女はここの生活でいいじゃないという感じだったのかな。今思うと。まだ友達付き合いしているんですけど。
杉浦:2人の関係さえ良ければいいじゃないという。
工藤:2人の関係さえ良ければいいじゃないという感じだったのが、私は窮屈だったのかな。今思うと。
杉浦:それで、社会との接点を。
工藤:そうですね。すごい狭い社会ですけどね。それで、どこまで行きましたっけ。
杉浦:それで、その後アカーに。
工藤:それで、アカー行くまでにまた長い年月がたつわけですよ。それで、その人の後に、うーんと思って。やっぱり『Eve&Eve』か『若草通信』か何かで、友達を求めている人がいたんです。3個下の大学生で。
その人の文面がお友達という感じだったので、じゃあ文通をしてみようと思って、文通をし始めて、会って。やっぱりすごく話が共感できる感じの人だったので、会って。会ったらタイプだったので。あの時はどうやって前の彼女と別れたのかな。別れて、新しい人と付き合い始めてみたいな感じで。それで8年間ぐらいカップルの世界にこもっていたわけですよ。お互いに大学を卒業していろいろあったり、私も卒業した後に母を亡くしたりして家のことをしながら仕事をしたりしていたもんですから、遊びにどこか行くとかいうのはあんまりなくて。彼女と一緒に北海道とか、旅行は行ったりしていたんですけどね。
杉浦:じゃあ、ご実家でご家族と一緒に住みながら。お仕事もしながら。
工藤:そうです。笑っちゃうのがとか言って。彼女の実家が今暮らしている所のすごい近くなんです。
杉浦:目と鼻の先みたいな感じですか。
工藤:そうなんですよ。笑っちゃいますね。まさか引っ越してここに来るとはという感じだったんですけどね。会ったりはしていませんけどね。それで、8年くらいたった時に、「府中青年の家」の裁判の記事を見た時に、こういう活動をしている人たちがいるんだと思って。「動くゲイとレズビアンの会」と書いてあったので、「あ、動くのか」という感じで。やっぱり彼らとしても合宿した時に、「そうか。私はそういう目で見られないけれども、男性はやっぱりお風呂とかに入る時に嫌がられちゃうのか。これはやっぱり差別だな」という感じで、「やっぱり差別があるんだ。声を上げる人たちもいるんだ」と思って、私たちもこうやって中にこもっていれば何も言われたりしないし、田舎のおじいちゃんとかに「結婚しないの?」とプレッシャーをかけられたりはしますがその程度で、仕事とかしていればそんなに結婚のプレッシャーもないけれども、やっぱり社会の中ではパートナーとして認められていないというところもあったりして、「どう思う?」と言って、「ちょっと話をしてみようか」という感じで彼女に言って、アカーにコンタクトを取ったんです。
その時のアカーは、レズビアンの会合はなくて、レズビアンサポーティブな感じの人はいたんですが、バイセクシュアルなのか、彼女のセクシュアリティはあんまり知らないんですが、そんな感じで「おお」と思って行って。その時に男性陣が電話相談をしている。それで、電話相談かと。ちょっと待ってください。ちょっと前後しちゃっていいですか。
杉浦:どうぞ。あと、よかったら飲んでくださいね。
工藤:あれはいつだったかな。ライフヒストリーのほうの話は出たかな。
杉浦:アカーの裁判が記事になったのは90年ぐらいですよね。
工藤:そうです。だから、私は30代になっていたんですよ。その前に、いのちの電話に電話をしたことがあったんですよ。あれはいつだったかな。もしかしたらライフヒストリーに残っているかもしれないんですが、ごめんなさい。あれからまた年もたっちゃって。
杉浦:いえ。私もそれに探したんですけれども、工藤さんらしき人のが見つからなかった。本に掲載されました?
工藤:掲載されていたかもしれない。分からない。『魔法のマコちゃん』とかの話を書いていた人がいれば私なんですが。
杉浦:分かりました。じゃあ、もう一回それを見てみますね。
工藤:あの時に一番あれだったのは何だろう。大学生になった後に、やっぱり高校の時に好きだった女の子とかが男の子を好きになったと言っていて。私、女の子からは選ばれないんだなと。その人とも友達付き合いを続けていたんですが、告白したんですけれども、「ごめん、私、そういう人じゃないから」と言われて、ちゃんと断られたんですけど。
やっぱりその時だったと思うんですが、ちょっと落ち込んで。「このまま独りで生きていくのかな」とか、「結婚しないで生きていくのかな」というところで、いのちの電話にかけたのはいつ頃だったかな。いのちの電話に相談したことがあったんですよ。その時にやっぱりすごく優しく対応してもらったんですけど、「いつかきっといい人が現れるから」と、それは男性のことなんですけれども。だから、女性でも男性でもという言い方はされなかったんです。なので、「ああ、分かってもらえないな」と思ったんです。
そのことがちょっと残っていたので、アカーのほうで、そうかと。ピアな立場で、同じような立場でそこを隠さずに言えるというところで、そういう電話相談をしている人たちがいるんだと思って。ただ、そこは全然レズビアンの集まりも何にもしていなかったんで、まずはそこから始めましょうかみたいな。ニイミ君という男の子にそそのかされて、それでレズビアンの集まりをするというのを始めたところなんですよ。だから、別に私が始めますと言ったわけじゃなくて、電話相談とかがやっぱり必要だなと思ったので、そこだったかな。
00:31:00
杉浦:アカーに行った時は、さっき言ったサポーティブな女性はいたけれども、他には女性はいなかった?
工藤:レズビアンの人はいなかったのかな。
杉浦:ゲイ男性の。
工藤:ゲイの男性の会だったので。それで、一緒に来てくれた彼女は学校とかも共学の学校だったし、男の子の友達とかもいたから、全然一緒にニイミ君とかと話をした時も、本当に明るい青年だったし、「私たちできることあったらいいよね」みたいな感じで一緒に入ったんです。
杉浦:じゃあ、そこで入ると決めたんですね。2人で入った?
工藤:2人で入ったんです。今思うと、彼女は付き合ってくれたのかなという気もするんですけどね。
杉浦:それで、まずホットラインというか電話相談。
工藤:そうですね。だから、その前にお茶会をしましょうという感じで、何と男の子たちがおやつとかを作ってくれて、女子会をやっていたんです。料理の得意な男の子たちがいて、おやつを作ってくれて。餌に釣られてお茶会をしていたんですけど。
杉浦:『LIO便り』を読んでいたら、91年10月に「女の子のためのお茶会」のメンバーからLIOが生まれたという感じ。
工藤:そういうことです。だから、まだグループの名前もなかった感じだったんです。女の子のためのお茶会だったんで。
杉浦:その女の子のためのお茶会は何人ぐらいいたんですか。
工藤:初めは、でも、結構いたんですよ。6~7人くらいは集まっていたと思います。やっぱり大学生のカップルとか、単身乗り込んできた子もいるけれども、府中青年の家の話とか記事を読んで、ゲイとレズビアンの会というのを見て、「レズビアン、いるんですか」というような問い合わせがあったんですって。だから、大学生が多かったですね。学生さんが多かったですね。
杉浦:じゃあ、その問い合わせに答えて、「よかったら来てください」というふうに。
工藤:それを男の子が紹介してくれたわけですよね。
杉浦:それで女の子たちが集まり始めたんですね。
工藤:そうなんです。
杉浦:それで、そこからLIOを立ち上げましょうという話になった。
工藤:そうなんです。
杉浦:そのLIOを立ち上げた理由というか、その辺のことを教えてください。
工藤:2丁目とかだと夜になるじゃないですか。来る子たちが高校生とか大学生とかで、身近な存在として本当に隣同士のクラスメートとか同窓生みたいな感じで女の人と話をする機会はまずないんですよ。そういう、だから肩肘を張らずに、本当にサークル活動みたいな感じで話をできる場があったらいいなというふうには思ったんです。私が学生時代の時、女子校文化の中で育ってしまったからあれだったけど、でもやっぱり女の子同士の恋愛の話はしないで過ごしていたから、中には「親にこういうふうに言われる」とか、「周りに変に言われる」とか、そういった悩みのある子たちもいて。そういう話を聞いていると、やっぱりみんな共感したり、「私はこうだった」とか、「私の時はこんなふうにして乗り越えた」とか、そういう話をしたり。すごい落ち込んじゃっている、告白して振られて避けられるようになっちゃったとか、そういう感じの話をしても、周りは変に思わないじゃないですか。
だから、そういう話ができるというところで、居心地のいい場ができたらいいなと思って。だから、夜じゃなかったんです。土曜日の午後だったかな。
杉浦:LIO便りを読むと、オープンミーティングと電話相談ホットライン。
工藤:そうですね。
杉浦:ミーティングが月2回とか1回とか。
工藤:月2回だったかな。よく覚えていないです。LIO便りを見てくださいという感じで。
杉浦:月2回、ホットラインが2回ぐらい。
工藤:ホットラインは日曜日にずっとやって。
杉浦:ほとんど週末が埋まっていくみたいなスケジュールが書かれていました。
工藤:仕事をしていたので、やっぱりフリーになるのは週末だったんで。
杉浦:それにLIO便りの発行というのは、結構フル稼働という感じ?
工藤:ただ、多分他のサークルの人はどうか分かんないんですが、使命感とかはあんまりなくて。結局、体質がオタクなんで、漫研の人なので、同人誌を作るような感覚で書いていたんで、全然楽しかったです。
杉浦:これだけのボリュームと内容の物をほぼ1人で7年間編集し続けるのはすごいなという感想を率直に持ちました。
工藤:どうしたんでしょう。ありがとうございます。どうだったんでしょうね。でも、います。同人をやっている女の友達とかは、やっぱりこういうのを書くのが好きな人がいるんです。だから、今私もブログとかを書いたりはしていて、今は目が駄目なんでTwitterに流れましたけれども、やっぱりいろいろ「何とか便り」みたいな感じで、自分でワープロを打っている人たちというのは結構いたんです。だから、レズビアンに関係なく、宝塚を好きな友達とかは、私は宝塚に興味がなくてもどんどん送ってきたりとか、そんな感じの風土があったので、その辺はあんまり苦にはしていなかったです。ただ、ネタがないという時もあったけれども。
杉浦:「原稿求む」みたいなのがたびたび。
工藤:そうなんですよね。
杉浦:LIO便りを見ると随分全国からお便りがあったみたいなんですけれども、そういう外向けの発信みたいのは何かやっていたんですか。
工藤:外向けの発信はしていなかったんじゃないかな。結局アカーのあれだったので。アカーの電話相談で、レズビアン電話相談みたいな感じになって電話をくれて、「じゃあ、LIO便り読んでみる?」みたいな感じで話をしたり。それで、LIO便りを読んでいた人が夏休みですと言って地方からやってきたりとか、そんなことはありましたけれども、あんまり外向けには発信していなかったです。
杉浦:じゃあ、やっぱり当時はアカーの知名度がかなりあって。
工藤:そうですね。
杉浦:そのホットラインは、女性用・男性用みたいにしていたんですか。
工藤:男性用が、一番初めはやっぱりエイズの電話相談というのを結構あの頃は需要があったんですよ。もちろん一般的な保健関係の機関も守秘義務がありますということで、電話相談を匿名で受けますとかいうふうにやっていても、結局具体的な行為を、何をしてこれが危険だったのかどうかとか、その辺はセクシュアリティが分かんないと、分かんないと思うんですよ。だから、その辺ですごく需要を感じていたというか、必要性があったということで、彼らのほうは多分東京都とかのHIVの電話相談とかにも一応関わりを持ちながらやっていたと思うんです。だから、私たちは本当にセクシュアリティのほうだったんですが。
杉浦:差し支えない範囲で構わないんですが、どんな相談内容が来たんですか。
工藤:本当にそうだろうなという感じですよ。「周りにレズビアンがいない。私、女の子好きなんだけど、2丁目は怖い。どこに行けば会えますか」とか。あとはやっぱり結婚している人が「どうしても生活のために結婚生活は営みたいけれども、女の人を忘れられない」とか、そういう話もあったし、あとはいわゆる気持ちが病んじゃっている人とかが話を聞いてほしいと言って電話をかけてきたり。
あと、カップル2人で孤立しているという相談とか。本当に普通のというか、多分私が10代とか20代初めくらいにもしも電話相談で聞いてもらえたらよかったかなと思うような話だった。
00:40:06
杉浦:結構1件当たり何時間も聞くみたいな感じですか。
工藤:そんなに。一応時間制限はあって、あまり長くなりそうな時は「ごめんなさいね、他の方もかかってくるから、また次回ね」という感じで、電話を置くような感じで。あんまり深刻に「自殺を考えてるんですけど」と、そういう電話がなかったのは幸いだったんですが。結構長い人は長かったです。特に本当に孤立している人とかは。一番初めは「お姉さんもそうなんですか」というふうに聞かれることも多かったんで、「私もレズビアンですよ」というふうに言っていました。
杉浦:毎回かけてくるような、そういう方もいらっしゃいました?
工藤:いましたね。元気にしているかしら。
杉浦:レズビアン専用のというか女性専用のホットラインはそれが初めてですよね。
工藤:そうですかね。そうでしょうね。確かに実際にやってみて、これの運営は難しいとは思いました。かなり時間的に拘束されちゃうので。だから、3人、4人くらいで回したりしてできたんですが、彼女とかも取ってくれていたんで。あと、ハトガイさんとかも入ってきてくれたので、だんだん回せるようにはなったんですけど、そこの信頼関係というか、本当に仲が良くないと、きっと「お願いね」と言うのも。ビジネスっぽい感じでは、とても続かなかったと思うんですよね。私も本当にこんな仕事にならなければ、今でも電話は取りたいくらい。
杉浦:じゃあ、同じ時間帯に男性用のラインと女性のライン。
工藤:それは別です。男性は男性で。男性はかなり結構スタッフがいたので、回していました。
杉浦:土曜日の月2回の時間帯は、ラインは1本だけで。
工藤:日曜日ですね。
杉浦:日曜日。ラインは1本だけで、1人が取っていた?
工藤:何人か、2人で待機していて代わりばんこだったと思います。1人しかいない時もありましたけれども。一応記録を取っていたんですけどね。
杉浦:じゃあ、やっぱりかなり、こう言ったら何ですが、ちゃんと運営していたというか、ちゃんと記録していた。
工藤:「なしです」というのはなかったですからね。やっぱり申し送りじゃないですが、自分が取れない時もあるので。「ちょっとこの人、注意したほうがいいよ」ということもあるので、そこは取っていました。やっぱり名前を変えてかけてくる人とかもいたんです。どうしてもいるじゃないですか。そうやって電話をかけてくる人というのはいるんですよ。別にレズビアンかどうかじゃなくて、やっぱり孤独な人とかはかけてくるんですが、その度に違う話をしてくる人とかも中にはいたので。
杉浦:対応がなかなか大変。
工藤:そうですね。
杉浦:いたずら電話みたいなのはなかったですか。
工藤:いたずら電話はありました。男性からかかってきましたけれども、「さようなら」という感じで。いたずら電話かどうか、ボーダーラインになっちゃうのが、セクシャルマイノリティでもトランスジェンダーの人、トランスセクシュアルな人。「男の人は嫌なんです。女の人と話をしたいんです」という感じで。でも、別に性的な内容とかだけじゃなかったので、女の人として女同士の話をして満足してもらったということもありますが、あれがいたずらかどうかは分からないです。判断はできないですね。
杉浦:トランス女性からかかってきた。
工藤:トランス女性から、「女の子好きなんだけど」という。トランス女性のレズビアンの話とか、そういうこともありました。
杉浦:それはいつ頃ですか。始めたばっかりの頃にもうトランスの。
工藤:結構慣れてからだったかな。カウンセリングの基礎みたいなのはほとんどテキストを読んで、「始め」みたいな感じだったんです。ピアカウンセリングという仲間同士のカウンセリングがあるじゃないですか。あれとかはグループに参加して、それはフェミニズムのグループに参加して。だから、セクシュアリティ限定じゃないところで、生育歴の話とかセクシュアリティの話もあれば、自分の居心地の悪い話とか、ひたすら。
だから、アカーのミーティングも一応ルールを作っていたんですけれども、その人が話している時はちゃちゃを入れない、批評もしない、変にアドバイスもしないというようなルールを作っていたんですけど、そういった形のものをやっていたので、ピアカウンセリングみたいな感じの電話相談だったかもしれないです。もちろん具体的な助言を求められる時は、必要な時は提供していましたけどね。
杉浦:あと、ミーティングのほうなんですけれども、ミーティングはどんな方がいらっしゃっていたのかというのも、これも差し支えない範囲で。
工藤:本当に学生、高校生、あと大学生、専門学生。あと社会人もいました。会社員の人もいれば、公務員の人もいたし、あと医療関係の人もいた。あと介護関係の人とかも意外に多い。ナースは結構多かったですね。薬剤師もいれば、医師もいたし。あと主婦の人もいました。
杉浦:この頃、主婦の方に対するちょっと当たりが強い時代だったと思うんですけれども、ミーティングではそういう問題はなかったですか。
工藤:あんまりなかったかな。結局、まだ女性が1人で生きづらいというところは理解できる世代だったので。ただ、やっぱり結婚している人の悩みとかを学生の人が聞いてどう思ったのかなというのは、個人的な話になっちゃうからあんまりしなかったんですけど、多分そこは彼らが「そうか。そういうこともあるんだ」ということは、具体的な話をするところで一番あれだったんじゃないかな。ここは話していいのかな。離婚して女性のパートナーと暮らすようになった人もいました。
杉浦:バイセクシュアルの方は来ていましたか。
工藤:バイセクシュアルの方はたまに来ていました。ただ、バイセクシュアルの人は、男性との関係の話はしないでもらっていました。別に男性との恋愛関係の話はしなかったですね。あそこまで来てわざわざしないと思うんですけれどね。
杉浦:そうじゃない話をしに来ているということですかね。
工藤:そうですね。レズビアンの話をしに来ているということだったので。バイセクシュアルの人たちは結構風当たりを強く受けていましたけれども、今思うと何だったんだろうな、あれみたいな感じですね。私は何でもありだと思うんであれだったけれども、やっぱり女性の合宿とかがあった時に。
杉浦:ウィークエンドですね。
工藤:ウィークエンドとか、あと他にもいろいろあったと思う。レズビアンのウィークエンドだけじゃなく、ウーマンズ・ウィークエンドとか。バイセクシュアルの人はかなりいたんですが、やっぱりばりばりのレズビアンの人は本当にバイセクシュアルの人にはちょっと当たりが強かったかもしれない。ただ、それは誰が誰を好きになるとか関係ないじゃないですか。私は、でも確かにバイセクシュアルと言っている人とはお付き合いできないかなというところはあったけれども、バイセクシュアルであるということは全然問題じゃないと思う。「男性も好きだけど基本レズビアン」とか言っている人だってオッケーなんだけれども、「私はバイセクシュアルです」というところになっちゃうと、多分言葉の問題だと思うんですよね。実際に本当に男性を、もしかしたら人生でたった一度、男の人を好きになるとか、そういうことはありだと思うんで。
杉浦:じゃあ、その辺にちょっと気を遣ってミーティングをしていた。
工藤:そうですね。
杉浦:それ以外にもルールを設けてという感じなんですね。
工藤:そうですね。ただ、がちがちでもなかったし、大体話をしていると、一応お酒はなかったのであれでしたが、やっぱりわーっと盛り上がってくるとぐじゃぐじゃ、カオスな時はありました。その後で飲みに行く人たちもいたし。
00:49:21
杉浦:そうやってミーティングに来る人たちの名簿みたいなのは作っていたんですか。
工藤:参加者は作っていましたね。
杉浦:その方たちがアカーの会員になったりとかという感じだった?
工藤:そうですね。会員である必要はなかったんですが、会員になっている人も多かったです。
杉浦:だって、やっぱり事務所を維持したりとかというお金の問題もありますよね。
工藤:そうですね。
杉浦:機関誌発行もお金がかかる。
工藤:そうですね。でも、あんまり、考えてみたら手弁当だった気もする。アカーにはお金が入ったと思うんですけど、場所代みたいなもんですよね。電話相談とかもボランティアだったし、謝礼が出たわけじゃないので。好きだからやっていたんだと思うんですよ。だから、こうして記録が残っていないわけですよ。
杉浦:アカーの中でのLIOの位置付けというんですかね。記録がアカーにももしかしたら残っていないかもしれないという辺りも含めまして、どういう感じだったのか気になっているんですが。
工藤:サークル活動の中で、動くゲイとレズビアンというところで、彼らとしては同性愛者をサポートするという意味では、レズビアンという人たちもサポートしているよという形が必要だったと思うんですね。動くゲイとレズビアンとか、男性だけの会だけじゃなくてというところで。それで、戦略的なところでは女性にいてほしいというのがあったと思うんです。だから、私は結構一応理事の委員みたいになったりしていたりするので。
杉浦:アカーのですね。
工藤:そうなんです。あそこはちゃんとした団体として届けてあるんで、名前を連ねたりとか。あと、HIVの関係だと、保健師さんとの接触があるんですね。性感染症の予防というところで、そこでセクシュアルマイノリティの女性とエイズみたいな感じで話をしたりとか、セクシュアリティで性教育をやっている保健師さんとかがいるわけですよ。そういうところで10代の頃のセクシュアリティの悩みみたいな感じで、保健師さんと一緒に講演をしたりとか。そういうところではやっぱり女性が要るじゃないですか。なので、そういう意味では要る者という感じ。
杉浦:必要な者という。
工藤:だから、必要な者という感じで。でも、別に仲は悪くなくて、本当にサークルの仲間みたいな感じで、さっきも言っていましたが、お菓子を出してくれていたりとか。おネエ言葉を使うような子たちとは本当にパートナーの悪口を言い合ったりとか、そういう感じで本当に団体のメンバーというよりは、サークルのメンバーみたいな感じだったんで、緩いんですよ。私の意識は緩いので。だから、多分第三者から見たら、アカーに利用されていると言ったり、何で自分たちでやんないのみたいな感じのことを言われるかもしれませんが、私としてはあの場所はあるし、電話回線もあるし、広告はしてくれるしと。だから、お互いさまみたいなところは、ずるいところはありましたね。楽じゃないですか。
杉浦:Win-Winということですよね。
工藤:そうです。不公平とは全然思っていなかったです。どちらかというと、彼らがしたいことには、やっぱりエイズのほうの活動にはあんまり関われなかったんですね。だから、今だったら私はこの資格があるから何かできたかもしれないんだけれども、あの頃はそちらのほうは貢献できなかったんです。
杉浦:当時、男性会員たちは裁判中でしたけれども、裁判のほうは。
工藤:見に行ったりしていました。
杉浦:じゃあ、そちらもそこまでは関わらないというか。
工藤:そうですね。弁護士さんの話とかを聞くことはあったんですが、当事者としては全然。また、声も求められなかった。今思うと不愉快ですね。マスコミのほうから別に話があるわけでもないし。ただ、女性としてももしかしたらウィークエンドの時とかは、、そうだろうなみたいな感じでは思われていたみたい。そんなに圧力はかけられたりはしていなかったかもしれないんですが、もしかしたらああいう公共施設を使う時にはあり得る話ですよね。
私の友達は、私のパートナーは手話が分かるんですけれども、ウィークエンド以外で来ているろうあの人がウィークエンドの参加者を見て、こうやって女同士で何かやっているみたいな感じで、悪口を言われていると分かったと言っていたから、やっぱりそういう意味では差別を受ける可能性はあったと思うんだけれども、男性ほど目立たないからですかね。その辺はレズビアンとしてコメントするようなことを求められたりはしなかったです。
杉浦:工藤さんは当時から顔を出して、レズビアンとして人前で話すということをなさっていたようなんですけれども。
工藤:ようなんですけれども。
杉浦:その辺で抵抗はなかったんですか。
工藤:だって、コミュニティが小さいじゃないですか。
杉浦:でも、コミュニティ外の、例えばLIO便りでいうと「ハンズオンハンズ」とかに出ていったとか、「性教協」ですか、とかの現場で話したりとか、あとは教育現場に出ていって体験談。
工藤:懐かしいですね。
杉浦:を話したりとかという記録が残っていたんですが、これは当然顔出しだよなと思ったんです。
工藤:私の顔なんて誰も覚えていないんで。
杉浦:そうですけれども、30歳ぐらいまではほとんどプライベートな関係の中にこもって生活していたんですけれども、90年代に入っていきなり外の世界、外との接点というんでしょうか。そういうのが始まって、すごい生活が変わったんじゃないかなと思って。
工藤:あんまり。そんなに頻度は高くなかったですし。親が、母が亡くなっているじゃないですか。父はまず私がそういうところに出ていても、そんなもんを目にするはずもないと。親には私、カムアウトしていませんでしたから。ただ、女の人からしか電話がかかってこない変な娘だったわけですけれども。
杉浦:じゃあ、そうやって人前で自分の体験談を話すとか、シンポジウムに出ていって、例えば東大の五月祭みたいなのに出ていって話をするとか、そういうのもそこまで抵抗がなく?
工藤:抵抗がなくというか、現物が行かなきゃ仕方がないと思いませんか。子どもの時もそうだったけれども、悩んでいた20代ぐらい、20歳前、恋人とかと出会って何か未来ができるんだと思うまでは、結局存在がない。マスコミの人で佐良直美さんとかはいたんですが、存在がないというところが。別に恥ずかしいことはしていないし。もし私の話す話で、やっぱりいるんだなと。とにかく私の話の内容とかはどうでもいいので、いるんだなというところを見せないとどうにもならない。ボーイッシュな友達とかは「あんたはいいわよね」と言うんですが、スカートを履くとかズボンを履くとか、そういう問題じゃないんですが、一般的にどこにでもいる人として出ていかないと、具体的でないというか、すごいきらびやかな叶姉妹みたいな人とかが出ていってレズビアンをやっていても多分等身大には感じられない。もしかしたら誰かの、私の娘かもしれない、私の友達かもしれない、母親とかおばちゃんがそうかもしれないとか、そういうところで「普通の」と言う言い方をするとあれだけれども、その辺にいる人が話す必要というのを感じていたんです。
杉浦:芸能人じゃないということですよね。
工藤:そうそう。
杉浦:LIOの中で工藤さん以外にそうやって同じように人前で話していたレズビアンはいたんですか。
工藤:私のパートナーは話をしていたけれども。一応やっぱり社会人として生活を送っているので、顔出しは、という人は多いですかね。
杉浦:顔出しはちょっとという人が多い。
工藤:そうですね。私は幸い職場も緩かったので、親にはカムアウトしていなかったんですが、同僚とかには結構言っていたりしたので。
私、看護学校に移る時にすごくうれしかったのが、会社の人に、その時にカムアウトしたんですよね。もうお別れするから言っちゃえとか思っていたら、ずっと、その時30代だったので、「そうですか。あなたのそばにいる人もいたんですね。よかった」と言ってくれたんで、「ああ、よかった」と思ったんですけどね。だから、すごく周りに恵まれてきました。
00:59:52
杉浦:あと、LIO便りを見ると、サンフランシスコに行ったり、ニューヨークに行ったり楽しそうな話も出てくるんですけれども、サンフランシスコのパレードに行かれたんですよね?
工藤:はい。これもアカーにいたからということなんですが。
杉浦:アカーのメンバーで行くという話?
工藤:そうなんです。アカーのメンバーも向こうにレズビアンの知り合いとかレズビアンのグループがあって、向こうは共同でゲイの団体がありますから、そこに行って話をしたり、いろいろ文化祭みたいな感じもあるわけですよ。レインボーマーチの時期に合わせて。それでそこに行ったりしてというので。あの時はこちらで話をすることはなかったけど、やっぱりいわゆる白人女性じゃない女性たちのグループとかもあったりするんで、そうすると同じレズビアンであっても人種的な差別があったりとか、おんなじグループにいても男女差別があったりとか、そういった話を聞けたりするんで、面白かったです。今思うとそういう話はもったいないですよね。
杉浦:でも、LIO便りには随分行かれた時の話が載っていて、すごく刺激的なというか楽しそうだなと。こういうのが続けば活動も楽しいだろうなという。
工藤:体が自由だったというのもあったんでしょうね。やっぱりパレードは6月なので、休みが取れないとなんないですよね。
杉浦:会社を辞めて行ったみたいな人も。
工藤:そんな人もいますよね。
杉浦:書かれていました。
工藤:ロサンゼルスへ行った時は、たしか私はまだパンのメーカーに勤めていて、ロサンゼルスに支部があったんで、そこで会社の人に1泊お世話になったんですよね。会社の人に。別にどこに来たとは言わず、彼女を連れて。思えば大胆ですよね。
杉浦:でも、やっぱり90年代前半の盛り上がりみたいなのは感じますね。
工藤:そうですね。
杉浦:あとは、マスメディアとの付き合い方にちょっと苦慮しているみたいなことがLIO便りに書いてあって。
工藤:ありました? ごめんなさい、覚えていないな。
杉浦:あんまり取材はなかったですか。
工藤:あんまり。ただ、記事にする時はやっぱり気を付けないと、一応記事にする前に見せますみたいな感じであっても、出来上がると私の話し方は下手だなみたいな感じで、こっちを取られちゃったかみたいな感じはありましたけれども。ただ、不愉快なこととかはあんまりなかったかな。忘れちゃっているのかもしれないですね。
杉浦:あとは、LIO便りのブックリストというコーナー。毎月本やビデオの紹介がなされていて、それを全部工藤さんが。
工藤:楽しかったですよ。
杉浦:楽しまれていたんですね。
工藤:そうですね。結構宝塚のあれを流してくる人とかもレズビアンなんですよ。なので、ネタとしては困らないわけです。「こんな漫画あったよ。よかったよ」とか、「小説がよかったよ」とか、『翼をください』とか、彼女は自分で同人誌を作ったぐらい好きだった映画だったりするので、その辺でお友達同士で「これよかったね」とか。ただ、自分で見つかんない時もあるので、毎月だと古いネタを持ち出したりとか、そういうことはしていましたね。
杉浦:これを毎月ネタが尽きないのはすごいなと思って。しかも結構な熱量で紹介していますよね。
工藤:そうですね。個人的な友達でもやっぱりビアンの人がいるんですけど、その人とかもすごい本読みだったので。だから、その辺は友達たちからもらっていたかも。
杉浦:あとは、工藤さんは先ほどもおっしゃっていましたけれども、95年7月に会社を辞められて、受験勉強して、その翌年の4月から看護学校に入るという。その決断はどのような形で。
工藤:もしかしたら、これはアカーに入っていなかったらしなかった選択かもしれないです。私、もともと母方のほうに結構医者がいたりして、母は看護師という仕事が嫌いだったんですよ。医者を狙っているとか、そういう偏見があったので。だから、母がいたらまず選ばなかった道だとは思うんですが、レズビアンコミュニティにはナースが多かったんですよ。いい仕事だし、あと保健師さんと話をしたり、健康の話に関わっていくうちにやっぱり女性の健康というところですごく学びたいなというところもあったんですね。あと、もともと普通のOLをしていて、居心地はとてもよかったんですが、30代半ばくらいになってくると、私はかなり長い間非常勤で働いていたんですね。父と2人だったので、家事をしながら彼女とも付き合ってというふうな感じ。
アカーに出てきてから一人暮らしを始めたんですね。彼女と別れてから。アカーの中で彼女が彼女を見つけてしまって、私、別れたんですよ。そして独りになった。そして、これからの生活を考える。その時に、職安とかに行ってもその頃はタイプを打てるとか、そんなのは普通の。私が20歳ぐらいの時は、私は日文だったんですが、英文タイプとかを学校で習って、それで結構仕事にありついたんで。でも、もうその頃は普通に事務はワープロとかも普及しているし、転職が難しくなっていたんですね。「28歳くらいまで」とまだ年齢制限を平気でやっていた時代なので。見た時に、「うん?」と思って。ナースは年齢不問で60歳までとか書いてあって、それでいい資格だなと思ったんですけど。
そういえばあの人たちもナースだし、あそこにいる保健師さんもナースだし。あと、そういえば電話相談とかで体の悩みを結構具体的に聞かれたりしたんです。女性が女性の体を細かく見たりしないんで、これは異常だろうかというふうな体の悩みを受けたりしていて。あと、思春期の性の話とか。そういう話をしていると、レズビアンの、そうだ、海外へ行った時に女性のウーマンヘルスケアだったかな。その部分でレズビアンならではの受診の際の居心地の悪さ。男がパートナーだと思われて問診をされるので、その辺が不愉快とか、あと子宮の手術をした。さて、いつからセックスができるかというところで、男の人とのセックスについては具体的に言ってもらえるんだけれども、日本もあんまりこういうのが遅れているみたいなんだけど、じゃあ女のほうはどこまでできるのというところが聞きにくいというふうなことがあって。その人は「自分でするのはいつからですか」と聞いて、看護師に笑われたとか書いてあったけれども、向こうのアメリカで暮らしているレズビアンでもやっぱりそういうことは聞きにくいんだなと思って。そういうところで、女の人の健康というところもあって。
あと、その辺で見かけた認知症のお年寄りがちょっとかわいそうだったんで、初めは福祉に行こうかなと思ったんです。今から看護師の勉強をするのは大変だと思って。ちょっと認知症にも興味があったんで。私、今思うとヤングケアラーだったのかな。分かんないけれども、母が10代半ばくらいからずっと病気だったんで。「あー」と思って。そういう家族を支えられる仕事もできたらいいなと思って。それで、福祉かと思った。福祉のほうがちょっと敷居が低く感じたんですよ。ヘルパーさんを先に取って、介護福祉士とかを取ればいいと思ったら、福祉の学校はものすごく専門学校の学費が高くて難しいと思って。
都立の看護学校。福祉と看護でおんなじ受験案内があって、そこを見たら都立の看護学校はあの頃、学費が5万4,000円だったかな。入学金が2,600円だったかな。その辺は具体的に書かなくていいんですが、すごい安かったんですよ。
杉浦:1年ですか。
工藤:1年。なぜかというと、結局1人一人前に育てたら長く働いてもらうから。都立は、だから、養成ということなんですね。だから、先生方は「あなたたち1人を育てるのに300万円かかる」とか、そういうことを平気で言っていましたから。だから、都立だったら入れると思ったんですよ。入れるというか貯金で何とかやっていけると思ったんですね。それで、看護学校に入ろうと。ただ、だから、ナースっていいなとか福祉っていいなと思うきっかけになるのは、子どもの頃の経験と、アカーとかで明らかになったりいろいろ接触した人たちとの話で、来ちゃったという感じです。今思うと不思議ですね。
01:10:45
杉浦:でも、よく分かるというか、やっぱりそういう経験があって。だって、30代半ばで大決断ですよね。
工藤:本当ですね。でも、いたんですよ。都立学校で1個下の人とか、結構いました。お子さんの子育てがひと段落して入ろうとか、いました。
杉浦:それで、一発で入ってという感じですよね。看護学校は、ちょっと個人的な話になりますけれども、基本的には異性愛中心主義的なところなんじゃないかなというふうに想像するんですが、そういうことはなかった?
工藤:なかったです。実は、男性学生も入ってきていたんですが、彼らは女言葉になっちゃうし。看護のテキストの中でもアメリカのテキストとかを使うので、その辺は既に看護の重要な項目の中にセクシュアリティのことが入っているんです。だから、セクシュアリティのこと、服装とかも患者には好みがある。そういう言い方をしているけれども、多分それは異性装の人のことだと思うんだけれども。あの頃エイズの話もあったので、同性愛の人たちがいるというところはクラスの中でもあれだったし。あと、英語のクラスがあるんですが、『フィラデルフィア』というエイズでパートナーが亡くなる話なんですけれども、その話がテキストで出たりとかいう感じで。その感想を英語で言ったりするんですけれども。だから、ゲイのコミュニティの話とかも私はその時に話をして。あんまりフォビアな雰囲気じゃなかったです。だから、結局看護の対象というのは全ての人なんで、本当に揺り籠から墓場までなので、あまねく揺り籠から墓場までの人たちはいろんな人がいるというところは。障害がある人、病気がある人というところは前提なので、セクシュアリティが障害かどうかは置いておいて、全ての人たちが対象なので、そこは全然。
ただ、病院でいったらどうなんでしょう。私は看護を学びながらその気持ちを受け取ったけれども、一般にきゃーきゃーとまだ若い気持ちで過ごしている人たちは、「え、レズ?」と言うかもしれないし、「あの患者、ホモじゃない?」と言うかもしれないけれども、私は幸いそういう人たちとは会っていないです。
杉浦:学校に通って、実習とかをしながらLIO便りも出し続けたり活動にもずっと関わっていらっしゃった様子なんですけれども。
工藤:そうでしたか。
杉浦:はい。その辺の両立の大変さというか。
工藤:大変だったと思います。あんまり覚えていないです。
杉浦:ざっと目を通したんですが、工藤さんよく風邪を引いていらして。風邪を引いたとか、インフルエンザにかかったとか。
工藤:そうなんですよ。私、演習の時にインフルエンザにかかっちゃって、結局演習を延ばしたとかありました。実習中じゃなくてよかった。
杉浦:お疲れなのかなとか。
工藤:そうです。今は全然風邪を引かないですからね。
杉浦:休む時間があるんだろうかみたいな。
工藤:あと、あの頃はたばこを吸っていたからだと思います。喫煙はよくないです。吸っていたのに言えないけれども。
でもLIOがあったから頑張れたのかなというのもあるかもしれないですね。全く別の世界じゃないですか。ストレスがかかっていると、別のストレスだと相殺されて平気になっちゃうとか、体に行っていたみたいだけれども、そういうところはあったかもしれないですね。
杉浦:ちょっと気分転換にはなった感じなんですね。
工藤:そうですね。ただ、看護学校はこの世で一番勉強したところです。私、4大にいましたけれども、すごく緩かったんで。文学部だったんで。
杉浦:看護学校は3年間ですかね。
工藤:3年間だったんですね。今は看護短大というのもなくして、看護短大は3年間なんですが、4大に移りましょうという感じで動きはあるんですけれども。英語とかもすごい勉強させられるとかいうカリキュラムになるという話なんです。今はコロナになっちゃったから、その辺がどのくらい進んでいるか分かんないんですが、専門化を進めようということで。
杉浦:週末ごとにほぼ埋まっていくような、LIOのほうで。ミーティングとホットラインで。それと学校、実習という。忙しい。
工藤:笑っちゃいますよ。やってたんですね。知り合った保健師さんに「私、進学したいんです」という話をしたら、「入る時も大変かもしれないけど、入ったらライオンの火の輪くぐりだからね」と言われて、入って「なるほど」と。学期ごとのテストじゃないんですよ。単位が終わったらテストがあるんで、どんどんテストをこなしていかないと単位が取れないので、すごいスパンが早かったんですね。だから、本当に看護学校のきずなってありがたいなと思うのは、寮生の先輩からこの先生の傾向と対策というのがどんどん回されるんですね。それを見ながらみんなで勉強して、国家試験の時もこのくらいの部屋で、カンファレンス室とかでみんなで問題を出し合ったりして、それで乗り越えるんで。いったん、だから、卒業しちゃうと、きっと国家試験を通るのは大変だと思います。今受けたら落ちる。
杉浦:瞬発力と、あと団結力と勢いで。
工藤:そうですね。ただ、私がアカーで一緒だったメンバーを見てナースになろうとも思ったし、私を見てナースになった人もいるので。いい仕事です。
杉浦:とはいえですね、就職したら編集長が交代になっておりましたけれども。
工藤:そうなんです。日曜日は確保できなくなって、残念ながら。今も、だから、土日はほとんど休めないので。残念ですね。定期的に休める仕事とかだったら、本当に電話相談をしたいくらいです。
杉浦:土日を休めなくなって、それで関わりづらくなったという。
工藤:そうですね。だから、友達とかもほとんど疎遠になりましたね。普通の仕事をしていると土日しか会えなかったりするんで。
杉浦:その後、別の方に編集長を交代したりとか、多分土日のミーティングとかホットラインを回す人もバトンタッチしたと思うんですけれども。
工藤:そうですね。でも、世代交代的にはよかったんだと思うんですよ。やっぱり私、リアルな会員の人たちと結構年が離れちゃっていますし。30代半ばの人と20歳そこそこぐらいの人とかだと、相当世代が変わっちゃいますよね。だから、私より少し若いくらいの人がやってくれたほうが、それはよかったのかなと。私の場合はなし崩しだったんですけれども。
杉浦:それで、私たちの手元にあるLIO便りは104号までで、それが2002年の8月に発行されていまして。その後どうなったかというのはご存じですか。
工藤:その後はどうなったんだろうハトガイさんが知っているかもしれない。ハトガイさんはそれで結局女性のグループをつくったので。
杉浦:アカーの中で?
工藤:アカーの外で。
杉浦:外でですよね。
工藤:coLLaboをつくったので。
杉浦:じゃあ、工藤さんはこの2000年、2001年……
工藤:関わっていないんですよ。理事長便りとか、サインだけをするだけで、多分レズビアンの活動はしていないんじゃないかなという感じなので。声が掛かんないですが、当たり前ですよね。忙しいと言って会費も滞納しているから。
杉浦:じゃあ、その後、さっきなし崩しと。
工藤:そうですね。だから、会の名前だとどうなんだろうという感じですけれども。
杉浦:ああ、やっぱり仕事の関係で。
工藤:そうですね。
杉浦:分かりました。
01:20:02
工藤:そうだ。3年間できたのは、もしかしたら私、その時のパートナーは今暮らしている人なんですが、彼女はその時に鍼灸学校へ行ったんですよ。私は看護学校で、彼女は静岡の鍼灸学校へ行っているんです。だから、遠距離なんですが、学校が忙しくてあんまりデートも会えないみたいな感じで。だから、多分土日を使えたんだと思います。
杉浦:じゃあ、その時はまだご実家にいらっしゃって。
工藤:私、アカーにいて、彼女と別れてから一人暮らしを始めたんです。同じ、実家も東横線なんですが、都立大学なんですけれども、武蔵小杉という所に暮らして。だから、実家のご飯の支度をちょっとしたりしながら。学校は大田区だったので、ちょうど中間地点くらいだったんで、三角で動いているような感じだったんです。
一人暮らしも、もしかしたら私がレズビアンじゃなかったら、そんなにしなかったかもしんない。というのは、私、コミュニティに出てきていろんな人と知り合ったんですが、やっぱり親と良好な関係にいない人とか、あと外で泊まる場所を求めている人とかもいたんですね。私は下心はないんで、それで地方から来た人とか。実家に泊まらせるわけにもいかないしというのもあって、そうだよねと。その頃、彼女もいなくなったから、新しい彼女をつくるためにという下心がその時潜在的にあったかどうかは分からないんですが、一人暮らしを始めたんです。
杉浦:シェルター的な感じですね。シェルターとして。
工藤:別にそんな大げさなものではないんですが、気兼ねなく泊まってもらえる場所があったらいいなと思って。今思うとすごい狭い所だったんですが。本当に何でこんな所を選んだのとよく言われていたんですけど。
杉浦:でも、そういう機会があれば泊まらせてというか、泊まってもらって。
工藤:そうです。事件も起きなかったですよ。だから、アメリカで知り合ったビアンの人がやっぱり泊まりに来たこともあって。懐かしい。
杉浦:じゃあ、看護学校の3年間もそういう感じで、一人暮らしをしながら土日は活動をして。99年に就職して。
工藤:そうですね。
杉浦:その機会でパートナーの方と同居したという。
工藤:そうなんです。彼女も学校を出て戻ってきたし。
杉浦:タイミングがばっちりですね。
工藤:ばっちりですよね。
杉浦:じゃあ、そこから、2000年ぐらいから20年ちょっとは。
工藤:ずっと、だから、離れちゃっている感じ。
杉浦:あとは、ちょっと待ってくださいね。呉さんもいろいろ聞きたいことがあると思うんですけれども。
あ、はい。90年代の初めぐらいから、例えば掛札さんとか、他にもいろいろなスペースとかグループができたと思うんですけれども、その当時の様子というんですかね。どんな感じに見ていたか、ちょっと聞かせてください。
工藤:掛札さんはお話を聞いたくらいだったのであれだったんですが、中野のほうにあったのは何だったかな。
杉浦:LOUDですか。
工藤:LOUDだ。LOUDはたまに行きました。
杉浦:行かれていました?
工藤:うん。やっぱりLIOのミーティングと同じような感じで。ただ、LOUDはちょっと資料室みたいな感じ。資料とかもあったんで、なかなか居心地のいい場所でした。本当はあそこで私、レズビアンのための映画の上映会とかビデオ上映会とかをしたかったんですけれども、時間がなかったというのもあるのかな。今でもしたいくらいです。結構LIO便りのために資料とかの形でビデオとかも集めていたので。でも、今はビデオは見られないんですよね。DVDに買い替えなきゃみたいな。ビデオテープ、VHSだったので。
杉浦:再生機が?
工藤:再生機があればあれですけどね、今はもうという感じですね。ビデオは大丈夫かしらという感じですけれども。だから、DVDに買い替えなきゃとか思うのもあるんですけど。意外に映画館でかからなかったものとかで掘り出し物もあったので。
杉浦:それは貴重なコレクションだと思います。やっぱりLIO便りに載っけていたものを全てお持ちということですよね。
工藤:そうですね。私、ブログとかにも上げたんですが、『ある少年の物語』というゲイの男の子のお話。『ある少年の物語』だったと思うんですけれども。キリスト教系のセクシュアリティの矯正施設に入れられちゃった男の子の話なんですね。そんなに古くないんですよ。多分本当に最近の話なんですが、一応回想の形だから。話していいですか。
杉浦:いいです、いいです。
工藤:同性愛者であることを否定されるわけですね。そういうのはちょっと神の道に背いているしみたいな感じで、親に入れられたわけなんですけれども。その中でいろんな、学校でカリキュラムを過ごして、矯正されて出ていくという施設なんですよ。その中でもちろん、だから、否定できなくて、自分で結局命を絶ってしまう子とかいろいろ現れてくるんですけどね。それはすごい真面目なんだけれども、ニコール・キッドマンがお母さんでいい人なんだけれども、親もまた変わっていくという感じで、すごく気持ちに来る映画だったんです。
ただ、その20年ぐらい前に私、LIO便りに書いたか分かんないんですが、『Go!Go!チアーズ』という映画がありまして。その頃はチアガールの『チアーズ!』という映画がものすごくはやっていたんですが、『Go!Go!チアーズ』はレズビアンの女の子のチアガールなんです。自分は、「私はレズビアン」という自覚が全くないわけです。ロッカーの中だと水着の女の子の写真とかが貼ってあって、男の子とキスとかをするんだけれども、うえーという感じになっちゃっていて、女の子のチアの姿を見てときめいているような。その子が周りに無理やり矯正施設に入れられるわけですよ。そこは、コメディなんで、やっぱり男女は一緒になるべきだというふうなカリキュラムとかが一緒にあるんだけれども、結局その中で集まっている子たちがゲイとレズビアンの子たちなんで、カップルができていっちゃったりするわけです。そういうすごい楽しい映画があったので、『ある少年の物語』はシリアスな。最後のところに「この施設はまだ残っている」と書いてあった。「えー」と思って。20年前に『Go!Go!チアーズ』でおちょくられていたようなあんな施設が、本当に真面目なカリキュラムでまだ残っているのかと思って、ちょっと憤りを感じたんですけれども。
そんな映画とかも振り返るというんで、見比べるのは楽しそうだと思いませんか。だから、そういうスペースとか機会があったら、そういうのは楽しいと思うんですけれども。
杉浦:楽しそうですね。
工藤:本当に。
杉浦:だから、あのコレクションが全てお手元に残っているようでしたら、ぜひお借りしたい。
工藤:でも、ビデオだから大丈夫かな。もう悪くなっちゃっているんじゃないかなと。あと、ビデオテープは結構捨てたので。でも、『Go!Go!チアーズ』はDVDになっていたので買いました。
杉浦:なっていましたか。うちはそういうビデオの再生機は取ってあるんですよ。でも、テープの本体のほうが心配。
工藤:そうですね。ただ、私があそこに紹介していたのは劇場でかかっていた作品が多いので、DVDにもなっていると思います。
杉浦:なっているものが多い。たどって見ていったら楽しそうですよね。
工藤:そうですね。本当に。
杉浦:何の話をしていたか。
工藤:ごめんなさい。
杉浦:90年代の前半ですね。
工藤:他の場所ね。
01:29:26
杉浦:ウィークエンドとか、あと地方の活動とかも結構紹介されていましたね。
工藤:あと「さばぁ~い」も行きましたね。さばぁ~いは高円寺の本当にコミュニティという感じで、お店の中の一角を使っていろんな人とお話をしてみたいな感じで。全然教育的な場とかではなかったです。やっぱりゲイの人たちをサポートするという感じの居心地のいい場所という感じだったんで。
杉浦:女性向け?
工藤:女性だけですね。それで、結構手作りの料理とかを一緒にして食べたりとか。レズビアン・ウィークエンドでもお料理を一緒に食べるという、料理教室みたいな、あそこは調理室があったからよかったんですが、そういう感じは、ミニバーみたいな感じであったり。
あと、早稲田のほうに。あれはどこが主催していたのかな。あ、そうだ、1個思い出しました。彼女と出会った時だから、大学生の、それこそ若草の会に行った時に、レズビアンの人じゃなくて、女のウーマンズスペースといったかな。早稲田のほうの地下の貸し会議室みたいなのでやって。そこはレズビアンフェミニストの人が多かった場所なんだけど、ありましたね。体操教室みたいなのをやったりとか、いろんな組み合わせとかをしていて。体操は多分コンテンポラリーダンスをやっている人が披露する場にしたりとか、そんな感じで集まっている場所がありました。
杉浦:80年代の初めですよね。
工藤:名前を何といったか忘れちゃった。
杉浦:早稲田。
工藤:忘れちゃったな。
杉浦:早稲田ですよね。レズビアンフェミニスト系ですよね。
工藤:そうなんですよ。私の彼女がどこに行ったかはっきり覚えていないんですが、彼女はたしか『ぴあ』を見たのか何かの雑誌で、フェミニストの会合があるというのを見たんですって。彼女は地方から上京して生きていた人なんですが。彼女は初めからすごい自覚のあった人だから、ここにいたらありのままの自分では暮らせないといって東京に来て就職した人なんですね。彼女はどこかに自分と同じような人がいるはずといって探したところがフェミニストの集まり。女の集まりみたいなのもあるというふうに書いてあったから、ここだったら絶対いると思って行ったら、いたんですって。だから、そこから2丁目を教えてもらったと言っていました。
杉浦:それもやっぱり80年代の初めぐらいですか。
工藤:そうですね。彼女が私の2個下なので。
杉浦:どこに行ったんでしょう。フェミニストの集まり。
工藤:あと、「NEW SAZAE(ニューサザエ)」という所で、女のディスコみたいな。その辺はお聞きになりましたか。
杉浦:「Discoアリス」というのはあったんですが、そのことですか。
工藤:Discoアリスですね。
杉浦:NEW SAZAEでディスコアリスを。
工藤:NEW SAZAE、まだあるかしら。ちょっとくすんだ感じの、土間みたいな感じのお店だったんですが。
杉浦:ディスコに行かれました?
工藤:行きました。だから、まだ私が今の彼女と付き合っていなくて、ウィークエンドで彼女とは会ったんですけれども、新宿とか2丁目のほうに向かって歩いていて、前のほうを歩いていて。「これから行くの?」みたいな感じで、本当に友達な感じで行っていました。2丁目も行きましたからね。
杉浦:今いろいろな記録を見ると、90年代の前半のほうが今よりも女性だけの集まりがあって、楽しんでいる様子が伝わってくる。
工藤:わざわざ場を設けないと会えなかったんですよね。ネット社会ではなかったし。
だから、あとGOLDとかね。GOLDは今思うと若い時だったら楽しかっただろうなと。がつがつ、踊って食べて、あとは眠くなったらその辺でこうやって寝ていてという感じで。ちょっと色っぽいショーとかもあったし。
杉浦:それはあれですか、GOLD FINGER?
工藤:GOLD FINGER。あれはやっぱりプロデュースしている人がプロの人だったので、すごい色っぽくて、見た目も楽しめるし。ただ、踊るのが好きじゃない人はどうなんだろうという感じはありましたけれども。あのスペースを楽しむという所。あの頃の日本は景気が良かったですね。
杉浦:それもありますかね。
工藤:そうですね。
杉浦:今探そうと思っても、そういう感じのはないですよね。
工藤:そうですね。多分やったら乗る人たちはいると思うんだけれども。ゲイ・レズビアンの映画祭とか、クオリティが高いじゃないですか。ああいう感じのものは本当に大掛かりにはなくなっちゃいましたね。
杉浦:そうですね。映画祭なんかが始まったのも90年代の前半ですよね。
工藤:始まったのはそうですね。本当に勢いがあって、ああ青山かと思ってびっくりしたんですけれども。
杉浦:あと、パレードもちょうどこの時期ですね。90年代の前半ですね。
工藤:そうですね。
杉浦:基本的にそういうのも全部、ほとんど参加なさっていた?
工藤:参加していましたね。パレードは本当にメーデーのように参加していました。
杉浦:メーデー。じゃあ、お祭りというよりは主張する場みたいな感じ?
工藤:そうですね。結構シュプレヒコールを言いながら、プラカードを持っていたり、横断幕を持ってとか。
杉浦:じゃあ、私はいったんここで。呉さんが聞きたいことがちょっとありますんで。
工藤:どうぞ。
ゴ:さっき結構運動のお話をしたんですけれども、私が一番聞きたいのは、仕事をしながらそういう運動も続けていて、さっきも今チャンスがあればホットラインも続けたいという話も出てきて、それはすごく体力的にも時間的にも使っている、コストが高いと思っているんですが、それが続けられるのは何故なのかという。
工藤:そうねぇ、やっぱりきっと自分が満たされる。多分自分の欠けていた部分、欲しかったものを誰かも求めていると思った時に、それを提供できるのは楽しいじゃないですか。それだったと思うんですよね。だから、もしかしたら本当に何も悩むこともなくて、どうしようとか将来の不安を感じたり、ある程度大人になっちゃった人は、これからこの先パートナーを失った後、どうして生きていけばいいだろうかとか、そういった不安が全くなくなった世界になったら、私はそれはみんな、自分がやんなくてもいいなと思うけれども、やっぱり、今ないなと思ったら、したいなと思うんですよね。おせっかいなのかな。ただ、本当に今、仕事に追われちゃっている自分がちょっと嫌。本当に時間が欲しいです。
呉:そういう周りの不安を感じていて、自分が何かしたいという気持ちが生じていくという感じでしょうか。
工藤:そうですね。個人的には、でも、できることはあるから。もしも困っている友達とかがいたら、やっぱりその話はしていくし。セクシュアリティとは別の話なんですが、私、病気を何度かしていて、子宮筋腫で子宮を取ったりとか、ここの人工関節を入れたりとか、そういうことをしているんだけれども、その時に助かったのが、やっぱり患者会。同じ思いをした人たちが、先に手術を受けた人たちが、こんなふうなことが不安だったけれども、これはある程度になってここまで元気になるとか。あと手術の仕方を迷っているんだけれども、病院はどこがいいかというところは勧められないけれども、注意することはあれだし。今、直後はこんなだけれども、1年もたてばこんなふうになるとか、そういった情報を患者会で先にもらえたんです。だから、私も終わった時にブログとかを書いて、今おんなじように同僚が股関節が痛いと言っているんだけどと、向こうの、同じ業界なんだけれども、別の職場の人が言っていて。
「工藤さん、どこの病院かかったっけ」と聞かれた時に、「大体どんな感じ?」というふうに言っていて、「じゃあ、ここの病院はここ。取りあえずすぐ予約できないから、こういう所に行って、まずレントゲンとかMRIとかを撮ってもらって、それで大きい所に紹介してもらえるといいよ」とか、そういった手順とかを教えられるじゃないですか。やっぱり病気が見つかったんですよ。そういう意味で、必要としている人に必要な情報をあげるのは、多分自分が経験していた時に欲しかったことだから、そこで満たされるものがあるんだと思うんです。本当に不思議ですね。
呉:自分の体験に基づいて何かそういうことをシェアしたり、他の人に提供したりということですか。
工藤:そうですね。私が欲しかった時にくれた人たちがいたから、そこを回すということかな。
呉:LIOという場をつくる時もそういう感じですか。
工藤:そうですね。あの時もきっと今話をしてみたら、そうやって若草の会とか女のスペースとか、多分そういうところで少しずつエネルギーをもらっていたんだと思うんです。そこで肯定的なもの、これでこのまま生きていける、大人になっていけるというところをもらっていたから、自分がそうやって30くらいになって大人になった時に、若い人にこれを回せるというふうに思ったのかも。面白いです。話をしているとそうかもと思った。
01:40:16
呉:その時は、工藤さんは結構LIOという場を使って自分の体験をシェアしたりしているんですよね。参加者から何か返事とか、そういうような例えば自分の体験をシェアしたい、そういう動きはありましたか。
工藤:もちろんそういうのもありましたよ。それぞれの生きている場所からなので、それが肯定的なことじゃなく悩みだったりもするんだけれども、楽しいということにすると、恋愛の話とかで出会いの話で、偶然の出会いというか。でも、ここで載っけるのはあれかもしれない。お仕事をしていて、お店をしていたので、花屋さんが出入りしていたんです。花屋さんで働いていた人が、この人を好きだなと思っていたの。こちらの人も、あの人いいなと思っていた。女同士で思っていて、思い切って告白してみたら両思いだったとか、日常的にそんなことが起きるんだとか、そういう恋愛の、人の恋バナだけど、すごくうれしいじゃないですか。すてきとか思ったりする。そういう話とかも会の話は、もちろんセクシュアリティの悩みの話もあるんだけれども。あと、結婚式を挙げましたとか。女同士で結婚式を挙げるから来てねといって、何かをあげたりとか。そういったうまくいっている話もすごく元気になる感じです。
呉:LIOの場の中では、パートナーの話とか。
工藤:していましたね。ただ、パートナーで来ると、パートナーの相手の悪口は言えないから、そこはきっと私生活で話をしていたと思います。
呉:LIOの場の中で、いろんな体験を聞いていたと思うんですが、今振り返ってみると一番印象が深いとか、そういうような話を聞いたらよかったなみたいな。
工藤:何があるかな。メンバーの話よりも、アカーでだと、やっぱり私は保健師さんの子どもたちの性教育の話。異性愛の子どもたちだけじゃないというところの話がやっぱり必要だなというふうには感じたかな。そういうところは、学んだというところはそういうことで。仲間内はただ楽しかったというのはあるかもしれない。あと、悩んで来た人たちの受け方というのは、結構学んだかもしれない。だから、この仕事、ナースに生かせる。だから、本当にアドバイスが欲しいというふうに言ってきても、取りあえず聞くとかそういうところかな。そこは、でも、LIOのミーティングで学んだかな。どうしても言いたくなっちゃうじゃないですか。私はこうやってしゃべる人だから。
だけれども、そこをぐっと我慢していると、その人から自分で自分の答えが出てくる。そういう人の話を出す、コミュニケーションの中で生まれるものというのはやっぱり。だから、どのエピソードが印象的というよりは、そういったものが面白かったかな。
呉:そういう参加者、LIO、オープンミーティングみたいなところに来る人たちは、さっき主婦とかバイセクシュアルの方が来ているという話もあるんですが、90年代の中では、例えばトランスジェンダーの方とかノンバイナリーの方が多分出てくると思うんですけれども、その方たちはLIOのオープンミーティングに参加したことがありますか。
工藤:バイセクシュアルだと言っていた人が最後のほうにいたかもしれないけれども、じゃあなぜここに来たんだろうというのは、もちろん表には出さないんだけれども、きっと、でも求めているものがあるんだろうなという感じでは話をしていたけれども。バイセクシュアルの人は分からなくはないんですが。性も多様化といわれていて、やっぱり私も分からないものは分からないかなという感じ。ただ、きっとその人が語っている言葉というところで、こういう存在がいるんだなというところではきっと出会ったら、「はあ」と思うと思うんですけれども。
呉:工藤さんがまだオープンミーティングにいる時は、あんまりそういう。
工藤:あんまりいらっしゃらなかったですね。ただ、性欲がないという人とかはいました。女の人が好きなんだけれども、別にセクシュアルな関わりは持たなくていいという人もいた。言いそうになるけれども、いいよと言わなかった。もしかしたら、だから、その人にとってはとても大事なのかもしれないんで、そこは言わなかったけれども。
呉:みんなが自分の経験をシェアしたり、他のコメントをするような、何か理念を提示したりという場ではなくて、経験をシェアしたりという場になっている感じ。
工藤:そうですね。だから、なるべく行って疎外感、「私、来てもやっぱり駄目だったな。やっぱり分かってもらえないな」と。せっかく来てそういう気持ちで帰ってほしくなかったので、そこは長くいるメンバーには雑談の中とかだけれども、言っておきましたね。だから、否定しないとか、批判しないとか、口を出さないとか、そういったことはどういうことかというところは、あんまりお題目みたいな感じでは言わなかったけれども、ルールとしては大事にしていたと思います。どうしても話ができない人とかもいて、「つまんなかった?」と聞いたりすると、「いえ、いろんな人の話を聞けて面白かったです。また来ます」と言ってまた来てくれたりするとすごく安心するし、来なくなるとやっぱり、どこか場所があるといいなというふうに思ったりしていましたね。
呉:例えばオープンミーティングが終わった後は、参加者から何か返事とかそういう感想とかを。さっき聞いている話の中では、みんなが元気をもらったりという話があるんですけれども、他の何かそういう疎外感を感じたりする参加者とかはいましたか。
工藤:いたかもしれない。やっぱり人数が少なければ何となくあれだけれども、すごく元気な人が一緒に来ちゃっていた、たまたま初めて来た人で、片方はすごく元気で、片方の人がすごい静かだったりすると、話し足りなかったかなと思う人がきっといたと思うんだけれども、全部をフォローすることはできなかった。ただ、黙っている静かな人が何度も来てくれたりすると、面白がってくれていればそれはそれでいいかなと思ったり。
あと、私はアカーでの飲むほうのソーシャルな付き合いはあんまりしなかったんですね。だけれども、若い人たちは結構普通にしていたので、その中で仲間同士でグループができていったりする。本当に「最近来ないけど、2丁目で遊んでんじゃないの?」みたいな感じで、2丁目で遊んでいる。それはそれでその人の居場所だから、「あんなに元気がなかった人もグループを見つけられたんだ」みたいな感じで、安心はするので。
01:48:33
呉:あとは、さっきLIOの場を使っていろんな情報を発信したりしている中で、レズビアンですけれども、LIOに参加していない友達が結構重要だったという話が出てきたんですが、その友達との結び付きはどこから。
工藤:どこからだろう。まず2人とも、新宿2丁目にMARSBARというバーがありまして。そこが10周年か何かのクルーズをやりました。パーティだったんですよ。客船を貸し切ってご飯を食べるという会があって、たまたま同じテーブルにいた2人なんです。それがお互いに、結局みんなオタクだったんですよ。初め私はお友達と一緒に行こうといって、うちのパートナーでも何でもない人が、オタクな友達と一緒にいて。じゃあご飯を食べに行こうといって行ったら、今度はそこに居合わせた人が1人で参加していたのね。話をしてみたら、すごく境遇が似ていた。境遇というかオタクだったんですよ。漫画が好きで、映画が好きで。彼女は日本文学科で、私も日文だったんですが、好きな小説が一緒だったとか。あと、あの頃は松浦理恵子という小説家の小説が結構出ていて、その話で3人で盛り上がったりという感じで、そこですかね。すごい小さい出会いだけれども。
呉:それはアカーに参加する前の?
工藤:アカーに参加してから。2丁目の情報というのはなぜか私はアカーの男の子たちからもらったんです。それで、MARSBARのマーさんはいい人だよとか、その辺をゲイの男の子から聞いたりしていたんで、MARSBARに行っていて、友達ができて、パーティに行って、みたいな感じ。
呉:つまり、LIO便りを書いたりする中で、その友達はずっとそういうLIOに参加して。
工藤:しなかったですね。そういえばしていないですね。工藤さんがそういうことをしているというのは知っていても、活動にはあまり興味がないと。
呉:でも、実際は何らかのネタを提供したりしていて、実際の編集作業には参加。
工藤:編集は参加していない。ネタだけくれるんです。「何かいい映画ない?」と言って、「これ面白かったよ」と言ってくれたり。だから、それはプライベートな友達。
呉:実際にそういうLIO便りを編集する作業は、工藤さんだけするんですか。それとも他の。
工藤:あの頃ワープロが、結局アカーで作業する感じじゃなかったんですよ。だから、私が打っていたんです。
呉:じゃ、ネタは友達からもらって、でも、実際の編集作業は全部工藤さん1人。
工藤:そうですね。うちでも自分のパーソナルのワープロもあったんで。あとパソコンじゃなかった。ワープロだったんで。全国から来たお便りとかをまとめたり、あとミーティングの様子を書いたり、あとそういうネタを見たりという感じのことはやっていました。
呉:こういう1人で全部の編集作業をやっているのを、何年間ずっと続けているんですか。
工藤:多分。
杉浦:7年。多分91年から。
工藤:LIO便りの新しいものに代わるまでですね。
呉:全部1人?
杉浦:7~8年。91年から99年ぐらいまで。2、3、4、5、6、7、8。
工藤:ごめんなさいね。全然覚えていなくて。
杉浦:その間もほぼ月1でコンスタントに。
工藤:そうですね。
呉:じゃあ、他の、例えばハトガイさんたちが参加してからそういう作業はどんどん若い世代に移すんですか。
工藤:ホットラインとかはハトガイさんたちにシェアする形にして、LIO便りはお願いしますにしたかな。だから、とにかくパソコンが共同で使えないので、まるっと投げた感じでしたね。だから、寄稿みたいな。記事としては寄せるみたいな感じになって、編集とか打ち込みとかはやらなくなりました。
呉:分かりました。じゃあ……
杉浦:LIO便りを寄贈してくれた方が次期編集長だった?
工藤:そうですね。
呉:じゃあ、私の質問は。
杉浦:大丈夫ですか。
呉:はい。
工藤:ちなみに、彼女もナースになった人。
杉浦:読んでいたらそう。「看護学校に入ります」みたいな。だから、編集長を続けられるのかなというふうに思いましたけれども。ちょっとやっぱり勇気付けられますよね。
工藤:今思うと、本当に楽しい30代だったなみたいな。
杉浦:あと、基本的にすごく活動を楽しまれている様子だなと思ったんですけれども、大変なこととか、これは大変だったとかそういうことをもし覚えていれば。
工藤:私、多分こういうのでつらかった覚えとかはあんまり残んないんですね。嫌になっちゃいますよね。ただ、もどかしいのはあったかな。やっぱり私がこういう性格だったから、私がやりますというふうな感じで言ってくれる人があんまりいなかったというのもあったけれども、本当にやんわりと引き取ってくれたハトガイさんとかコジマさんとかがいたから、少し続けていて。人間関係も、私は飲みニケーションとかに付き合っていなかったから、彼女たちのところで友情が育っていたというのはすごくあれだったけれども。私も、こうすればよかったかなということは、やっぱりそういう意味で夜の付き合いもすればよかったかなというところはあるかな。どうしても年齢の話も、年代の話もあるけれども、やっぱり疲れていたというのはきっとあると思うんです。ミーティングをやって、編集をやって、ホットラインをやって、夜もその人たちと一緒にいるというのは多分疲れると思う。楽しいかもしれないけれども、今思えばそこまでのエネルギーはなかったんだと思います。
みんな好きだし、本当に久しぶりに「お元気ですか」とかFacebookを通じて連絡を取ってくれたりする人とか、「コロナだけど、コロナ終わったら飲みましょうね」とか、そんな感じでいると、「誰それがどうしている」「あれそれどうしている」とか言うと、みんな元気なんだと思うと、すごく安心だけど。ただ、多分飲んだりしていなかった分、そこのところは私、離れちゃったというのはあるから、ちょっとそれは寂しいかな。
杉浦:90年代、女性の運動もいろいろ出ましたけれども、やっぱり男性の運動が強いというか目立っていたという。その辺のもどかしさはありましたか。
工藤:その辺が、私は結局自分が好きでやっていたから、さっきのWin-Winじゃないけど、私は彼らに場を提供してもらったのはすごく感謝しているから、男女差とかね。
杉浦:あんまり女性のことを理解してくれていないとか、そういうふうに思うということもない?
工藤:だって、私もあんまりゲイのことを理解していないし。
杉浦:確かにそうですね。
工藤:そうなの。だから、多分この感覚は本当に、女性の女性による女性のための活動をしましょうという志の高い人には理解してもらえないだろうなと思うし、多分理解してもらおうと努力もしませんでしたね。だって、私は今実際にこれをしているんだもんという感じだったから。少し世代の高い人は、いろいろ言ってくる人はいましたよ。ほっといてよと思ったけれども。
杉浦:例えばどんなことを?
工藤:だから、「何で男の人たちと一緒にやってるの?」と。「平場じゃないでしょ」と言われたりとか。でも、数的にあれだったし、別に私は不便じゃなかったしと思っていたけれども。
あと、本当に私がナースをやる時に、「何で世話をするのが女の役割なの」と言われた時は、分かんないと思いました。
杉浦:世話をするような……
工藤:「ケアをする仕事が何で女の仕事なの」と。そんなことを言われたって分かんないよと思って。
杉浦:何でそういう仕事を選んだのかみたいな感じですか。それともケア……
工藤:アカーでエイズのサポートをしているじゃないですか。そこに女がいて、そこでナースになるというのはちょっと許せなかったんじゃないですか。分かんないけれども。私、でも、彼らのためのナースをやっていないしとか思って。女が世話をする役割。ジェンダーのところで引っ掛かっちゃったのかもしれないです。でも、世話をするのは男でも女でもいい仕事だと思いません? 男の介護士なんていっぱいいるし。だから、男が医者で女がナースとか、そういう頭がまだあったのかもしんない。今はいい女医さんがいっぱいいるし、女医さんと言っちゃいけないんだろうけれども。
やっぱりケアの仕事をしていると、ジェンダーの話をしちゃいけないのかもしれないけれども、女のほうがケアはプロ。男の人は本当に幼い。どうしても社会の中に入っちゃうと、上に行っちゃう。管理職に回っていくのが、うちは女の施設長とかもいるけれども、どうしても男になっちゃうんですよね。だって、そりゃそうですよね。家事をやんなくて済むんだから。だから、そういう意味では体制的なところであれだけれども、管理能力とかそういうところはきっと機会が与えられているだけに、男の施設長でも楽というのはありますね。女の施設長だとやっぱり求められるところがすごく多くなるから仕事も多いんだけれども、男の施設長だと「管理の仕事、俺やるから大丈夫」と言って、「じゃあそっち回せ」って、私たちはケアのほうをやれるというところもあるから。そこもきっともしかしたらジェンダーのところで引っ掛かる人たちは引っ掛かるのかもしれないけれども、ケアは本当に細やかなのは女の人だと思います。もちろん得意不得意はある。私はもともと細やかな性格じゃないので。でも、気が回るというか。話は脱線するけれども。
杉浦:全然大丈夫です。
02:01:02
工藤:お年寄りが変な、この辺がよれた服とかを着ていたりするわけですよ。パジャマとか。「この人、服ないの?」と言って、こうやって床頭台を見ると、新しいパジャマとかがいっぱい入っていて。ここだけ(たんすの手前だけ)で回しているから。大体担当の男の子と担当の女の子、女の子・男の子と言っちゃいけないんだけれども、が決まっているので、女の介護士が付いていると、やっぱりその辺はすごく行き届いている。長くいておみとりの人とかもいるわけですよね。多分食べなくなってきて、もうじき最期だなというような時に、変な服を着ていたりするわけです。それが担当が男の介護士で。同じ部屋の女の介護士がいて。ある日、すごいいい物を着ていたんですよ。「この人、こんないい物を着てたんだ?」とその女の人に言ったら、「ちょっとよれよれであまりにもかわいそうで見たら、姪御さんがちゃんと用意してたんですよ」と言って。だから、その辺の気の利かせ方というか、普通のことなんだけれども、やっぱり衣食住とかについては女の人のほうが優秀かなと思う。
杉浦:経験?
工藤:経験、育てられ方なのかもしれない。やっぱりエプロンの着け方が分かんない男の子が入ってきたりするんで。
杉浦:本来的に備わっている資質というよりは、やっぱり経験の差という気がしますけれども。
工藤:経験なのかな。
杉浦:あとはそういう期待をされるから応えようとして身に付けてきたものとかはあるかもしれませんね。
工藤:あと、経験もあるけれども、きっと生理的なところも結構あるかもしれない。
杉浦:生理?
工藤:生理的なこと、体の感覚というのが、女の人のほうが柔らかくできている。だから、人がこういうのも見ていた時に、自分がもしこういうのを着ていたら嫌だなという感じが、その感覚というのがちょっと違うかなと思う。
杉浦:自分だったらという。
工藤:それももしかしたら思いやりというところで刷り込まれたジェンダーなのかもしれないけれども、男の介護士とかで上手な人とかは、「細かいな、こいつ」と思うんだけれども、そういう子はやっぱりそういう感覚が優れているというか。感覚なのかな。
杉浦:自分と置き換えて共感したりとか。
工藤:それも育てられ方の違いだとしたら、男の子の育て方を間違えているかなと思うんだけれども。女の子は女の子で、やっぱり引くところがあるから、それがあって、譲っちゃうところというのはもしかしたらジェンダーなのかも分かんないけれども、私が女子校を好きだったのは、男がいないから、女しかやることをしないじゃないですか。他に頼めないんで、そこが好きだったかもしれないです。
杉浦:工藤さんがそういうふうに活動で割とリーダーシップを取っているのは、そういう女子校文化もありますかね。
工藤:女子校に育てられたところが大きいかもしれないですね。
杉浦:あとは、ちょっと時間が押してきていますけれども、どうですかね。今と比べれば90年代は活動こそすごく盛り上がったと思うんですけれども、社会の受け止めとか受け入れという点ではかなり厳しいところがあったと思うんですけれども、その辺は感じられながら活動をなさっていましたか。
工藤:世間の向かい風を受けるほど、私はそういう形で出ていっていなかったので。ゲイの子たちは嫌がらせを受けたかもしれないけれども。レズビアンで嫌な思いをしたこと。不動産屋さんに、家を借りるのを探す時に、女一人暮らしの時は楽だったんだけれども、女二人暮らしで探しているという時に難しさは感じたかもしれない。やっぱり女性だから、男性だからじゃなくて、女性の不動産屋さんとかで、うちはそういう物件を扱っていないからとばさっと言われたりして。女2人の物件なんて扱っていないと。考えてみると、40の女が2人で暮らすって、世間から見たら慣れない。何だろうという感じじゃないですか。うちの今住んでいる物件は本当にいろんな人がいるんだけれども、きちんとしている所なんですが、なんか自由なんで。(大家さん)多分昔付き合っていた彼女の親戚だと思うんですが、名字が同じなんで、その一族なんですよ。だから、あんまり。
杉浦:じゃあ、割とコミュニティの中で活動していてすごい風当たりを。例えばですが、当時笹野みちるさんとか、あとは池田久美子さんでしたっけ。大阪のほうで、教員でカムアウトした、本を出した方とか。
工藤:分からない。もしかしたら漏れているかも。
杉浦:90年代後半だった。お忙しくなられた時かもしれないですが。やっぱりそういう形で、掛札さんもそうですけれども、外に出ていって、向かい風をまともに受けて、その後活動からちょっと距離を置いたりとか、あるいは体調を崩されたりとか、そういう方も結構いらっしゃったので。工藤さんは、そのようなことはなかったという。
工藤:本当に、やっぱりああいうグループで恋愛沙汰が出ると大変。活動で大変だったのはそういうことかもしれない。誰かが好きで、誰かも誰かのことが好きで、片方が結ばれちゃったとかそうなると、小さいぐちゃぐちゃはありましたね。
杉浦:くっついたり離れたりみたいな話は本当にどこのグループでも。カップルで活動していて、別れたら活動ごとなくなっちゃうとか、そういう話も結構。やはり活動はそういうプライベートとつながっていないようでつながっている。
工藤:本当にそうですね。
杉浦:だから、個人の状況が変わると活動に影響がないわけがないという。
工藤:本当にそうですね。
02:08:08
杉浦:じゃあ、最後になりますけれども、今もいろんな活動が続いていて、若い世代たちが頑張っていますけれども、そういうのを見ていて、工藤さんはどのような感想をお持ちですか。
工藤:この間もお聞きしたけれども、青森のほうのパレードが小さいところから、心配されて残していった人がちゃんといるけれども、ちゃんと引き継いでくれていた人たちがいるというのはすごくいいなと思って。LIOはこんな形で活動は終わってしまったけれども、脈々と続いていくものがあるというのは。多分マイノリティであることには変わりないんですよね。いくら居心地がいいかもしれないけれども、まだ大勢としては異性愛がまずあってということで。それで、同性婚をどうするという話がやっと出てきた。
私がアカーにいた80年代の頃に、議員さんとかに同性愛のことをどう思うかというふうにアンケートとかを採った時に、やっぱりイエスと言っているのはどちらかというと革新系の人たちで、保守派の人たちはまだ「都民のコンセンサスを得ていない」とかそういう感じの話で、返事が戻っていったりするけれども、今は東京都の人権の冊子の中にも性的マイノリティの権利もあるというのが載ってきている。ただ、マイノリティの話は載っていても、それこそみんなのコンセンサスを得たかどうかになるとまだまだ。だから、本当に一人一人が一生懸命生きていく中で、よくなっていくものはまだまだこれから。まだまだよくなっていってほしいし、よくしたいしというところが残っているから。だから、応援できることがあったら、応援したいという感じですかね。
杉浦:同性婚の制度化の裁判もいい結果が出たと思ったら、また悪い結果が出て。
工藤:欲しいものというのは、アメリカのほうの議員さんの話。多分その人は別に同性愛の人でも何でもなかったと思うんだけれども、よりよく生きる、幸せに生きるパートナーを選べるというところはすごくそれは同性婚の素晴らしいところだというふうにアナウンスしている人がいて、議員さんがここまで言ってくれるのはすごくいいなと。考え方が、セックスの相手じゃなくて、もちろんセックスの相手も気持ちいい相手というのは大事なんだけど、幸せに人として生きる相手というところで、同性愛を捉えてくれている人がいるというのはすごくうれしいことなので、そういうふうにみんなが思えるようになったらいいかなと思うんですけれども。
杉浦:工藤さんご自身はパートナーの方と、何かあった時のために準備とかをなさっているんですか。
工藤:いとことかにはカムアウトはしていないんだけれども、何かあった時は彼女に残してという感じの話はしているんですね。保険金とかの受取人はいとこにしているんで。うちは両親も弟も先に死んじゃっているんで。なので、その辺が一緒に会って話したり。なぜか私が手術で入院中に彼女たち2人はタイ料理を食って楽しく過ごしていたとかそういう仲なので、田舎へ行く時はぜひ来てと言っているような感じの間柄なので、そこは。ただ、いとこも同い年なんで、この後どうするかなという感じです。おばたちも知っているけれども、おばたちはもっと年寄りなんで。アカーの弁護士さんたちがいるから、そこを使ってもいいかなと思うんですけれども。司法書士さんとかの手続きで遺産を残すという手もあるから、そこですかね。
今一緒に暮らしている所は2人で届けているんで、私がいなくなったからといってすぐに追い出されるとかそういうことはないんですけれども。彼女のほうもご両親はいなくなっている。きょうだいだけなんで、彼女に何かあった時にお兄さんに伝えるのかと思うとちょっと不思議な感じがしますけどね。私、遊びに行って顔を見たことぐらいはあるんだけれども。そういう意味では、家となるとちょっと厄介かもね。家とかお墓とか。
杉浦:ほんとはパートナーの方の親族といい関係がつくれていれば安心。
工藤:結局、彼女は小姑にいじめられちゃっていて、それで東京に出てきてみたいな感じだったから。今はお互いに年を取ったから、そんなに、法事の時とかに穏やかに過ごしているみたいなんだけれども。でも、ある意味こうやってお話をしているのも、終活の一環みたいな気がします。今まで、もっと年を取ったらもっと忘れちゃうんで。
杉浦:でも、私たちから見ると、私も90年代後半以降は実際に見聞きしているんですけれども、前半の盛り上がりみたいなのは書いたものでしか知らないので。だから、やっぱり今から振り返ってみると、女のグループという意味でも90年代の前半はだいぶ活発に見えます。
工藤:そうですよね。今のグループ。
杉浦:今は女性に特化したというグループは、ハトガイさんのところはそうやってやっていますけれども、だいぶ混ざってきていて、一緒にやっていたりとか。ないですよね。
呉:最近はようやくそういう動きが。
杉浦:出てきました?
呉:出てくるんですが。ハトガイさんにも、東京のプライドハウスという場の中で女性たちが集まりとかを頑張ってつくりたいみたいな、そういう話を聞いているんですけれども。
杉浦:やっぱり男の子には分からないよねというふうに思うところがいろいろとあるんですよね。一緒にやっているところも多いですけれども、90年代ほどくっきり分かれていないというか。一緒にやっているところが多いよね。
工藤:一般的な女の子たちのグループはどうなんでしょうね。セクシュアリティに関係ないフェミニズムの子とか。
杉浦:そういうのはあるし、そこにセクシュアル・マイノリティがいるということはありますよね。
工藤:私、驚いたんだけれども、東京女子大が私の出た学校なんですが、あそこはレズビアンの、セクシュアル・マイノリティのことを何かでやっているグループがあったという話があって、へえと思ったんですよ。もう随分前ですけれども。だから、まだ。
杉浦:大学のサークルは確かにあるかもしれないですね。
工藤:大学は、でも4年間だからね。
杉浦:続くかどうかという。
工藤:でも、同窓生が多くて。卒業した後に女のウィークエンドとかに行くと、同窓生だよとか思って。世代が違う子なんかでも、「学校で会って」と言って、「どこの学校?」「東京女子大です」。たまにいるな。立教とかも学校でね。
杉浦:いろんなところであると思うんですけれども。でも、男女で一緒にやってしまうと、やっぱり男の子中心にどんどん変わっていっちゃうというのはあるし、人数的にも多くなっちゃうので。そこで埋もれないようにというのはありますよね。
工藤:そうですね。女の人のグループはどうなんだろう。やっぱり女の人も忙しいから。
杉浦:忙しいですね。
工藤:男の人は割と何でも仕事みたいにするから残るのかもしれないけれども、私みたいに、私の周りは本当に好きでやっていたという感じだから、そうするとコアな部分、ハードの部分が整わないまま消えてしまうというのはあるかもしれないですね。それこそパートナーを解消しちゃったら終わっちゃったみたいな感じもあるかもしれないですね。
杉浦:ですから、LIOも、工藤さんが活動からちょっと距離を置いた後どうなったのかがよく分からないというところがあります。
工藤:コジマさん辺りがちゃんと分かるかもしれないけれども。
杉浦:そうですね。でも、頂いた物が104号で終わっているところを見ると。
工藤:彼女もね。
杉浦:そこで忙しくなった可能性がありますよね。
工藤:彼女もエキスパート・ナースを取ったりしているから、結構自分のキャリアを積んでいるはずなんですよ。
杉浦:ますます忙しいですよね。
工藤:そうですよね。
杉浦:だから、その後を引き継がれたのか、そこでぱたっとなくなったのかどうかもちょっとよく分からないんですが、その辺もご存じないんですよね。
工藤:そうなんですよね。
杉浦:ちょっと話がずれていて申し訳ないんですけれども、結構続いているグループは1人でやっているところが。
工藤:分かります。1人の人がずっと信念を持っていて、私みたいにずっとオタクで好きでやっていたりするとあれだけれども、やっぱりしなきゃと思って2人、3人とかでしていくと、路線がちょっとずれていっちゃったりとか、あの人がやるから今はちょっとという感じになっちゃうと、何となく力が分散されちゃってというのはあるかもしれないですね。
杉浦:そういうふうにもLIO便りを読んでいてちょっと感じた。おっしゃるとおり、力が分散したり、誰かがやるかもしれないみたいなふうになってくるんですかね。多分アカーも裁判が終わった後、いろんな変化があったと思うんですが。だから、多分そういうアカー自体が変化する前に、工藤さんはちょっと。
工藤:そうですね。だから、あそこは今NPO法人か何かになっているので、前みたいにゆるっとはしていないと思うんですけれども。ただ、コミュニティとしてはすごくお楽しみ企画とかをやっているし。ただ、本当に事務所になった感じなんで、綿々と働いていたりする。
杉浦:じゃあ、そこに女性がいるかどうかもちょっとよく分からない?
工藤:いないと思います。
杉浦:ハトガイさんが出たぐらいですもんね。
工藤:やっぱり1人で男の子の中で働くのはつまんないと思うんですよ。
杉浦:いいですか。何かフォローアップはありますか。
呉:最後に1つ確認ですけれども、工藤さんは何らかの形で今の世代のLGBT運動とかに携わって。
工藤:全然接触していないです。たまに昔の知り合いとか。知り合いといっても、彼女の昔の彼女だったりするんですが、イベントがありますと連絡が来たりとか、そんなくらいなんで。あとはアカーを通して今度催しがありますみたいなのはあるけれども、本当にイベントも全然行っていないし。
呉:分かりました。じゃあ。
杉浦:大丈夫ですか。
呉:はい。
杉浦:じゃあ、これにて終了とさせていただきます。
工藤:ありがとうございます。
杉浦:長時間ありがとうございました。
工藤:ありがとうございました。
02:21:21