天野道美さん(2025年5月18日)
基本情報
1) 話し手:天野道美
2) 聞き手:杉浦郁子/呉丹
3) インタビュー実施日:2025年5月18日
4) 実施場所:兵庫県内の天野氏の自宅
5) インタビューで話題になったこと:
若草の会/ヨーロッパ/天井桟敷/レズビアン・バー/アンジェラ・カーター/ウーマン・リブ/ぐるーぷ・闘うおんな/『この道ひとすじ』/田中美津/千葉敦子/赤い六月/小沢遼子/『女・エロス』/ニューヨーク/松本路子/中ピ連/『the second wave』/オノ・ヨーコ/魔女コンサート/桐島洋子/樋口恵子/56番館/指圧治療/個展/1960年代/1970年代/1980年代/1990年代/京都/首都圏
6) 形式:音声/文字
7) 言語:日本語
8) データ公開および共有の区分:文字を公開(public)/音声を非公開・非共有(private)
執筆一覧
こう道美 1973 「フランスのリブ斗士 エマニュエル来日」『通信赤い六月』No.3
エマニュエル/天野道美訳責 1973 『LE VIOL 強姦』(フランソワ・マスプロ刊『女解放ゼロ年』より)赤い六月
天野道美 1973 「子どもの問題が残っている」(「いま『男と女』に何が起きているのか――私の恋愛・結婚・性 100人の証言」)『潮』1973年11月号: 107-108
天野道美訳 1974a 「レズとよばれて(上)――アメリカのレズ論『Our Bodies, Ourselves』より」『女・エロス』2: 86-98
天野道美訳 1974b 「レズとよばれて(下)――アメリカのレズ論『Our Bodies, Ourselves』より」『女・エロス』3: 80-92
Lucy Leu interviews Michimi 1974 “Women in Japan” the second wave 3(4): 37-43
天野みちみ 1975a 「おんな解放――洋の東西をまず問えば」『女・エロス』4: 138-150
天野みちみ 1975b 「凄絶なる生体実験――小野洋子私論」『女・エロス』5: 100-114
天野みちみ 1975c 「厚顔無恥――女はなぜ男を信頼できないか」『思想の科学』1975年12月号: 30-35
天野みちみ 1976a 「エロス、それは高くつくもの」『思想の科学』1976年2月臨時増刊号: 36-45
天野みちみ 1976b 「今やバイセクシャルな文化の時代なのよ(今月のあいかた 天野みちみ)」『ピク(pq)』3: 2-9
天野みちみ 1976c 「エロスの行方」『行動する女たちが明日をひらく――2年目の記録』28-31
天野みちみ 1977a 「同性愛」『別冊宝島④ おんなの事典』JICC出版局、34-38
天野みちみ 1977b 「私を棄てた母は讃美すべき女の鏡」『別冊宝島④ おんなの事典』JICC出版局、81-83
天野みちみ 1978a 「強姦の時しか『やっちまえ』と叫べないのか(シリーズ ♀女たちよ、翔んじゃえ!②)」『月刊日本』1978年7月号、128-133
天野みちみ 1978b 「レズビアニズム・私の場合(性を考えるシリーズ 第3回)」『交流』1978年9月号、1
天野みちみ 1978c 「女のエロス(今月の読書)」『わたしは女』2(1): 130-131
天野みちみ 1979 「女同士の愛、そこにはやさしさ、なつかしさがある」桐島洋子編著『新おんなゼミ2 おんなの愛情未来学』106-109
内容
+ 内容を表示する目次
【子ども時代、思春期】
【若草の会のこと】
【ヨーロッパ(1968年~1970年正月)】
【帰国、上京】
【レスビアン・バー】
【リブ(1972年5月)】
■リブの集会に行ったきっかけ
■ぐるーぷ・闘うおんな
■赤い六月 1972年11月頃~
【渡米(1974年】
■ニューヨークでの活動
■オノ・ヨーコ
【『女・エロス』編集委員(1974年)】
【20代の頃】
■1960年代後半、中絶の状況
■1970年代、テレビ出演
■29歳、卵を孵すか悩む
【交流のあった人たち】
■千葉敦子さん
■桐島洋子さん
■樋口恵子さん・吉武輝子さん
■駒尺喜美さん
【興味関心】
■読んでいた本
■エロスについて
■女の運動について
【指圧の仕事】
インタビュー
※本インタビューは、2025年1月22日に依頼を行い、同年5月18日に実施したものである。ここに掲載した内容は、インタビュー実施までの期間に交わされたメールでのやりとり(囲み)と当日のインタビューをもとに再構成したものである。写真は天野氏からご提供いただいた。
【子ども時代、思春期】
昭和20年(1945年)京都生まれ。母はおらず(若い男と出奔)乳母がわりのような祖母に我儘一杯に育てられた。高校教師の父と二人の兄からもかわいがられて、思春期の中学、高校はバラ色だった。同性愛という言葉もしらないまますてきな同級生や上級生に次々と恋をして、バドミントンクラブの先輩への思慕は強烈だった。
天野:子どもの時から、小学校の時から女の子、追っかけてた。好きで好きでね。家の中に女がいないのよ。上の兄貴は秀才で、下の兄貴はプレーボーイ、特徴のある二種類の兄貴をもっていた。私はお姉さんがすごく欲しかったよ。おばあちゃんしかいないのね。おばあちゃんは私の後をうろうろして付いてくるだけの人だったの。おやじは。
杉浦:体育の先生。
天野:そう。私、「ミィちゃんとこの家は大きいし、お父さんは先生だし、ソフト帽かぶって仕事に行くし」と、子どもの時から一目置かれてきてるし、男女の苦労はしたことない。だから、男にひどい目に遭った話なんか聞かされるの、困っちゃうね。
【若草の会のこと】
二十歳の頃、電車のつり革の広告で、レスビアンという言葉を知った。最初は、レズではなくレスだったのよ。
若いころから探しに探してきて、二十歳ごろ、やっと「若草の会」とかいうのをみつけ、写真や身上書みたいなのを送って入会したことなど、なつかしく思い出します。郵送か何かで、回覧するのだったと思う。今ならネットでもっと出会いやすいでしょうね。
ハタチのころ、週刊誌?に載せた広告で知ったのか。お金も払って、自分の趣味とか好みとかを写真付きで登録する。会誌があったような、なかったような、もうおぼろです。私は会うところまで進まなかった。いかにもお見合い的で。
天野:日本で手がかりを探したくて、それで、たぶん週刊誌のコマーシャル、広告だと思うのよ。鈴木道子さん! 今思い出したよ。こういうのもあるんだなと思って、写真と履歴書みたいなのを送った覚えはあるの。それをきっと、いっぱい集めて、こういうファイルにして、仲間内で回すんじゃないかな。私もそうこうしてるうちに学校(大学)出ちゃったし、ヨーロッパ行っちゃって、それっきりなの。
天野:やりとり1回やっただけなの。やり方が、お見合いアレンジメントな感じだったね。まぁ、それしかないもんね。趣味だとか、好みのタイプだとかを書いて。今ならインターネットがあるから、いくらでもできるけど、あの頃はこういう文通しかなかったのよね。だから、それっきりよ。誰でもみんなが自分の好みの人と出会うことしか考えてない。世の中が悪いとか、人権がどうのとか、そんなこと言ってなかったと思う。
【ヨーロッパ(1968年~1970年正月)】
小田実の『何でも見てやろう』に触発され、大学卒業と同時に単身渡欧。子守やお手伝いなどしながら1年10ヵ月過ごした。
天野:私は4年の大学で、アルバイトばっかりして、「これで金ためて、ヨーロッパに出て、それで自由になるんだ」っていうんで、ほんとに黙々とお金ためてね。それで「明日、横浜から船に乗ります」っていって畳の上に航空券もドルも全部並べて、おやじに言ったのよ。そしたら、おやじが「何かたくらんでると思っとったけど、こんなことするとは思わなかった」って。それで、「おまえ何が欲しいねん、何が要るんや」って言うから、「そら、あんた、何が要るって金が要るに決まってるやん」言うてその場で1万円もらったのをコートに縫い込んだ。1ドル360円、1人500ドルしか持って出れなかった。そんな時代よ。
天野:私にとっては、ヨーロッパに行ったのが我が青春のお祭りだったね。小田実が『何でも見てやろう』(1961年)っていう本を出して、それを読んだ人がまねして行って、帰ってから、100カ国ヒッチハイクとかいうのを自費出版で出して、それを読んだ私がその作者を京大まで訪ねていった。私、「トランクにしようか、リュックサックにしようか、どうしましょう」と聞いて、「そんなこと言うてたらあかん、リュックに決まってるじゃないか」って言われて、それでリュックで行ったわけ。それこそ、清水さんから飛び降りるつもりよ。
天野:20歳から交流していたおっかさんに「つまらない、いいことない、帰りたい」言うたら「今、帰ったら『ほら見ろ』言われるよ、もうちょっと頑張んなさい」と言われて、それで2年弱いたの。この写真はコペンハーゲンで、ホテルのメイド。この写真は、女3人で車でピレネーを越えてスペイン行った時のね。これ、パリでしょう。これがポンペイでしょう。これがナポリね。これがユースホステル。「ワンダーフォーゲル」といって、長旅をする若者の拠点だった。情報もそこで得られる。ユースホステルにチェックインして、ここで働かせてくださいっていって働く人もいて、私もそうしてスタート。シラミはいるわ、すごい所。そんなこんなで私は強くなったと思う。

〈1968年 パリ〉

〈1968年 ヒッチハイク(ドイツ)〉

〈女三人でピレネーをこえて 1968年クリスマス休暇(スペイン)〉

〈メイドとして働いたコペンハーゲンのロイヤルホテルで 1969年(デンマーク)〉

〈ポンペイ(イタリア)〉
天野:パリのユースホステルが最初の仕事だった。そこから語学学校へ通うの。あの頃、五月革命があって、ほんとにいろいろあった。1968年か。(学校に)歩いて行こうと思って、通りをとっとこ歩いてたら、シトロエンがぴやーっと止まって「乗ってきなさい」って、きれいなマダムが乗ってけっていうんで、「ラスパイユ通り何番地、お願いします」って。そこにアリアンス・フランセーズっていう語学学校があるのね。毎月5,000円ぐらいの学費を払って、そこの生徒になる。そしたら、アリアンス・フランセーズでフランス語とフランス文化を学んでいる外国の少女だっていうことで、アルバイトの口をもらえるわけ。そのために学校へ学費、払ってるのね。廊下に働き口が貼り出してあって、ベビーシッターが多いわ。あと、皿洗い、クリーナーかけなど。
今でも覚えているのは、ベトナム人の大学教授のところの赤ん坊の世話。だいたい1週間5,000円ぐらいもらうんだよね。そのときは、私の手つきが危なっかしいっていうんで、「悪いけど、もう終わりにしてもらえません?」って。だって赤ん坊なんて見たこともないじゃん。お風呂に入れるのも、こんなたらいの中で、人間は入らないで赤ん坊だけ洗うんだよね、ペットみたいで。おぼつかない私の手つき見て、不安だったんだろうね。悪いけどっていって辞めさせられた。
マダムにしてみれば、女の子を安く使えるからね。意地の悪いマダムもいたよ。トイレの水流しながら泣いたこともあるし、逆に、クリスマスにオペラ座へつれて行ってくれたすてきなマダムまで、本当にいろいろだった。
そうこうしつつ、少しずついいほうへ、ジャパニーズレストランとか(の仕事)に変わっていくわけ。パリは全10カ月だった。デンマーク、コペンハーゲンのロイヤルホテルは、SAS航空直系で、1年働いたら、飛行機のチケットを1割にしてくれるの。25万円ぐらいのところを2万5千円ぐらいで帰国したんだったと思う。
あの頃は、日本はこれから変わるっていう時やったんやろうな。ヨーロッパで会った外国のお友達とはそれっきりだけど、そこで実家のアドレス交換した日本人の友達とは長く続くわけよね。日本にいたら付き合えないような人と、外でなら日本人やっていうだけで友達になれるの。お風呂がないから入らせてもらいに行くとか、そんなことで何でも友達になれたの。
【帰国、上京】
帰国後、上京。劇団「天井桟敷」の電話番になったり、英語塾で教えたりした。
天野:1970年に日本に帰ってきて。
杉浦:帰ってきてずっと東京?
天野:そう。帰る前からおやじには手紙書いて、「私は帰国したらすぐ上京いたします」って言って。それで文句、言わせなかったの。だって、そうじゃないと「おまえ、どうするんだ」って言われる。おやじもおやじでつらいのよ。おやじの兄貴が偉いわけよ。「おまえ、いつまで娘をふらふらさせとんねや」って、おやじが怒られるわけ。おやじもつらいわけよ。そういうのも分かるんだよ、私。つらかっただろうなと思うわ、こんなおてんばな子ども持って。
杉浦:それで東京に行って、そこで、天井桟敷の受け付けを。
天野:そうそう。まずはユースホステルへ行って、旅行と一緒よ。市ヶ谷のユースホステルに泊まって、新聞を買ってきて、求人欄を見て、毎日そればっかりやってたの。それで、天井桟敷が事務員を求めてるっていうのがあって、ここだったら私を受け入れてくれそうだと。3万円だったわ、思い出した。
杉浦:月給?
天野:月給。それで、寺山修司のところで電話番しててね。奥さんの九條映子さんって、またすてきだったわ。九條さんもあれだけ下支えしても結局、名前が残るのは寺山修司だもんね。修司忌って俳句の忌日にもなってるよ。才能はあったんだろうね。それで、桟敷はね、半年で辞めたの。それから水商売に入って。
杉浦:辞めたのは何か理由があるんですか。
天野:給料が安いからと、慣れてきたのと、桟敷も好きじゃないし。
杉浦:好きじゃなかった。
天野:寺山修司も好きじゃない、ああいう前衛の芝居なら、私は唐十郎のほうがいいと思ってた。唐十郎のほうが本物だと思ってて、寺山さんはまやかしだと思った。それをごまかさないから、私、平気でそういうの出すから、九條さんにもものすごく憎まれた。田中未知っていう秘書が寺山修司とできてて、「時には母のない子のように」っていう歌は田中未知の作曲よ。そういう内輪も知ると面白くないのよね。だけど、寺山さんの才能は本物でした。芝居のほうはこけおどしだけど、言葉はすごい才能あるわ。私、今、俳句やってんの。それで分かる。
天野:半年で東京に慣れて、もう少し楽な、収入があるほうがいいと思って、思い切って水商売に入って、カウンターバーに入った。米津知子さんも誘ったら来てね。私と一緒にカウンターバーに入って。
杉浦:その時は(「ぐるーぷ・闘うおんな」の拠点があった)成増にも行ってた頃ですね。
天野:そう。「私、カウンターバーに行ってる」って言ったら、米津さんが「私もやってみたい」っていうんでやったんだろうね。私は上野の6帖のアパートに住んでいて、そこから成増へ数日行ってはアパートにもどってバッタンキューの日々だった。みんなは共同生活だったから、そこから水商売などに出かけて生活費を稼ぎながら、やれデモだ、旗を作らなきゃ、ミュージカルもやって楽しくやろう……でフル回転よ。『何でも見てやろう』っていう、そのとおりでしょう。自分も若かった。国もすごく動いていたのね。今ふり返ってみると。
天野:この写真は英語塾の先生。しょうがないから。
杉浦:東京でですか。
天野:そうそう。水商売もすれば、塾の先生もした。その時の同僚はオーストラリアでプロフェッサーになってるよ。

〈原宿の英語塾〉
【レスビアン・バー】
ヨーロッパで知り合った友人に同行を頼んでいよいよ六本木のレスビアン・バーにいってみたが、期待が大きすぎたようでがっかりして終わってしまった。ともかく宣伝が大事と、気心のしれたひとには女が好きなのでよろしくと吹聴してまわった。
天野:パリで知りあって今でも続いている友達に「恵美ちゃん、レスビアン・バーに行きたいんだけど、付いて来て。あんたと私だったらレスビアンに見えるから」って。私のことを「道美君」って呼ぶ人でね。『ヤングレディ』か何か、週刊誌持って行ったのよ。
こういうテーブルがあって、暗い、いわゆるバーと一緒だよね。ぽっちゃぽちゃに太った人が、宝塚のまねして、「いらっしゃいませ、何にしましょう」とか言うのよね。「じゃあ、ビールにする?」とか言って。私がたばこ吸おうとしたら、三つぞろえのポッケから、しゃーっとライター出して火付けてくれるのね。こっちは、これ、1杯いくらするんだろうとか思ってて、高そうなのよ。六本木で、しつらえはいいし。それで、それっきりよ。ばかみたいって。行ってはみたけど、レスビアン・バーでも相手は見つかりそうにない。
天野:私、若い頃はともかく寝る数を増やしてたのよ。数が少ないんだから、可能性のある人はみんなに当たってたの、あの頃は。自分の人の愛し方は、全然ミーハーなのよ。男が、きれいな姉ちゃん、よう姉ちゃんって言うのとおんなじ気持ち持ってるから、ものすごく後ろめたいの。今でも私は女の人とずっと連れ添う気は全くないのよ。ドラマが欲しいとか、自分探しだった。
【リブ(1972年5月)】
ジャーナリストの千葉敦子さんを姉のように慕って遊びに行っていて、ユダヤ系のアメリカ人と知り合って、強い女が大好きという彼が、ウーマンリブの集会があるから連れて行ってくれと頼まれて行ったのが最初。
■リブの集会に行ったきっかけ
杉浦:ウーマン・リブに初めて行ったのはいつですか。
天野:ラリー・トーブっていうアメリカ人に誘われて行ったのが最初のきっかけ。それまでは私、ノンポリだった。自分一人のことばっかりだった。ラリー・トーブには、千葉敦子さんのパーティで会った。その敦子さんには、アンジェラのパーティで会ったの。まぁいろいろあったなぁ。
「アンジェラ・カーターというイギリスの作家が来るよ、その人の出版パーティがあるから、作家だから、きっと女ともやるわよ」とか乗せられて、それで行った。パーティでは電車がなくなるまで粘って。楽しかったね、あの頃。千葉敦子というジャーナリストがアンジェラ・カーターに食らい付いて、何だかんだ言うて、英語で議論してはんねや。こっち全然分からへん。せやけど、パーティの最後までいたんよね。
それで、敦子さんが「じゃあ、うちに泊まりに来る?」とか言うて、そのまま敦子さんとこ行って。やはりパリで知り合って以来友達になった、年上の横浜の由美さんと2人で敦子さんとこへ転がり込んで、夜明けまでしゃべった。敦子さんにもその後ずっとお付き合い願ったのね。敦子さんが「道美ちゃんはお金がないから労働を出しなさい」っていうんで、パーティがあったら、私が洗い物の係。敦子さんはそういうこと、きちっとする、西洋的な文化の人やね。私はそういうすてきなお姉さんの下働きをしてるとしあわせだったの。
ラリー・トーブっていう男は大きな、むくつけしい男でね。あっちのほうから私にこうしてウインクするのよ。それでラリーと「We are brothers」って言って仲良うなって。でっかい男のくせに、ものすごくくにゃくにゃするの。変なやつなの。でも、仲良くなって、聞いたら、ハーバード出て、7カ国語できる人。敦子さんに言わせたら、「ラリーは駄目。インド行ってからめちゃくちゃレイジーになって、何にも仕事が一緒にできなくなった」って。「何月何日にこうしようね」って言ってるのに全部できないんだって。
でも、ラリーは日本を気に入ったから、英語の教師、有名な英語の学校、ベルリッツやったかな、あそこで(働いて)日本でくらしてたの。4畳半でぼろぼろの所でね。そんな人だったの。そのラリーが「道美、今度、ウーマン・リブの大きな大会がある。それは、男の人は女の人に連れていってもらわな入れない集会だ」と。だから、リブを知ったのはラリーのニュースなのよ。私はその時、全然ノンポリだったの。私は1人で、物書きになりたいけど何しよう、絵描きになりたいけど何しよう、どないしたらええねやろうって。それで頭いっぱい。
アンジェラ・カーター。イギリスの作家。アンジェラ・カーターの出版記念会に行くコネがあるので、「いっしょに行こう。個性的な人だから女とも寝るかもよ」と、そそのかされるのに乗って行って、「寝てください」と申し込んで「オ、オーノーー!」と気の毒そうに断られたり、、、もした。
天野:横浜の由美さんは2つも大学、出とんねん。あの頃で2つも。私の年でも女で4年制行くのは少なかったけど、(私より)2つもお姉さんでよ。ええとこのお嬢さんやったんよね。それで「道美ちゃん、行かない? 私1人じゃ嫌だから行こうよ」っていって連れてもらって行って。それでアンジェラ・カーターにも「Will you make love with me?」とか言うて、「Oh, no」。「寝てもらえませんか」言うたんよ。何でも当たってみようと思ったの、私は。クマみたいに大きな女の人で、この人、イエス言うたら、どないしたらええねんやろうって。
ともかく若い時は猪突猛進よ。「寝てもらえませんか」言うたら、アンジェラはアンジェラで「Oh, no」と戸惑っていた。せやけど、さげすんだ感じじゃなくて、さすがに物書きやから気の毒そうな顔するね。こっちもほっとしてんね。「分かりました、じゃあ、あなたが日本を出る時のさよならパーティには呼んでくださいね」って言うたら、ちゃんと呼んでくれるの。そこで、オーストラリアの女の子と出会ったり、いろいろしたんよね。
■ぐるーぷ・闘うおんな
美津さんも「カリドのあざや痛みとこそ出会う」ようにという発想で、ピントがあいませんでした。もともと、美津さんの「いのちの女たちへ」を英語にして出そうというプランで、その使い走りをしているうちに「あなた、ちっとも大卒らしくなくていいわ。翻訳などやめてうちおいでよ」といういきがかりだったのです。しかし、「こいつは、やっぱり世間側の人間だ」と判明したのか、「あんたはあたしのミスキャストだったわ」という一言で、ある日別れを宣言された。成増にあったコレクティブから泣いておん出たのでした。今ではそういう激しいやりあいも、すべて私の財産だと思ってます。
マスコミには「アメリカの真似だ」とかいろいろ言われてきて、自分たちの中にも色々あって、整理できてないけれど、ただひとつ、皆が暗黙の裡に「これだけは」と思ってきたのは、女同士のいさかいを「外」には見せまい!ということだったと思うのです。女のいがみあいほど男社会がよだれを流して喜ぶものはないからです。
天野:横浜のお姉さん(由美さん)が「美津さんの本を、ラリーもいるんだから英語にして、出版できるようにしよう」っていうことになった。それで、「道美ちゃん、あんた、ちょっと行ってきなさい」とか言うて、私、嬉々として使いっ走りになるわけ。私が美津さんに電話したり。
今でも覚えてる。新宿のプリンスやったか何かで、初めて美津さんに会った。インタビューして、こうこうこうであなたの本を英語に訳させてもらえませんかっていう話をしても、美津さんは、なんかはっきりしないの。こいつは外の人間か内側に入れる人間かっていうのを見るのよ。「うーん、そうですね」とかいう感じでね。何回も使い走りに行ってるうちに、こういう人間が自分のグループにもいるほうが便利だってなってね。それで、「あんた、そんな翻訳なんてことやめて、うちへ来ない?」って言うのよ。「ぐるーぷ・闘うおんな」は、『この道ひとすじ』っていうレターを出してたのね。それの編集やらないかっていうんでやるようになって。その頃、拠点が成増にあったのね。遠いとこよ。リブセンはまだなかったと思う。だって私、リブセン、あんまり知らないのよ。
天野:私はもう79歳で、ごちゃごちゃになってごめんなさいね。上野の6畳のアパートに暮らしながら、マッサージ師で食べてたの。自由だから水商売もやったよね。それで、成増へ出かけて2、3日泊まって、頭がおかしくなるわけよ。それでふらふらになって自分のアパートへ帰ってきてバタンキューって寝て。そんな感じだったの。
杉浦:じゃあ、『この道ひとすじ』の編集のために成増に行って。
天野:そうそう。美津さんはまず、その役割を私に振ったのよね。それで、私は物書くの好きだから、書いて出すでしょう。でも、何だかんだ言ってなかなかOKくれないの。その辺りからややこしくなって、面倒くさいなって思って。私は、「普通の人はこういう時はこういうふうに書くんだろう」っていうのを、ささささっとまとめて、「できました」って言ったら「違う」って言うのよね。
杉浦:どんなことを書いてたんですか。
天野:私、何書いたんだろう。何にも覚えてへん。イラストは覚えてるな。
杉浦:絵も描かれるんですよね。
天野:うん。あなた、 『この道ひとすじ』見たことある?
杉浦:『この道ひとすじ』は、復刻版を持ってます。
天野:ガリ版やった。私、何か書いてるけど、でも、採用されなかった感じかな。ともかく私はおしゃべりで、出かけていっては、みんなでおしゃべりして、それで、仲良くなったのはサチ。サチっていう子、知ってる?
杉浦:はい。
天野:アリは?
杉浦:わからないです。
天野:アリは孕んでおなかが大きくなって、それで「あんた、もちろん未婚で産むんだよね」って言われて、それができなかったか何かで消えちゃったわけ。ともかくあの人たちは真剣だった。私なんかは遊び半分だった。というか、まだ自分探し中で、あれか、これか、あれでもないしこれでもないで悠長にかまえていたけど、美津さんはほんとに革命起こすつもりだったんだよね。国を転覆するつもりなんだろうね。私はそんな気、全然ないわ、分からん。私は隙間をちょこまか縫って、ドラマチックなことがあればうれしかったの。
杉浦:成増で活動してた時に、自分が女性を好きだということは周りに?
天野:私はいつも、べらべらしゃべってるのよね。しゃべりやすいのはサチとかだったんだね。それから、ココっていうのがいて、それが上智、出てたの。私はコウだったと思う、私も源氏名。
杉浦:(源氏名)が、あったんですね。
天野:コウにしますとかいうて、自分でも覚えてないんだよね。ともかく本名は使わないっていう感じだった。誰も知らないわけ。それは警察に捕まった時のためなのよね。それが活動家といわれる人たちの普通なのよ。みんな付けてるから。
天野:その時はわからなかったけど、美津さんはものすごいものを背負ってたんやと思うのね。永田洋子さんを同類と感じるほどの、革命を起こすっていうようなところまで行った人なのよ。こっちはノンポリで、何かないかな、面白いこと何かないかなで、いつか小説にできたらいいなとか、そんな調子なのよ。だから、私はリブの中では異質だと思うね。
杉浦:周りに自分は女性が好きだと言ってた時の周りの反応はどんな感じでしたか。美津さんの反応とか。
天野:私の印象ではそれどころじゃなかったかんじ。国を転覆させるつもりなんだから、それどこじゃないんだと思うの。金の工面もいるでしょう。マスコミ対策もいるでしょう。美津さんは私が来て、みんなと仲良くちゃらちゃらすると、革命を起こすっていうのがなくなる、楽しくなり過ぎて。それで、私、追い出されたんだと思う。
杉浦:追い出された?
天野:うん。私はべたーっと座り込んで、「あのね、これでね、あそこ行ったらね」って言って、すごく雑談が好きなのよね。ところが、そこへ美津さんが帰ってくるの。そしたら、ぎらっとにらんで、何をワイワイ楽しく過ごしてんのっていう感じなの。こわとか思って。それで私、じゃあ、ちょっと自分のアパートに帰りますっていうんで、アパートに帰ってきて、疲れたと思って、そんなのの繰り返し。
天野:今回のこういう話がなかったら、ウーマン・リブの中での同性愛なんてまとめる気、全然なかったもん。そんなのどうってこと、大したことないのよ、同性愛の問題なんて。それよりもあの頃はまだ女の給料はいくらで、離婚したら子ども取られてっていうのがいっぱいあったわけでしょう、女性の問題がね。そういうのがいっぱいある中で、女同士が好きだとか、いちゃついてるとかっていうので、どうってことなかったんじゃないかしら。
ただ、美津さんは、同性愛も傷に違いないと、みんな深く傷ついたに違いないっていう前提で話が進むから、私はいつも浮いてた。私なんか、全くそうじゃない人にちょっかいばっかり出してて、振られてばっかりいたけど、それでもしあわせだった。傷、痛み、ばっかりの美津さんとはピントが合わないかんじ。
杉浦:リブセンにはあんまり行ってらっしゃらなかったってことですね。
天野:そうだよ。だって成増で追い出されてるんだもんね。(でも)京大の大学祭で、田中美津、呼んだりすることがあるのよね。ああいう時に、彼女が呼ばれて来たりして、再会したりすることはあるよね。
それから、ギャラリー「ヒルゲート京都」っていうのがあって、私の個展もした所。あそこで美津さんのトークショーをしたこともあった。ヒルゲートの人見ジュン子が『女・エロス』のメンバーだから、人見ジュン子が美津さんを呼んだ。誰か1人、そういうマネジャー、世話焼きがいると、そういうことができるわけよね。私はそういう世話焼きでもないわけ。それで美津さんとヒルゲートで、ほんと何十年ぶりかで会った時に私、「天野です。お久しぶりです」って、ぎゅっと握手した。美津さんのほうが引いてたかんじ。
トータルに考えたら、あれだけの人と出会ったの、大きいからね。好きとか嫌いじゃなくて、存在だね。ぎらって何とも言えない目なの。すっと立つと、こんなちっちゃいの。ものすごくちっちゃい。145センチか146センチじゃない? でも座ってしゃべってると、ものすごく大きな人に見える。ああいう人はもういないでしょうね。オーラっていうの、こういうことだと思う。
だから、美津さんも孤独だったのね。われわれ子分は全然思いどおりの闘いをしないのよね、きっとね。それで、いつもいらいら。
美津さんも、自分は矛盾だらけの人間だからって言ってるとおりに男がものすごく好き。私の母親とおんなじ。男が来ると全然、体が変わる。美津さんファンの男性のジャーナリスト、結構いるんだよ。このあいだ亡くなったけど、お葬式、彼らもちゃんと行ったんじゃないかしら。
■赤い六月 1972年11月頃~
天野:「赤い六月」は、あの頃、ほんとにしょっちゅう女の集会があって、その中で小沢遼子が「中年リブやろう」「この指止まれ」って言ったのよ。大柄ないい女だなと思って入ったの。入ったけど、小沢さんはあまり来ず、われわれでぐちゃぐちゃやってたの。4、5人で。そのうち、うやむやになっちゃった。だから、そういうグループはいっぱいあの頃できてて、名前も知らないのが数え知れないんじゃない?
中ピ連はあの頃、いちばん目立ってたよね。榎美沙子さんはかなりやり手だわっていうことはみんな分かって、でも、私らとは運動の仕方も何もかも違うねっていうことを、言わなくてもみんなが感じてた。ピンクヘルメットで、マスコミ受けで派手でしょう。京大出の亭主がバックに付いててね。
美津さんのやり方は、手作りの、地べたを這うタイプ。美津さんはキャッチコピーの仕事してたらしいのね。だから、言葉はうまい。言葉のセンスはすごくよかったね。「生きざま」「子育て」「子殺し」、皆、美津さんが創った、というか広めたの。「夜の暗闇の中むしろ旗掲げてひた走る!」って言うんだよね。79歳の今でも言えるぐらい。そういう文章を私は書けないから、美津さんにはじかれたんだよ。
杉浦:私が天野さんに興味を持ったのは『女・エロス』に書かれていたニューヨーク滞在記です、「洋の東西」。
天野:「おんな解放――洋の東西をまず問えば」、そう、それで。
杉浦:それで天野さんのことを知って。
天野:なるほど。
杉浦:天野さんがそこで「自分は日本のリブでレズビアニズムをやるつもりはない」って。
天野:書いてた?
杉浦:書いてあって。実際、日本のリブでレズビアンの問題って、ほとんど取り上げられてないんです。だから、どういう状況だったのかなっていうのに興味があって。
天野:もうレズビアンどころじゃなかった。K子さん問題とかあったのよ。子どもを男のほうに取られたK子さんを、弁護士と女たちが支えて、策を練った。わが子をK子さんがぱっと抱きかかえたその瞬間に彼女のものになるっていうふうにしようと、すごい頑張って策を練ったこともある。それがK子さん問題。男に取られた子どもを自分に取り返すにはそれしかない。実力行使するしかないような時代だったの。今でも覚えてる。
いかにも高度経済成長の時代らしいキーセン問題。キーセン観光っていうのがあって、日本の男が徒党を組んで韓国へ。キーセンは芸者のこと。胸に3番なら3番ってバッジして、3番の人と相手になるわけ。買春しに行くの。旅行社がそういうツアーを組んでものすごい群れを成して韓国へ行く。「赤い六月」もやった運動なの。飛行場で「キーセン観光反対!」っていうのをデモして、ビラを書いてまいたり。
ルームメートが警察に捕まっちゃってね。返してもらいに行ったりね。そんなことしてたの。キーセン観光反対運動。優生保護法改悪阻止運動も全国で何十何百ってグループが一緒になって。熱心じゃない私でさえ今これだけ出るんだからね。女同士の共同生活もざらで、セックスしてたかしてないか、わからんよ。気にしてなかったんじゃない。私は「日本で唯一のオープンレズビアンです」って自己紹介してた。長いあいだ自分一人だけと思ってた。
また、話が飛び飛びでごめんね。「ノーパンしゃぶしゃぶ」って言葉、知ってるでしょう。大蔵省のエリート官僚がこぞってそういうところでどんちゃん騒ぎ。このスキャンダルで大蔵省つぶれて財務省になったんよ。セクハラなんて言葉もある今日からは想像もできないでしょうね。
【渡米(1974年)】
「赤い六月」というグループが嫌になってきて、格好つけて逃げるためにまた外国に行ったのです(ニューヨーク半年)。日本レストランの女給をしながら、大柄で恰好もよく、弁もたつ小沢遼子さんのお先棒をかついで彼女をミズマガジンや、ジャパンハウスに売り込んだりしました。
小沢遼子さんをニューヨーク・タイムズ日曜版に「New Japanese Woman」という特集記事にしてもらうことにも成功したのでした。たぶん1974年ごろ。
そうそう、アン・シケットのことはかきましたよね。ニューヨークで泊めてもらったレズビアン。若い恋人を持っていた。アンの部屋にカメラマンの松本路子さんと中ピ連の河野たまきさんと三人で転がり込んでいたのだった。アンは若い河野さんを気に入って狙っていた……。
中ピ連のメンバーだった人がヨーコさんのアドレスを持っていて、カメラマンの松本さんも一緒にコンタクトをとり、計四回会うことができました(女・エロス7号参照)。
松本さんと組んでミズマガジンに乗り込んだこともあった。その時ちらっとあのグロリア・スタイネムを見かけました。奥の方でデスクに座っていて、すてきだった。
アメリカではラディカルリブというとイコール、レズビアンだった。ウーマン・ダンスの集いが方々で催されていて、オッパイむき出しで、飲んで踊って、すぐに寝ようと誘ってくる。寝てから考えればいいのか。ここでも私は自分が求めているものは何なのかと自問ばかりだった。アンが、合気道の修行のため数か月東京に来た時には、私が新宿に彼女のアパートを世話した。
■ニューヨークでの活動
杉浦:ニューヨークはどうして行かれたんですか。
天野:「赤い六月」がいやになってきてね。毎晩、顔付き合わせて、優生保護法がどうのとか、プラカード作るだの、旗を作るだので。「赤い六月」の事務所、自分たちのすみかでやってたの。私と茂木さんっていう子、レズビアンじゃないよ、2人で2DKを借りて、そこを「赤い六月」の事務所にしてたのね。そこに毎週、何曜日の夜とかに集まって、ああだこうだって言うわけよ。がみがみ、「優生保護法、通っちゃっていいの?」とかいって。私、男と寝ないんだから関係ないんだよね。身につまされてないわけよ。でも、身につまされてる人たちは必死なわけよ。あんた熱心じゃない、ちゃらんぽらんだとか言われて。
活動から抜けるって言いにくいのよ。「ちょっとアメリカのリブ、見てくるわ」とか言って、それでアメリカへ。その時、付き合ってた女の人がいて、その人ともうまくいかなくて。私はやっぱりすぐ逃げる人。ほとぼりがさめるまで、ニューヨークには半年いたかな。
杉浦:それは誰かを頼って行ったんですか。
天野:ラリーの女のいとこがニューヨークにいるっていうので行ったの。
杉浦:その女の人がフェミニストだったんですか。
天野:そうだと思う。レズビアンだと思う。ただ、ラリーのいとこを頼って行ったわけではなくて。私、ヨーロッパの旅で自信つけてたから。行ったら何とかなるわさってなもんで。行ってから、私が小沢(遼子)さん呼んだり、松本(路子)さんに連絡したりしたんじゃなかったかな。せっかくいるんだから、ええ格好しようと思って活動もやったのよ。
杉浦:ニューヨークの時の話なんですけど、ミズマガジンとか、ジャパンハウスへ売り込んで、グロリア・スタイネムも見かけたとかいうことがメールに書いてあったんですけど、これはどんな話ですか。
天野:日本と関係するからジャパンハウスに行くじゃない。あの小沢遼子がニューヨークに来るから、大物だから、何かやってくれって、私、ジャパンハウスの女の人と仲良くなって、コーディネートしたんだと思うのよね。その時、その人の手握ってものすごく怒られて。そういうこともあるわけよ。ものすごい顔してにらまれた。すごくすてきな人で白いスラックスにブレザー着てかっこよかった。その人がジャパンハウスのマネジメントしてたから、その人と仲良くなりたいのか、小沢遼子を売り込みたいのか、どっちがどっちだか分かんないぐらいよ。
小沢さんもすてきよ。身長が百六十何センチかあるんじゃない。ベ平連から出て来た人よね。ものすごく押し出しもいいし、話もうまいし、頭もいいし、なかなかかっこよかった。でも今はどこで何してるのか、もうわからない。
杉浦:じゃあ、小沢さんを売り込みに行ってたんですね。
天野:行ってた。それで、たくさんの紳士淑女がジャパンハウスに集まってくれて、ドレス着た小沢さんもかっこよかった。小沢さんは小沢さんで、帰ってから文芸誌にちゃんと小説まで書いてんの。『ニューヨークの夜』とかいう小説。
天野:ニューヨークでいろいろできたのは、ヨーロッパの1人旅(の経験)が大きかったよね。ニューヨークは簡単だったから、半年で見るもの見たなと思って帰ってきちゃった。
杉浦:ニューヨークだけですか。ずっとニューヨークですか、半年間。
天野:そう、アメリカはね。もう見たわ、もういいわって思った。厳密にいうと、帰国する前に右半分、グレーハウンドバスでさっと一応まわった。セントルイスが印象あっただけ。だからロスのある左半分は行ってない。やっぱり文化が浅い感じがする。ヨーロッパは、1年10カ月頑張って、生活も苦しかったけど、頑張ったのよ。つるつる滑る壁に爪立てて引っかいてるっていう感じで入り込めなかった。それに比べるとアメリカなんか、とんとんと「ピアノバー・エド」のマコちゃんにまでなった!!「私、ホステスやるから、何かドレス貸して」ってこの人に言ったのよ。
杉浦:キャサリンですね。
天野:うん。それで、キャサリンが「どれにする?」とか言って見繕ってくれて、ロングスカートを借りてウェスト10センチ以上たくし上げて使ったよ。食うのは楽だったよ、ヨーロッパに比べて。だから、私、一生懸命、がむしゃらにかぶりつくほうが好きなんだろうね。
杉浦:キャサリンさんっていうのはどういう人なんですか。
天野:キャサリンは、パーティの写真もたくさんあるでしょう。セントラルパークで一緒に撮ったのあるし。これ、河野たまき。これ、キャサリン。これ、私。これがキャロル。きれいな子。
キャサリンはレイプされて、それで、強くなるっていうんで空手を始めたわけ。これがボーイフレンドの日本人の空手家。
これがラリーのいとこ。この子、知らない。この子も、この人もあんまりよく覚えてない。これ、アン・シケット。アン・シケットは合気道を教えられるほどの人で、ウーマン・リブの若い子、集めて、自己防衛のクラスを1回2ドルで教えてたの。それで、私、2ドル払って習ったの、アンに。こう投げられたらこう転べとかいうのを、みんな向こうで覚えたのね。そういう教室がいっぱいあった。部屋でマット敷いて転ぶ役とかやってた。私もすることないから、出会いだから行ってたのよ。
これらの写真は、「私もう日本、帰ります」っていうんで、私が主催したさよならパーティの写真。私、えばってるでしょう。飲み物作って、パーティに招待する人のリスト作ってよぶのよ。食べものも出したけどもう覚えてないな。

〈キャサリンとセントラルパークへ 1974年8月〉
(裏:何だかずい分元気そうな顔をしていて自分でもおかしいぐらいです。とてもまいっていたはずだけど)

〈1974年 ニューヨークで世話になったリブの仲間を皆よんでさよならパーティ〉
杉浦:向こうのリブの冊子に載ったりしてましたけども、天野さん。ミニコミ誌みたいな。天野さんの資料にありましたね。
天野:ルーシー・ルーの?
杉浦:あれがルーシー・ルーさんのですかね。『the second wave』っていうミニコミ。
天野:ルーシーが道美にインタビューするみたいなやつね。私、宝塚や歌舞伎の話出して力説したんだけどね。文化の違いすごく感じた。ルーシーも苦労してたね。向こうで正式な就職するのは難しいそうね。何年も何年も試験受けて、正式な就職ができなくて、アルバイトでずっと生きてたんだね。
杉浦:移民ですか、ルーシーさん。
天野:台湾だったかな、何で知ったのかしら、もう記憶がごちゃごちゃよ。ルーシー・ルーとはあれっきり。そういうの(ミニコミ)がいっぱい売ってたから、本もいっぱい出てたし。

〈『the second wave』に掲載されたインタビュー記事〉
■オノ・ヨーコ
杉浦:ニューヨークで魔女コンサートのためにオノ・ヨーコさんの所に行ったお話がありましたけど、あれはどういう。
天野:あれもメールに書いたと思うけど、河野たまきとどこで知り合ったのかがほんとに思い出せない。松本路子さんはカメラマンだから、集会にしょっちゅう来てた。ウーマン・リブのカメラマンといえば彼女だったから、知ってたのね。小沢遼子さんは、私は「赤い六月」で一緒で、「小沢さん、私、今、ニューヨークにいるから来ない?」とか言って来たんだろうと思うのよ。松本路子さんも小沢さんが連れてきたんだか、オノ・ヨーコの写真撮りたいから、松本さんも来たのよ。アン・シケットのお部屋に居候になったの。そこになぜか河野たまきがいて。
アン・シケットは合気道のことで日本に何回も行ってるから、何段か持つぐらいの人なのよ。それで、レズビアンだし、たまきさんにすぐ興味をもって。私にたまきさんを仲介しろみたいなこと言うんだよね。うやむやに流しちゃった。
たまきさんは中ピ連で、オノ・ヨーコの住所を持ってたの。それは中ピ連の榎さんの力じゃないかしら。まだ20歳そこそこの子なんだよね、河野たまきさんはね。「あんた、あんなピルだけで女解放ができると思ってるの?」と私、言ったんだけど、榎さんを尊敬してるみたいなこと言ってた。上智だったか何かだったよね。たまきさんとはあれっきりだな。
杉浦:河野たまきさんと一緒にオノ・ヨーコさんの所に行ったんですか。
天野:そうじゃなくて「私、(住所を)持ってる」って彼女が言ったのか、「本当?」となって……。
小沢遼子が来る前に、私、先に会ってる。計4回、会ってるんだから。誰がヨーコさんに連絡したんだったかな。ともかく住所は中ピ連の河野たまきが持っていた。
杉浦:魔女コンサートのためにメッセージが欲しいっていうことを。
天野:口実にしたの。そうだよ。オノ・ヨーコが来日するっていう頃だったの。それで、ついでに魔女コンサートに出てくれませんかって言いに行ったのよ。ヨーコさんはすぐ会ってくれたよ。あの人、いつも日本人に会いたがっていた。「ダコタハウス」って有名で、すごいマンションだった。あの頃もう別居してたから1人だったのね。
そこで、ずるいことしちゃったの。ヨーコさんがピアノを弾いてるのをテープレコーダーでとらせてもらって、「もう終わったから切りなさい」って言われてるのに、切らないで流して、おしゃべりをとり続けて。あの人、するどいね。こいつ、ずるい子だって分かったみたい。それで、私が猫ばばしたみたいに勘繰られたのね。ほんとにテープはちゃんと郵送したんだから。郵送したけども、どこやら行っちゃったのよね。そういうこといっぱいあった。
私、4回、ヨーコさんと会うことができたのね。2回目は、「小沢遼子っていう人が日本から来るので会いませんか」って言って、そういう口実だね。口実ができると連絡して、小沢さんもそれほど乗り気じゃなかったんだけど、ともかく行って。松本さんは写真撮りたいからものすごい乗り気なわけよ。誰か積極的な人がいるとつられてやるよね。それで3回目。
4回目は、「『天野さん、ちっとも来ないわね』って言ってたよ」って言われたの。それで、黙って帰るわけにいかないなと思って、さようならを言うために行ったのかな。会うことはできても、しんどくなる、2度、3度、会うのは。深く知るにつれて重くなる。私とヨーコさんは、やっぱり通り過ぎる人間同士だったね。
天野:『女・エロス』にヨーコ論を書いて、ヨーコさんに「私、オノ・ヨーコ論、書きました」っていって、ヨーコさんに送って、「どうでしたか」って電話したら、ガチャンって切られたの、ヨーコさんに。ヨーコさんは私のヨーコ論は嫌だったのね。
私は、「黄色人種は白人と声と合わせたりしてはいけなかったんだ」っていうのを反語として書いたんだけど、ヨーコさんはそのまま取ったんじゃないかしら。ジョン・レノンのことで、ヨーコさんはすごく世界中から中傷されたのね。中傷されて傷ついて、私もそういう人間だろうと思われちゃったのかもしれないんだけど、私は反語として、レトリックとして書いたんだけど、ヨーコさんはそうは取ってくれなくて。他の人が書いたヨーコ論にはないヨーコ論を書いたつもりだったの。そしたら、ヨーコさんは「天野です」って言った瞬間にガチャンって電話を切った。それで、私、もう言葉を書くのこわくなって、絵に転向したのよ。
私も、ほんとにさまよう人なのよ。絵も、絵描きになるほどの根性もなかったっていうのが結局分かった。自分の限界を認めるの大変よ。もう消えてなくなりたい!って思って苦しんだ。認めるのに3、4年かかったよ。
【『女・エロス』編集委員(1974年)】
創立メンバーの一人の船本恵美が、別のグループ(「赤い六月」)にいた私に「これあなた、訳しなよ」と、捨てられかけていた、レズビアンの章を持ってきたのではなかったかと記憶してます(『Our Bodies, Ourselves』の翻訳)。 世代や環境、志向などが似ているものどうし5人が10万円ずつ出し合って 女・エロスが産まれたのでした。佐伯洋子さん、吉清一江さん、船本恵美さん、三木草子さんと大谷純子さん(故人)。吉清さんの岡大の男友達だった人にその50万を渡して、彼らがやっていた社会評論社から出版。何十年も後にお金が返ってきたものです。

〈197?『女・エロス』編集会議(吉清宅)〉
天野:(写真をみながら)いいやろう。懐かしいわ。これ、この頃だからね。
呉:『女・エロス』編集委員、1978(写真の裏書き)。
天野:子持ちで。だいたいそういう感じなのよ。その時の、その頃の感じが分かると思うから。
杉浦:天野さん、こちらですか。
天野:そうそう。これ、三木草子、佐伯洋子、佐伯洋子の娘、吉清一江さんの娘。これが故人で大谷純子さん。舟本さんがいないのかな。天野、入沢愛子。2人は後から入ってるね。溝口明代さんはのぞきに来てた。こういう感じでやってたわけ。これ(写真)はカメラマンになりたいっていう子がいて、いっぱい撮ってくれたの、これ全部。
杉浦:『女・エロス』は誰から誘われたんですか。
天野:それは、舟本さんに誘われた。舟本さんと私、何で知ってたんやろう。『女・エロス』は自分が辞める時に誰かを入れて、交代で辞めるのが習わしみたいな感じね。だから、舟本さん、他のことしたいからっていうんで私を入れたんじゃない? 私は入沢さんをスカウトして、入沢さんの代わりに辞めたんじゃない?
杉浦:これ(写真に写っているところ)はどこですか。
天野:これ全部、吉清さんのうち。都営住宅。入沢さん、私でしょう。これ、大谷純子。それで、溝口明代。
杉浦:かなり早くから。第2号(1974)にもう翻訳を載せてらっしゃる。
天野:レズビアンのあれ? 『Our Bodies, Ourselves』のね。
そうそう。こっちの別の写真が舟本さんの同人誌。それで知り合ったのかな。舟本さんのアパートで、舟本さんの同人誌で『ファイヤー』っていう同人誌。
天野:あ、分かった。リブで私があんまり出てないのはこういうことがあったからよ。それはね、『女・エロス』に入って、どこかにインタビュー申し込んだ時、「『女・エロス』の編集委員の天野と申しますが」って言ったら、「はいはい」って通るじゃない。それが嫌だったの。つまり私は、いずれは作家になるんだと、作家になるはずの自分がウーマン・リブっていう一色にされたくない。レズビアンっていう一色でくくるよね。くくられたくないっていう。私、自分が大物になるつもりでいたんだろうと思う。
「『女・エロス』の編集委員です」って言うだけで大手を振って歩けるわけよね。もうリブも70年代後半にはそんなになったわけ。ウーマン・リブっていうと、汚らしいって思われてた頃のほうが私は好きなのよ、きっと。黎明期っていうのがあるでしょう。何事もそうだと思うんだけど、一番いいのは黎明期だと思う。今、この年になると思うけど、1980年代、1970年代ってほんとに、日本のピークだったかもしれないね。経済と文化、両面で、清と濁、両面で。

〈1978 「女・エロス」10号記念集会〉
天野:(写真をみながら)これ、集会で司会をやってるの。裏に書いてある。
杉浦:1978年、『女・エロス』10号の記念集会。天野さん、いつぐらいまで『女・エロス』に関わってました? 最後までいらっしゃいました?
天野:『女・エロス』が長く続いたのは、みんな優しいし、年上のお姉さんばっかりで、居心地がいいのよね。編集で実働するのは毎号5人ぐらいで、あとあとも出入りできたし、引っ張り出されもした。全17号も続いて、私より若いメンバーたちは知らない人もたくさんだけど、今でも続いてる人、何人もいるよ。
【20代の頃】
■1960年代後半、中絶の状況
天野:ボーヴォワールなんかも、ずっと後になって、中絶体験を告白してるのね。それはサルトルの小説に書いてあるから分かるのよ、分かる人にはね。国境を越えて、闇の医者の所へ行って中絶を受けたっていうのを、それもフランスのウーマン・リブの運動で嫌々認めたの。あの頃に認めたの。1970年代よ。だから、ボーヴォワールは「私はこの自伝で何もかも述べるわけではありません」ってまえがきに書いている。中絶のことは隠してるって言ってたんだなって思った。それぐらいに西洋っていうのは中絶に厳しかったのね。闇であんなの受けたら、死ぬかもしれないでしょう。
その点、日本は口実は駄目だけども、口実はうそにしても、中絶のオペはプロの医者がちゃんとしたのよ。だから、中絶の手術で死ぬなんてことは私たちの世代では考えてなかったよね。たとえば友達が「ちょっとあんた、ここにサインしてくれへん?」って言って、中絶のサイン、私が男の代わりにサインしたこともあったの。その子、セックスのあと「ちょっと待っててね」って、トントントンって飛んで落とすっていって飛んでるって言ってた。それが私、20歳の頃かな。
アルバイト仲間の女が「道美さん、私のこと好きなんやろう」とか勝手に思い込んでね。私、別に思ってないけど、ちょっとカルメンみたいな女の子だったの。それぐらい私、女が好きだっていうのはまわりに言ってたんだね。「私はあんたが好きなわけやないよ」。「そしたら、ここにサインして」って言うんで、男の代わりに中絶のサインしたことある。それぐらいなあなあだったのよね。医者もサインが適当なものだって分かってるわけよ。でもそれ以上問い詰めたりしない。そういうのが私らの世代だったんだね。
ちなみに私は20歳の時に初体験はしておいたの。文学で、小説読んでいて、下半身で何がどうなってるのかわからないの、いやだもの。
■1970年代、テレビ出演
天野:レズビアンとしてテレビに出たこともあったよ。私、東京で自由にやってた。そしたら京都から兄貴が電話で怒鳴ってきた。「おまえ何してんのや!」いうて。東京で自由にのびのびやってる本人と、クニモトの係累とのギャップの問題だね。いろんな写真で色眼鏡(サングラス)かけてるのは、マスコミで運動は広めたいけど、クニモトなどに知られるのはまずいってことで、苦肉の策だったわけね。
テレビには「赤い六月」の宣伝でも出たことあったわ。まるでお店の宣伝みたいなかんじだった。はい次、はい次って。ひと組一分とかで。
■29歳、卵を孵すか悩む
天野:29の時に、このまま卵流したらもったいないかな、卵かえしたほうがいいかなってちょっとふっと思うのよ。せっかく卵持ってるんだから。29の時に悩んだの。これがもう最後だもんね、29で。その時に硬派と軟派と2種類の友達がいたの、男友達が。軟派も硬派もやっぱりヨーロッパで知り合ってるの。そういう男だったら、くっついたら2人で世界放浪したらいいわけじゃない。私だって男友達ぐらいいるわよっていうんで見せてやったのよ、私の生母に。そしたら、私の母親がその男にほれちゃったの。すごいでしょう。私、京大生のボーイフレンドいたのよ。
天野: AさんにしようかBさんにしようか、夏休みの間だけは子ども、面倒見てくれるかしらとか、ものすごく計算してるの。でも、1人はカイロで地震に遭って死んじゃったの。「アマちょん、大変やで。Aさん死なはったわ。あんた、今、テレビ、ニュースで言うてるわ」いうて友達から電話。
杉浦:カイロ? エジプトの?
天野:そうなの。カイロで。Bさんも、シルクロードを地続きで辿って来てるつわもので、話も面白い男だったね。そのうちに女の人に狂って、子どもの話、どこかに飛んじゃった。産まなくてよかったと思う。子どもが迷惑だよね。狂った時にはストーカーみたいにまでなった。
私が言いたいのは、それぐらいに、私は男から加害に遭って同性愛者になったんじゃないっていうことを力説したいわけよ。仕方がなくて、男の代わりに同性で間に合わせてるっていうのは、ものすごく私は嫌なの。
【交流のあった人たち】
■千葉敦子さん
千葉敦子。大物が好きな私は、敦子さんにもプロポーズした。「うーーん。」と首を傾げて、「あなた、一度寝ると、執着するでしょう」とずばり当てられた。「あたしは、寝る時はとことん楽しみたいし、相手にも楽しんでもらいたいの」とのことで、「じゃ、友情でお願いします」とすんなり引き下がって、以来乳がんで亡くなるまで交流を続けました。
杉浦:千葉敦子さんと交流があったって書いてましたけど。
天野:敦子さんは立派な人でしたね。横浜の由美さんっていう、ヨーロッパで知り合った年上のお姉さんと、アンジェラ・カーターのパーティに行って、そこで千葉敦子という人と知り合ったの。それで、彼女の家に泊めてもらって、一晩、レズビアンの話をして仲良くなった。
天野:最後はニューヨークに行って。人としゃべってる最中に事切れたの。すごい人。『乳ガンなんかに敗けられない』っていう本は知ってる? 千葉敦子っていうと、乳ガンのジャーナリストになっちゃってるけど、経済専門なのよ。
杉浦:じゃあ、その後、千葉さんとはずっと関係が続いたんですね。
天野:そうそう。私が銀座のサウナで(マッサージ師として)働いてるところに電話が来てね。そのシーンだけ、ばーっと映画のように浮かぶのよ。「道美ちゃん、ちょっと今から話があるから聞いてちょうだい」って言って。こうこうこうで乳ガンが見つかってって、言われたのかな。「分かりました」。「じゃあね」って。知らせたわよっていうことだったんだろうね。
そういう友人リストみたいなのがあって、この辺まで知らせるっていう、たぶん、振り分けをする人よね。道美ちゃんにもこれは知らせてやらないと、他の人から聞くと嫌な気分するだろうとか思って、直接知らせようとか思うんだろうね。言われたほうは働いてる最中で、「はい、そう、分かった」って言って、受話器下ろした途端、さーっと血が引くっていうのかな。ほんとにその時の廊下の感じまで映画のように出てくるの。
ここに乳ガンがありますっていって、裸になっておっぱい出してる写真が、電車の広告でずらりとぶら下がったのよ。『乳ガンなんかに敗けられない』っていう本ね。あの頃、日本人であそこまでした人はいないし、敦子さんはあれで勝負打ったんだろうなって思うね。
あの人の場合は、売名じゃないのよ。パイオニアとしてやらなきゃっていうんで、自分が乳ガンの患者として手術受けながらも取材してるの。どういう手術で、どういう理屈の手術でっていうのを全部、取材。それが毎週金曜日に『読売新聞』のコラムに出るわけよ。読むのがつらかった。また再発したとかね。今度の再発は、とかってずっと連載してたの。
あの人は両親、お母さんもお父さんもガンなのよ。だから、ガンの家系だから覚悟はしてたわけね。それで、どういう所で、どういう死に方しようかっていうのでものすごく徹底した人だと思う。私、もっと評価されるべきだと思うね。
「日本の医者は隠し立てばっかりする。患者にほんとのこと言わない。いらいらするんだ」って言ってた。その点、西洋の文化のほうがきちっとしてるっていうんで、彼女は西洋の文化を取ったのね。患者を係累が見るんじゃなくて、友達のチームをつくって、ローテーションで看病するっていう、そういうのが、敦子さんが行った時はアメリカにしかなかったんだろうね。日本ではそういうのは、今はできてるけども、できなかったんだろうと思う。それで、ニューヨークで人を募って、こうこうこうで私の介護を何曜日の何時から何時までやる、メンバーになってほしいみたいなことをやったわけ。
その時の係の人が来て、しゃべってる最中に事切れたの。それを私、誰に聞いたんだろう。記事で読んだのかもしれない。46歳よ。ほんとに惜しい人。
■桐島洋子さん
天野:桐島洋子っていう名前はご存じ?
杉浦:はい。天野さん、桐島洋子さんが編集した本に書いてましたよね。1979年ぐらいに。
天野:そうなのよね。
杉浦:桐島さんとはどういう関係。
天野:私は敦子さんのパーティで「桐島洋子、今日、呼んであるわよ」っていうので知り合った。私、よしと思って話しに行くと、桐島さんがさっと逃げるの。うまい。あの人も、やっぱり直感がすごくいいわ。パーティでみんながしゃべってて、私があそこへしゃべりに行こうって思うと、すーっと逃げるの。あれ?と思って、話したい人がいたのかなって思うじゃない。ところが、2回、3回やっても逃げるわけ。それで、避けられてるんだって分かるわけ。ウーマン・リブはうるさいと思って嫌だったのよ。
杉浦:桐島さんがね。
天野:うん。桐島洋子がすごく売れてた頃なの。すごくたくみに生きてる、女としてね。子ども3人育ててるんだからね、好きな男の子どもを3人、未婚で産んでね。それでうまく仕事で金もうけして、3人育てあげてるわけよ。美津さんがそれにものすごく目くじら立てたのよ。
光の側にたくみに行く女の典型として桐島洋子さんをあげつらった。私も子分だったから、「何々についてはどう思ってるんですか!」とかって訪問に行くわけよね。そしたら、さーっと逃げる。雑魚なんか相手にするかってなもん。敦子さんに呼ばれたから来てるけども、別にあなたに会いに来たんじゃないっていうことよね。桐島さんもすごく西洋の文化を生きてる人だった。
■樋口恵子さん・吉武輝子さん
杉浦:お送りいただいた資料の中に、「行動する女たちの会の2年目の記録」が入ってて、そこに天野さん書いてましたけど、行動する会の皆さんともつながりがあったんですか。
天野:うーん、もうおぼろで。
杉浦:1976年頃ですけれども。
天野:うん。それで、行動する女たちの会は樋口恵子さん?
杉浦:はい。
天野:私は親しいほうではなかった。立派な方々ばかりで。リブじゃない。リブはもっとやんちゃな若者のイメージだよね。行動する女たちのほうは、樋口恵子さんなどご立派な方で、職業もきちんとしていて、本物の、いい意味のエリート。敦子さんもそうだけど、エリートとして世の中を率先してリードするっていうかんじね。
樋口恵子、吉武輝子、俵萠子って3人いたのね、スターが、あの頃。樋口さんは立派過ぎるの、私には。非の打ち所がないっていうのかな。俵萠子のほうが好き。吉武輝子さんなんかは家まで行って、荷物運びに行ったりしてた。それから、何かで樋口恵子さんのうちも行ったことあるよ、世田谷の。
そうだった! 吉武選挙があった~! (参院選の)結果を深夜までまって、落選したんだけど、皆が一体感あったなぁ。なつかしい。もう79歳だから前世みたいよ。
杉浦:テレビに出て、それでご家族に。
天野:そうそう。あれ、樋口恵子さんと出たんだよ。樋口さんがメインだと思うね。その付録みたいな感じで出て。同性愛者のレズビアンから人生相談が来たらしいのね、テレビにね。そういう話ができる人も樋口さんと一緒に出そうっていうことなって、1本だけじゃあネタにならないんだろうね。ちゃんとした女性運動の樋口さんをメインに出して、付録として、同性愛の人からもこんな悩みのおはがきが来てますっていうので出たわけ。
私、何で出たんやろう。お小遣いもらえるなら行くかと思って行ったのかな。『女・エロス』にだれか出ないかと話がきたのよ。皆、出るの嫌がるので「私、出る」って手を上げたんだった。視聴者が、「同性愛だけど生きづらいです」みたいな話を言ってきたらしいのね。私、「その人ちゃんとお仕事なさってるんですか」って聞いたら、「はい、お仕事はされてるようですね」って言うから、「じゃあ、それでいいじゃないですか」って言って終わっちゃったの。仕事さえありゃいいじゃないってなもんよね、食えれば。何がつらいとかっていう綿々とした悩みだったかもしれないんだけど、私がそういう話を受けられないわけよね。だから、番組としては、樋口さんにきちっと来ておいてもらってよかった、あの付録のほうは大したことなかったわっていうことになったと思う。
テレビに出た後、ぱっとサインして、ギャラか何かくれて、よし、これで何か食べようって思って町へ出た途端に「あんた今、テレビ出てた人だね」って言われたの。わあ、テレビってすごいと思って、私、その頃テレビも持ってなくて。これ、そうしょっちゅう出るもんじゃないなって思った。
出る、出ないには、私は用心してたと思うね。つまり、自分はいずれ何者かになるんだと、なるつもりだったのね。その時にスキャンダルが出てきたら困るじゃない。スキャンダルっていうのは同性愛がスキャンダルじゃなくて、ともかく、いずれ自分は出る時に、同性愛一辺倒の人間で売れたら困るわけ。私にとって女が好きなのは本当なんだけども、それだけが私じゃないということがあるでしょう。何とかさん、同性愛、レズビアンっていって、一辺倒になるじゃない。
■駒尺喜美さん
杉浦:56番館にマッサージに行ったって。
天野:駒さんは、神楽坂のうちまでマッサージしに行ってた。どこで知り合ったのか。三木草子さんか。三木草子さんは駒さんと関西の大学のことで親しいんだけど、それはずっと後のことだろうか。私が神楽坂へ行くようになったのは何でだろう。新宿の「ホーキ星」の誰かと関連してるような、していないような……。腰が悪い人で、椅子でないと話せないぐらいの人だったの。椎間板ヘルニアって言ってたけど。
ある日行ったら、テッセンっていうきれいな花が置いてあって、「その花、誰から来たと思う?」「そこの名札、見てごらん」って言うから、名札を見たら、五木寛之。五木寛之が送ってきたって言うのね。すごくうれしそうに言ってた。小西綾さんとずっと二人三脚で、ああいう女の2人の共同生活っていうのはいいんじゃない。男社会の中では女同士協力し合うのがいいんじゃない、そういう時代はね。
【興味関心】
■読んでいた本
杉浦:リブで活動してた時ってどんな本を読んでましたか。
天野:私、もともと読むのは好きよ。でも、あの頃、リブをやってる頃は本なんて読んでられないよね。
杉浦:思想とか哲学とか、そういうのを読んで書いているのかなって思ったんです。
天野:ヒステリー、母親がそういう傾向があるんじゃないかと思って、精神分析とかものすごく好きだった。自分の興味で一生懸命、好きで読むけども、何か知識をためるとかためないとかじゃなかった。サガンが好きだったのよね。全部読んだ。ボーヴォワールよりはサガンが好きだった。日本では倉橋由美子よ。昨日も読んでたけども、あれほどの才能はないと思う。それから、富岡多恵子もほとんど読んだ。今だったら桐野夏生。
私が好きな本は、ばかみたいにあるわけよ。だけど、知ってて当然っていう本は抜けてることはいっぱいある。偏りがあると思う。
杉浦:じゃあ、当時はだいぶ精神分析の本を読まれて。
天野:ものすごく読んだ。河合隼雄とか。
杉浦:ラカンとかフロイトとか読みました?
天野:ラカンって聞いたことある。ラカンは私は夢中にはなってないから、名前だけしか知らない。私はユングまでかな。
杉浦:ユング、河合隼雄ですね。
天野:ユングの女弟子で、男女両性具有論、アンドロギュノスとかいう本もあるのよ。そんなのを自分で探して読んでる。
杉浦:書かれてたものにありましたね。両性具有のこと書かれてました、天野さん。
天野:書いてるでしょう、そうそう。面白いよ。今、思えば何も西洋ばっかりじゃなくて、日本にもあるわけよね、ふたなりっていうんだよね。ちゃんと日本にもあったわけ。それを西洋からの逆輸入とかなるんだけど、それはそれで、そんなもんだろうね、文化っていうのはね。
杉浦:天野さんが書いてるもののベースは精神分析だったんですね、当時。
天野:うん。そりゃ3人も子ども置いて、男と駆け落ちしちゃったんだからね。どういう人間なんだろうと思って。
杉浦:お母さまのことを?
天野:うん。大人になってから「私がいくつの時に出たの?」って聞いたら、「あんたいくつになってたかしら」って、ほんと無責任、「あんた3つだったかしら、2つだったかしら」っていいかげんなのよ。それで、私も、彼女をものすごく研究したわけ。「私、ユング読んでる」って言ったら、上の兄貴が「わしはクレッチマー読んでたわ」言うてね。クレッチマーって、ヒステリーの理論を出した人らしいの。「クレッチマーに言わせたら、ヒステリーっていうのは傷ついたプライドらしいな」って兄貴が言ってんのよね、上の兄貴が。兄貴は兄貴で14歳の時に、母親が京大生と駆け落ちしちゃったんだから大変だったのよ。
杉浦:京大生?
天野:そう。家も近いしね。亭主は体操の先生よ。すごいじゃない。京都の北白川でうわさになってるはずなわけよ。ところが京都の人って「こんにちは、おいでやす」って言いながらぶっちゃけた話は決してしないでしょう。そういう子ども時代を送って、私も合わせてたから、自由に生きよう、正直に生きようと思って、東京へ出ていった時からレズビアンの話をできるような友達しか友達にならないわけよね。京都ではそうはいかなかったわよね。だけど、友達、みんな知ってたと思うわ。
杉浦:当時、アメリカから来るような、リブとかフェミニズムのミニコミとか、そういうのはあんまり読まれてなかったんですか。
天野:私は全然読んでない。「赤い六月」でケイト・ミレットの『性の政治学』の読書会やった。でかい本だったが今はもう何も覚えてない。
シュラミス・ファイアストーンが「去勢された女」とかを出して話題になった時、ラリーが「She is Jew」「彼女はJewだ」ってしきりに言うのよね。
杉浦:Jew?
天野:ユダヤ人だって言うのよ。「I’m Jew」ってしきりに言うの。何の話やろうって思うじゃない、私ら。われわれには分かんないものよ、それはイスラエルの今のネタニアフのことも、トランプのこととも関係するけどね。だけど、われわれには分かんないことよ、Jewの問題って。
コンプレックスにもなると同時にプライドにもなるのよね。よけ物にされてて、それを同時にプライドにもしてる。その歴史はものすごい長いじゃない。ああいう恨みつらみっていうのは、われわれには分かんないのよ。シュラミス・ファイアストーン、何でこんな難しい名前、覚えたかというと、ラリーがえばって、Jewは優秀なんだ、彼女は才能があるんだっていって、あんまり言うからで本は読んでない。
天野:(ふと本棚から本を持ってきたりして)これがアンジェラ・カーターの本でちんぷんかんぷんよ、全然分かんない。下はラリーの本で、ネットで買ってやったけど全然読んでない。これはアレン・ギンズバーグっていう人の本で、となりに並べてるのがジュディス・バトラーの特集。むずかしくてわからん。
杉浦:そうか。ラリーっていうのは、ローレンス・トーブ、同一人物ですか。
天野:そう。ローレンスの愛称がラリーね。そんなの自費出版に近い本だよ。70ぐらいになってから、やっと日本で本を出したのね。
呉:「歴史家・未来学者」。
天野:私、今なら彼の気持ちよく分かるわ。僕はJewでいつか本を書くんだ。僕、頭もいいから、いろいろ調べて、本を出すんだ、と。でも、英語でアメリカでじゃなくて、何で日本で出すのよ。結局、日本の優しさの中で彼はぬくぬくと暮らしてたわけよね。いつか本を書いて、僕はいっぱしの人間になるんだっていうのを口実にずっと遊んできてたのよ。私もそうだからよく分かる。一つのことに腰が据わらないのよ。ものすごく多情で、多感で、気が多い。
■エロスについて
杉浦:天野さん、エロスについていろいろ文章、書いてましたけど、あの頃、エロスを追求したいっていう思いがあったんですか。
天野:そうなのよ。いかに愛すかっていうのはテーマじゃない? 私は、一人の人に4年のあいだプラトニックで狂いに狂って、その果てに自分はエゴイストだっていう結論に到達したの。夏目漱石のいう「自己本位」といえば恰好よくなるね。それで、ぴたっと色恋やめたもんね。わざわざアメリカから訪ねてきた人も眠るだけ眠らせて帰ってもらったことあるって(メールに)書いたよね、あなたに。
私、セックスそのものは疎いんだと思う。母親もそうだった。今となって思うんだけど。好きな人はほんとに好きなんだろうね、セックスが。マッサージなんかの仲間としゃべってると、そういう本音もたくさん出てきて楽しいんだよね。セックスの最中に涙がばーっと出るという、えーと思って、そんなん出ないわ、私、と思ってね。だから、私は観念的で、自分が頭の中でつくった物語のほうが好きなのよ。それは母親もそうだと思うの。子ども3人捨てて男と駆け落ちしたんだからね。物語をつくって、物語を生きるわけ。今の時代はそういう人たくさんいるんじゃない。
敦子さんは「私はセックスする時は私も楽しむし、相手にもとことん楽しんでほしいのよ」って。「あなた、執着するでしょう」って敦子さんに言われて。それで私「そりゃ執着しますよ」って言って、「それじゃ駄目」って振られたの。敦子さんはほんとに会うたびに彼氏、違ってた。パーティでは、寝た男たちがかち合うの。「だって寝てみなきゃわからないじゃない」って。
そういう人もいるんだなっていうのはわかるけど、私はそのタイプじゃないのよね。変えようとも思ってないんだと思う。だって別にどっちか味わえばいいわけで、私も頭の中でこうしてああして、こうなってああなってって時が一番生きてるんだと思うの。だから、今でも本読んだりネット見たりしてる時が一番、時のたつのを忘れるのね。だけど、人と会ってどうのこうのっていうのは、レズビアンじゃなくても、そんなに楽しくはない。「相手のあること」って言葉あるよね。「他者」の存在。実存の問題。サルトルは「他者、それは地獄だ」と言ったし、「人間は、自由の刑に処されている」とも言っていて、そういうの難しいけど好きなのよ。
■女の運動について
杉浦:女の運動との関わりはだいたい1970年代くらいまでですか。
天野:そうなの。私、プラトニックで4年、頑張った。すごいラブレター書いて、こんなに出して、最後に全部、突き返された。ものすごい手紙、書いてたの。アパートでは坐りこんで手紙を書いて、水商売で食いぶち稼いで、また手紙を書いて。彼女に、何をくどいてたのかね。哲学論みたいなこと書いてんのよね。さぞかし彼女は面倒くさかったでしょうね。ノーって言うのに力が要る。拒絶するには力が要るでしょう。変なことで私が暴れたりしたら困るからと思って。私は今で言うストーカーみたいになってたと思う。
杉浦:それは1980年代ですか。いつ頃の?
天野:29から始まって……
杉浦:じゃあまだ70年代。
天野:4年間、プラトニックラブやったんだよね、たぶん。
杉浦:1970年代の後半ですね、じゃあ。
天野:うん。私は、あらゆる妄想をそこで生きた。脳細胞を活性化したんだろうと思うね。できごととしては大したことない。恋愛どころか、恋という形にすらなってない程度のことだったけど……。結局、彼女は女の友達と、若い子がこんなこと言ってくんのよっていって笑ってたんだろうと思うの。だけど、それはそれで別に構わないと思う。
舟本さんのことでも、佐伯洋子さんにばれて、佐伯洋子さんに「舟本さんが小説に書いてたあれ、道美ちゃんでしょう」って言われたりして、普通だったら傷つくんだろうけど、私、そういうのに傷ついてないの。それはそれでいいじゃない。物書きになりたいっていうんだったら、それぐらいことするでしょうって思うわけ。だから、恨むってこともないのよ。だから、傷つけられたとか、恨んでるとかっていうのが分からないのよ。傷ついたってことは、何かを欲しくて始まるんだろうと思うね。そういう損得の世界は、私、あんまり興味ないのよ。だから、あの時こう言ったのにしてくれなかったとか、あんな約束したのにこうだったとかっていうことは面倒くさい、分かんないの。抜けてるんだと思う。
杉浦:手紙を突き返された後は、どんなことをしてたんですか。
天野:かたく封をして、死ぬか、死ねるか、死ねないか…、なぜか…、よ。で、結局、死ねなかった。それで、私、ぴたっと卒業しちゃったの、セックスは。
杉浦:運動のほうはどうですか。
天野:運動もやめちゃったね。
杉浦:そこで?
天野:うん、やめちゃった。だから、『女・エロス』の波長の合う人とはつながってるよ、お友達としてね。そういうお友達っていうのはあるけど、私、運動そのものは興味ないわけよね、きっと。だって、なるようになるのよ。人生後半になって、また大きくカーブしたっていうかんじ。クニに帰って治療院始めた。
天野:私は、同性愛って運動にするほどのことかしらっていう、ものすごい厚かましい傲慢なタイプでね。もっと他にすることあるでしょうって感じよ。相手が欲しいっていうのは切実だけど、それは個人的に男と女が出会えないのとおんなじで、こっちは確率がもうひとつ悪いだけの話だからっていうような理解しかしてないから、男に行けないから女同士でやってるっていうの、私は嫌なのよ。ほんとは「ヘテロなのにヘテロになれないからホモに」なんて、やめてくんない?って言いたくなるぐらい。
だから、私はものすごくプライドが高いんだと思う。同性愛でもすごい人はすごいんだし、吉原幸子なんて詩人の場合は実際ひとが一人死んでるんだよ。「カムアウト」なんてない時代、そこを本当にいのちがけで生きた人。
同性愛ってある意味、感性がいいんだろうってなもん。「分かってくださいと言うのは乞食の心」っていう美津さんの言葉があるんだけど、そういう乞食みたいなことしたくないっていうのがあるんだろうと思うね。集まらないと声に出せない人がいるっていうのが私は分からないんだろうと思うの。群れない一匹狼でありたいという、ええ恰好しいともいえるでしょう。だから運動の場合、足引っ張っちゃったら悪いなって思うの。それで距離をとるの。
相手が入院した時は妻や夫だったら、入院の……。
杉浦:同意書?
天野:できるのに、同性愛だからできないのをできるようにしてくれっていうんでしょう。
杉浦:うん。
天野:私、そういうの、運動にするのつまらなくて、ファイト出ないよ。世代のギャップもあるかもね。マイノリティとかレインボーとかって、私の時代じゃなかった。関心が向かないだけ。もちろん邪魔する気なんてさらさらないし、その運動の成果のおこぼれにはちゃっかりあずかるよ。署名がいるなら署名する。もっと大きく見回すと、イスラム教は同性愛が処刑とかテレビでやってた。キリスト教でも長い間、同性愛は大変だった。そういう実存の問題なら関心もてる。
カップルの文化が正しいなんて、この100年かそこらだよね。カップルで生きなければいけないっていうふうになったのは近代社会なわけでしょう。これ、きっと未来は変わるよ。私は平安時代がよかったと思う。招婿婚とか、通い婚。男が女のとこ行って、女も父親に財産を分けてもらっていればやっていけるわけだよね。子どもは女の集団が育てて、男が通ってくるっていうの。私、将来そうなると思う、いずれ。ま、その前に地球が壊れてるかもね、アハハ……。
杉浦:じゃあ、「れ組」ができたのは知ってるけれども、参加はしなかったって。
天野:そう。だから、全然、不熱心。何で、何を誰に認めてほしいの?って聞きたいのよ。好きな人としゃーしゃーと生きればいいじゃない。年取って相手が病気になったりしたら、って問題も私は1人が好きだから。このあいだ介護の相談、ここでしたところよ。
杉浦:レズビアンの運動には参加しなかったけど、女の運動に参加したのはどうしてだったんですか。
天野:結局、私は女の人がたくさんいて、お姉さんみたいなすてきな人がいるから行ったの。だって、日本広しといえど、これだけ女が主体的に女同士でやってるのって、他にないもんね。写真で見たでしょう。すごかったし、楽しかった。
【指圧の仕事】
杉浦:東京に出られてから、鍼灸の学校にもう一回、入ったんですか。
天野:そうそう。サウナで働き始めて、サウナはベッドいっぱい置いて、ばーってやるから、ちゃんとした人の指導の下にやってるっていうんで、無免許でも働けたの。それで働いて、こりゃいいなと思って、学校行こうと思って。それで、「私、あんま学校行くけどお金貸して」って言って、5万ずつとかみんなに借りて。それで、私は大森の学校に行ったのね。30超えてから免許取ったの。取っておいてよかったと思うよ。いつでも開業できるしね。
美津さんは鍼灸まで行ったけど、私は鍼灸の学校に行っても2年でやめて。はりは嫌い。合わない。私の母親ははり師なの。私ははりは合わないのよ、もむほうが好き。タイプが違うのね。それはそれでいいと思うのよ。瀬戸内寂聴さんも平塚らいてうも、もむの上手だったらしい。だから、タイプがあるんだよ。そんなこんなで、いつどこへ流れていっても、その日から食べて行けるような、私はそういう人間になろうと思って、なってきたつもりなのね。
杉浦:「1996年3月」(開業した指圧治療院の写真の裏書き)。
天野:うん。それが私、指圧治療院を自分で、最後にやってね、京都で。
杉浦:これ、京都ですか。
天野:最後の最後で商売人になれるかどうか試してみようと思ったのと、絵が描きたかったので、1日3人もんで1万円もうけて、あとは奥でお絵描きするっていう、そういう暮らしを京都でやり始めたわけ。だから、(運動の仲間と)仲悪くなったわけじゃなくて、てめえのことでしっちゃかめっちゃかだったのよ。
51の時だった。商売を成功させるには、親、きょうだいがいて子供の時からの友だちもいるところで、というのが定番だ、そういう後ろ盾っていうものが世の中にはある、後ろ盾を持って治療院やったら商売人になれるんじゃないか、よしやってみようって思うが、次の日は、やっぱり駄目、怖いとぽしゃる。そういうこと半年ぐらい悩んで、とうとうやるほうにかけた。13年やったよね。
杉浦:京都で? じゃあ、その時に京都に戻って、13年間京都に?
天野:そう。治療院の場所も何もかも下の兄貴が頼んでくれたり、そういう力も要るわけよね。何でもかんでも一から全部、全てを自分でやればできるっていうのは修正したわけ。最初は何もかも一から全部自分でやろうと思ってきた。でもそれだけじゃ又つまらん。人間って2代かかるなぁとも思うようになった。この年になると、ね。
杉浦:これはいつかな。「1997年、個展」(写真の裏書き)。
天野:これ、おとっつぁんね。
杉浦:天野さんの個展にお父さまが?
天野:そうそう。結構かわいがられたのよ。それは全部、係累ね。
杉浦:そうですか。にぎやか。
天野:だから、個展なんかしたりして、世間的なこともしてるわけよ。私もいいかげんだよね。美津さんなんかは、そういう親とのつながりなんかもぶった切ってただろうね、革命を狙えばね。「この星は私の星ではない」って、このあいだもまだ言ってた美津さんよ。あたしはそこまで言えないし、言わないわ。日和ったといわれても仕方ない。受け入れるだけよ。

〈1997年 個展〉
天野:私は、子ども時代が十分満足してた、そのためかどうか、新しい家庭をつくる気は全くない、1人で自由に生きたい。そればっかりだったね。だから、どこで野垂れ死んでもいいし、ここ(現在の住居)も親が死んだ金で買ったけど、買えたけど、買えなかったら私、フィリピンかタイ、狙ってたのよ。そのうちに親が死んじゃって、ちょっと分け前がもらえたから、それでインターネットで探したのよ。そしたら、京都は高くてだめだけど、神戸は震災があったから、復興住宅がいっぱいできた分、中古の安いマンションがいっぱい出たの。それですぐ入ったの。行き当たりばったり。ここ、神戸、20年目。今まで60回ぐらい引っ越ししてるんじゃないかしら。

