出雲まろうさん(2023年6月10日)
基本情報
1) 話し手:出雲まろう
2) 聞き手:杉浦郁子/呉丹
3) インタビュー実施日:2023年6月10日
4) 実施場所:東京都内の貸会議室
5) インタビューで話題になったこと:
若草の会/ウーマンリブ/すばらしい女たち/ザ・ダイク/女のパーティ/女たちの映画祭/劇団青い鳥/二丁目のバー/クラブシーン/フィルム・フェスティバル/国際ビアン連盟/パレード/公正証書/1970年代/1980年代/1990年代/首都圏
6) 形式:音声/文字
7) 言語:日本語
8) データ公開および共有の区分:文字を公開(public)/音声を非公開・非共有(private)
文字
+ 内容を表示する内容
- 高校までのこと
- 大学時代・卒業後のこと
- すばらしい女たち
- まいにち大工
- 女のパーティ・JORA
- 女たちの映画祭
- 劇団青い鳥
- 若草の会
- 回転ドアの向こうの海
- 二丁目の女性オンリーのバー
- クラブシーン
- フィルム・フェスティバル
- 国際ビアン連盟
- 公正証書の作成
- 外国籍の人たちの貢献
- 1990年代のレズビアンとゲイの協働
- 第3回パレード
- キスパフォーマンス・マスコミチェック
- いまの日本の状況について
- まいにち大工アピール文・『すばらしい女たち』の印刷
〈まとめ方に関する注記〉
- 第三者のプライバシーに配慮し、修正・削除した箇所があります。
- インタビューの後のやりとりで、口述者自身が想起したことを加筆した箇所があります。挿入された箇所は( )を使って示しました。
【高校までのこと】
杉浦:それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
まろう:こちらこそ、よろしくお願いします。
杉浦:では、早速ですけれども、まろうさんは何年にどこで生まれたかというところから教えてください。
まろう:1951年、日本、地方都市に生まれました。
杉浦:ということで育った環境ですね。ご家庭の状況などをちょっと教えてください。
まろう:これは2つの面がありまして。まず経済的な面でいうと、その県で名前を言ったら知らない人がいないっていう環境で育っちゃって。父親がね、医師だったんですけれども、(まろうが)育っていく間にどんどん大きな病院にしていくんですけれども。
だから、どういううちだったかというと1950年代にプールがあって、プールの周りに芝生があって、バナナの木が、ヤシの木が茂っていて、それとは別の庭に日本庭園があって、というようなうちで、お手伝いさんが少ない時で1人、多い時は3人ぐらいいたという環境で。あと運転手もいたんですね。
その当時、自家用車があるというのはどういう環境かというと、その県では10台しかないという時代だったんですよ。
どこ行ってももう、あそこのうちの子だということで、自分が隠れようがない。そこの市じゃない別の市の高校に入って、これだったらもう分からないだろうと思ったら、やっぱり担任でもない先生があそこのうちの子だって分かった途端にもう、うちにあいさつに来るとか。何て言うかね、匿名性がないというか。いいわねって常に言われ続けて、うらやましがられてきたんですよね。
だけれども、上に2人兄がいて、父親は明治生まれ、母親が大正生まれで。これは経済面とはまた違いまして、母親は四人姉妹の長女で、祖父がそれこそ大正時代にヨーロッパに視察に出かけるような人だったんで、家父長制なんだけれども女の姉妹しかいなかったし、祖父も威張ってばっかりいるってタイプじゃないので、いわゆる家父長の男子が威張るということはあんまりよく分かってなかった母親なんですね。
ところが結婚した相手の父親というのが明治生まれで、軍人で軍医で将校で甚だしく家父長制を背負い込んでいる。いわゆる戦前はそれでもエリートってことで、いずれは男爵になるだろうってことで結婚させられちゃったらしくて。もうだから、われわれ子どもが戦後に生まれたんですけれども、何て言うのかな、教育方針も違うし、考え方も違うしという、ぎくしゃくした中で育ちました。まろうは、小学校ぐらいまでは自由に兄たちと同じに育てられたのに、中学ぐらいに女子であるということを急に父親が考えちゃって。
それからがもう、ちゃんとしたところへ(嫁に)出すにはちゃんとした女子教育をしていなければいけないっていうことで、いろんな行儀だとか何か、しつけを教え込もうとしたんですけれども、そこで激しい反発をして。そこからもう何で女だからって自分だけが違うあいさつをしなきゃいけないとか、(反抗的に)なっていったんですね。
ジェンダーって言えばね、いわゆる自分は男なのかしらって思ったりとか、そういうことはないんだけれども、小さい頃は七五三とかありますよね。とにかく小さい頃はね、着飾るの大好きだったの、驚くほど。昔の写真見ると笑えるんだけれども3歳の時は着物着てリボン付けて蒔絵の付いたすごいぽっくり履いて、それがもううれしくて、うれしくて、たまんなくって。
だから女の格好させられて嫌だったという記憶はないんですよ、幼児期には。同時になぜか、3歳か5歳かの時に、黒のベルベットに白い刺しゅうの付いた上下お揃いのボレロとおズボンで、それで赤い船長さんのお帽子かぶせられて、それも大好きだったのね。それは女の子の格好というよりも、兄たちが着てたのをお下がりで着せてもらったので、その恰好も大好きで。
小学校の時にピアノの発表会に、いわゆるスカートの下にペチコートをはいて、しかもスカートが360度ふぁーって広がる、そういう真っ赤なスカートはいて大喜びしたりとかね。学校行くのにポニーテルにしてたんですけど、リボンなしでは出かけられないとかね。
だけどある時、ものすごいはっきりアタマにきた時があって、アロハのものってのは子ども向けにまだなかったもので、アロハ生地をどこかから手に入れて、それできょうだい3人洋服作ってくれるっていうんで、きょうだいで大喜びしたんですよ。そうして出来上がってきたのが兄たちはアロハシャツ、自分だけがワンピース。もうそれでね、ものすっごい失望落胆して。もうなぜあんなに怒ったんだろうと思うぐらい、アロハはアロハシャツでしょうって、女の子だからってドレスにすることないじゃないっていうんで激怒して、それはよく覚えてるんですね。
杉浦:何歳ぐらいの時だったですか。
まろう: 7~8歳ですよね、まだね、小学校の低学年だったと思うんですけど。だけどスカートはくのは嫌だったわけじゃないんですよね。アロハってのはアロハシャツで、女子でも着てもいいだろうって、そこら辺のね、何かだったんですけど。
高校ぐらいになると、そうですね、セーラー服だったんだけどセーラー服が嫌いというわけじゃなくて、だけど私服はいわゆるパンタロンとかね、ジーンズはくとか、そういうほうが割と好きではあったんですよね。
杉浦:その当時、女子のジーンズとか、どんな感じ。
まろう:怒られました。ジーンズはいて本屋に行ったら、それを高校の先生に見とめがれて、何がいけないんですかと言ったら、制服で行けと言われて仰天したことがあるんです。
その当時、女子がジーンズはくというのはちょっと珍しくてあんまりないことではあったんだけど、兄が持ってたから、それをよく借りて着てましたね。
杉浦:進んだ女性みたいなイメージだったんですか、それとも。
まろう:そうですね、やっぱり驚かれる。パンタロンなんか着て町を歩いてると、えっ?って振り向かれる。やっぱりまだまだひらひらした女性っぽいのが主流だった時代だから。でも自分ではそれがね、男っぽい格好したいということだったのか、そうじゃなくてファッションの一番の主流がツイッギーだとか、パンタロンスーツがトップを走ってたように思えたし、自分ではね。ユニセックスのつもり。
それで70年代、それこそ80年代になると、あれですよ、ファッションがコム・デ・ギャルソンとかコムサ・デ・モードになっていって、いわゆる働く女子たちの服というような感じでね。ニューヨークなんかではもうスニーカーで女子たちが歩いてるんだっていううわさも聞き始めて、そうするともうやっぱり上下黒のスーツ、格好いいなという感じで。
だからね、それが自分のジェンダーに何か関わっているのか、どうなのか。ずっとかなり70年代に入るまではセンスの問題だと思ってたんですね。自分はひらひらしたものが嫌いというね。
杉浦:わかりました。中学ぐらいに入ってから、おうちで女子教育的なものを仕込まれたっていうことで。
まろう:そうです。
杉浦:それに対して反発してたということ。
まろう:ものすごく反発しましたね。
杉浦:もうお父様と何か、ばちばちやるとか。
まろう:もう、ばちばちやってましたね。もう怒って。怒って泣いて。泣いて、ばしゃーんって戸を閉めるとか。そうするとヒステリーとか言われたりね、もう。何なのかな、そのうち男女(おとこおんな)なんて言われたのかな。結局、兄たちと同じようにしていると男女って言われたりするんですよね。自分的にはそういうつもりなくても。
ただ、そうだ、そうだ、言葉の面で一人称を「私」というのは、もうとことん拒否ってました。それは子どもの頃から。ちっちゃい頃から自分のことを「まーちゃん」って言って。そして中学行っても高校行っても、なかなかそれはね。「私」って言わなきゃいけない時にはね、何か一息ついてから言わないと、そう言いたくない。特に地方の方言の中で「私」というのが、方言ってものすごく女性語、男性語がはっきりしてて、「私」って発した途端に相手より下の立場を取らなきゃいけないというような、そういうようなね、何か見えない圧力を感じるもんだから、絶対に「私」と言うものかという感じで使わなかったんですよね。
杉浦:セクシュアリティのほうはどうでしょうか。
まろう:セクシュアリティのほうはね、これは本当に小学生の時まではあんまり記憶ないんですけど。中学の時もそろそろ特定の子が好きで親友をやって、もう大好きで大好きで親友をやってたんですね。それが(ほかの人と比べて)自分だけ、ちょっと本当にまずいかなと思い始めたのが、中学3年ぐらいの時にやっぱり女子同士で、とにかく仲良しのグループ作ると必ず好きな子を告白しなきゃいけないっていう、そういう話題が必ず出てね。その時に順番に告白するのが、自分的にはもう、そのグループの女子の中の1人がそうだったのに、そいつの名前を言うわけにはいかないと。絶対言えないし、言いたくないし。
結局、別に好きでも何でもない、ただの友達の男の子の名前を言うわけですよね。その辺りからね、ちょっと自分だけ、あれっ?て思い始めて。男子の、別に友達としては結構しゃべるけど、だからって好きかと言ったら、同級生のある特定の女子を好きっていうのとは全然違ってね、ただ普通に友達なだけで。その辺で中学3年ぐらいから、やばいなと思い始めて。
高校になるとそれがもうどんどんエスカレートして、本当にもう特定の好きな女子が現れ始めて。割と先輩とかに、この人なら分かってくれるかなと思って「同性の子が好きなんだけど」って相談するんだけど、あんまり相手がちゃんと受け取ってくれなくて。「そんなの、大人になれば変わるよ」とかね。
あと、この人だったら分かるんじゃないかって、ものすごい人気者のバレー部の主将の、女の子に大人気の女子の先輩がいて、背の高いね。こいつだったら絶対分かってくれると思って、そいつが卒業した後に相談したら、「親孝行でいいから結婚」、「親孝行も一つの選択だよ」なんて言われて、結婚が。「もう全然分かってない、この人」と思って、もうがっかりした。
あと、やっぱり別の先輩が結婚するっていうんで、そいつの婚約者が医者だっていうんで、その2人に「女の子のほうが好きで、ほんと困ってるんだよね」と言ったら、やっぱり、「いや、今だけですよ」って。そのお医者のほうがね、「今だけですよ、もう少し大きくなれば変わりますよ」って言われて。「いや、絶対これ、変わらないと思う」というのが確信としてあって。
それが本当にどうにもならなくなって、「これはやばい」となりはじめたのが高校2年か3年ぐらいなんですよね。その頃には好きだった子も、恐らく(お互いに)好きだったと思うんですね、ラブレターもらったりしたから。けれども、「じゃ、好きって交際できるのかな」っていうと、「でもあなたは女だから」って言われて。そうするとしょぼんってして。そのうちに彼女が別のクラスの男子のボーイフレンド作って、あの人とあの人は付き合ってるみたいな、うわさになっていって、そういううわさを聞いたり、2人が歩いてるのを見たりするのが、絶望的にものすごい傷つくことになっちゃって。
今でも覚えてるのは、ひと夏、2階建ての鉄筋のおうちだったんですけど、2階の屋根の上に登る階段があって行けるんだけど、(屋根には)柵がないんですよ。だから淵まで行ったら落ちちゃうのね。その淵まで行って、「今日はやめよう」ともどってくる。そういうのがね、かなり続いたかな。ひと夏あったかな。かなり厳しかったんです。夜とか朝、夜明けにね、淵まで行って。それでずっと考えて、それでまた「やめよう」って。多分あれ、勇気あったらやってたんだけど、痛いの大嫌いだから。「痛いだろうな、痛いだろうな」と思いながら、また戻ってくるっていう日々でね。
その頃に多分何か決意したというか。もうアタマに来ちゃったんですね。それから。
杉浦:アタマに来た?
まろう:アタマに来たの。「何で自分が死ななきゃいけない」って感じで。「自分が死んだ後だって、こいつら楽しく生きてて、何で自分だけがこんなつらい思いを抱えて死ななきゃならないの」となって。それから何か、何だろうな。もう猛然とアタマ来ちゃったんですよね。
杉浦:何か怒りがパワーになるじゃないけど。
まろう:そうそう。
杉浦:ちょっと暑いですかね。エアコンの音が入るとあれかなと思って止めてるんですけど。ここの比較的静かな感じ、入れときましょうかね。暑いですよね。それが高校生ですね。
まろう:そうそう、高校生ですね。
杉浦:何も情報とか、あんまりなかった……
まろう:情報は、変な週刊誌におなべバーの情報とかね。あと、情報としてはテレビで丸山明宏って、今の美輪明宏。丸山明宏が「夢で逢いましょう」で何か男か女か分からない感じで歌ってたりとか、「この人、何だろう?」とかね。あとはね、戸川昌子が「青い部屋」をやってるっていうんでね、おなべバーを。それぐらいしかなかったですね。
杉浦:それが高校生で。
まろう:高校生の頃。
【大学時代・卒業後のこと】
杉浦:その後は上京なさる。
まろう:そうですね。その頃、その後は大学行く。
杉浦:進学。
まろう:進学ということで上京して。そのときは絶対に彼女つくるつもりで、大喜びで上京して。
杉浦:それが1969とか70年?
まろう:いや、まろうは早生まれなんで、17歳ぐらいで大学1年生になると思うんで、17か18ですよ。
杉浦:18ですね。
まろう:そうすると1968年とか9年とかですよね。51年生まれだから、その辺りですよね。
杉浦:69かな、68かな。
まろう:その辺り。
杉浦:大学に進学するということについては、ご家庭の反対とかはなかったんですか。
まろう:それはなかったです。
杉浦:自由な道に。
まろう:自由な道でもなかったです。自分としては本当に大学なんか行きたくなくて、カメラの仕事か何か。清岡何とか(純子)っていう人がいるじゃないですか。
杉浦:いました。
まろう:それがね、実は学研の学習研究の本にインタビューが載ってて、こういう人がいるんだと思って、カメラマンいいなと思って、カメラマンの道、進みたいって言ったんだけれども、うちはもうとにかく医者以外は人間じゃないっていう、兄たちもみんな医者になって。まろうも医者にならないんだったらただじゃおかないみたいな感じで。でも嫌だって。もう父親が女子教育するから父親のこと、大っ嫌いになっちゃって、ついでにもう医者なんか大っ嫌いになっちゃって、絶対嫌だってことで。だったらとにかく女子教育……商品としてね、女性の商品として大学ぐらいは出てないと(教養を身につけておかないと)まずいっていうことで、むしろ。
杉浦:行けと。
まろう:行けという感じで。それはね、珍しかったですね。うちの父親、(封建的なわりに)変なところがあって、女子は医者になって自立していたほうがいいみたいな、変なところもあってね。だから大学行くことに対しては全く何のあれもなかったです。だから大喜びで、さよならぁーみたいな感じで東京に、もう東京で好きに生きるんだぁーみたいな感じで。
杉浦:上京して何をしたい、どういう志を持って上京したって感じなんでしょうか。
まろう:まずはとにかく、「青い部屋」みたいな、そういうところでもいいから、どういう人たちがいるのか、行きたかったし。あとは「もう絶対に彼女見つけるんだ」って、そればっかりでした。
杉浦:具体的に見つけ方とか、そういう見通しっていうか、いると思って来たって感じですか。
まろう:そうですね。同級生でも、知り合う人、何でも。どうしてたろう、よく分からない。まぁまぁもてたりもしたんですよね、何か知らないけれども、断ったりもしてた、確か。
実はうちの父親が、下宿なんかさせたらとんでもなく危ないからっていうんで寮に入れられちゃって、女子寮に。だもんだから、ちょっと実は困るぐらい。
杉浦:もてて?
まろう:アプローチがあって。それでちょっと嫌だったんですよ、それが。自分が好きな人でないと、そんなにアプローチがあっても嫌で。それで、ものすごく嫌で半年ぐらいで下宿見つけて、自分で親に相談せずに勝手に出たんですけど。
杉浦:それで一人暮らしを始めて、それが70年代の初めぐらいですけれども、そこから70年代後半の活動っていうんでしょうか、そこに至るまでにちょっとまだ間があるんですけれども、大学時代とか大学出た後ぐらいはどんな感じで過ごされてた。
まろう:その4年生ぐらいの時に付き合ってる人がいて、それでその人とずっと付き合っていこうって思ってて、田舎には帰るつもりないから東京でやっていこうと思っていて。でもまだ何だかふらふらしてて、まだまだ。
杉浦:就職とかっていうのは。
まろう:するべきだったんでしょうけれども、実家の法人の理事報酬があったもんだから、あんまり就職のこと真面目に考えてなかったんですよね。それよりはもうとにかく彼女が欲しいって、そっちのほうばっかりで。一緒に暮らして、何でもいいから仕事してやっていこうみたいな感じで。
一応、学芸員の資格は取って、博物館員になっていこうっていう思いはあったんですよ。アルバイトで美術館に雇われたりして。そういう時に彼女のほうが結局、長女で、2人姉妹で、家が事業をやってて、そこを継がなくちゃいけなくて、お婿さんをもらわなきゃいけないっていうんで、駆け落ち事件というのを起こしちゃうんですよね。
連れ戻されて。その駆け落ち事件を起こす前あたり、だからそうですね、美術館で学芸員のバイトをしていた時代に、この『すばらしい女たち』のアンケートをもらうわけです。
【すばらしい女たち】
杉浦:それはどういうふうに回ってきたんですか。
まろう:それがね、同じゼミの人が、珍しいことに、美容師になった人がいるんですよ。女子で仕事していくのに、美容師っていうのはなかなかいい選択肢だってことで。その仕事仲間に恐らく、(『すばらしい女たち』の)織田さんがいたんだと思うんですね。それでそのアンケートね。大学の友達にはレズビアンだってちゃんとカムアウトしてたから。ゼミの先生にも言ってたから。だから、「あなた、そうよね、これ、渡してくれって言われたから」という感じで。それらしき人に渡してっていうアンケートだったらしいんですよ。何も言わずに渡してちょうだいみたいな。
それもらって、「あなたはレズビアンですか」とか、「自殺を考えたことありますか」とか、いろんなアンケートに答えて、裏に「何か思ってることあったら書いてください」っていうのをだーって書いて、それで送ったんですよね。
杉浦:それが75年とかですよね、きっと。
まろう:その辺りですよね、きっとね。
杉浦:でもゼミで言ってたって、すごい。
まろう:もうオープンにしてましたね。先生も全然、「ふーん」って感じで。先生もほんと偉かったと思いますね。おかしいとか、そういうこと一切言わない。
杉浦:それは良かったですね。
まろう:そうそう。卒論どうしようかなというときに、どうしても決まらないっていって。先生は(むしろ)分かっていて、「じゃ、スーザン・ソンタグの『キャンプ』とか、『<キャンプ>についてのノート』とか、やったら?」って言ってくれたんですけど、まだその時代は若過ぎて、『<キャンプ>についてのノート』を読んでも、キャンプってことの感覚がまだ(肌で)分かってないんですよ。
やっぱりキャンプについての感覚を分かるには、二丁目やクラブ行ったり、あるいは海外に行ってゲイカルチャー見たりして、初めてキャンプ感覚っていうのを、コミュニティの遊びの場に出たことで初めてキャンプ感覚が実感として分かるんでね。『<キャンプ>についてのノート』を読んだだけでは、すごく面白かったけど、まだキャンプ感覚っていうのが分かるぐらいに成長してなかった。面白いけど、はてな?、みたいな感じで。
それよりは、やっぱりまだまだ引きずってるんですよね、死ってことをね。だから、テーマは「死と美術」という、そういうところに。結構楽しそうにしてても、やっぱり引きずってるのは、死っていうことが、まだ背景にあったと思うんですね。それでゼミでは、普通にオープンにしてましたね。
杉浦:それでアンケートが、卒業した後に回ってくるっていうのがすごいですよね。卒業、もうしてますもんね。多分75年っていうと。
まろう:そうです。卒業した後。ゼミ仲間で大学院に進んだ人も何人かいて卒業後も勉強会と称して食事会をやってたので。
杉浦:1~2年ぐらいはたってますよね。それで送ったら座談会か何かに。
まろう:アンケートを返してくれた人で集まってお話しましょう、みたいな。即、座談会になったのかどうか、そこは記憶ないんですね。なったのかな、どうなのかな。
杉浦:記事も書かれてますよね。『すばらしい女たち』に。
まろう:書いてます。
杉浦:先に文章寄せてくださいっていう話があった感じですか。
まろう:いやいや、『すばらしい女たち』は、アンケート集まったメンバーの中から有志で『すばらしい女たち』というものを作って、全国にばらまこうっていうふうになったんで。まだアンケートいただいた時には『すばらしい女たち』を作るっていう話じゃなかったんです。
杉浦:じゃ、まずアンケートだけをしようっていう。
まろう:そうそう。まずはとにかくアンケートを、あらゆる知ってるつてをたどって、とにかく集めようっていうことで織田さん、麻川さん。
杉浦:麻川さんもそうですね。
まろう:あともう一人誰だっけ。田部井さん、この3人。この3人が多分恐らく……
杉浦:中心になって……
まろう:大学闘争、ウーマン・リブ活動の中でのレズビアン差別、それで自分たちで何かレズビアン・フェミニスト・グループ作ろうっていうような動きになってったと思うんですけどね。
杉浦:そうですね。だから75年なんですよね、大体。そうか。そのアンケート、どれぐらい集まったとか、そういうのご存じですか。
まろう:それはあんまり知らないですね。
集まった場所がたまたま織田さん、田部井さんの関係のリブ新宿センターっていうとこだったから、そこに集まってくるウーマンリブの闘志みたいな人たちがそこにいて、座談会に加わる人もいるとか、そういう感じじゃないかな、よく知らないけど。
杉浦:アンケートをもらったときの気持ちとか、何か、どう思ったかとかって覚えてますか。
まろう:いや、ものすごくうれしかったですね、それは。もう絶対書いて出すみたいな感じで。
杉浦:これが最初の活動っぽい動きというか。
まろう:そうですね。それがいろんな人に、いろんな活動家と言われる人たちに出会う最初ですね。
杉浦:そのアンケートに協力した人たちが集まって、『すばらしい女たち』を出そうっていう話になった。
まろう:そうなっていったんだと思います。もう座談会で思いのたけを話し合って。やっぱりそこで驚いた。
杉浦:ちょっと待ってください。『すばらしい女たち』すぐ出ますか。ちょっと待ってくださいね。
呉:一応。
杉浦:ここ(PC)には入ってて、『すばらしい女たち』は、いますね。もう出てます?
呉:ここに。
まろう:そこにある、なるほどね。
杉浦:ここ(「この雑誌を作った女たち」『すばらしい女たち』2-3ページ)には入ってないけれども座談会のところには呼ばれてて、自分の発言が入ってるとかっていうふうにおっしゃる方はいらっしゃいます。
まろう:このイラストを見ると本当にね、自分がどっかから落下してますよね、これね。やっぱり重く背負っててるもの、あったんだろうなと思いますね。
杉浦:そういう意味ですか、これ。落ちてるイラストですか。
まろう:これ、やっぱり一度は墜落したんだろうと思いますね。気持ちが。そこからのよみがえりですよね。
杉浦:『すばらしい女たち』に寄せてらっしゃる文章も、やっぱりだいぶ暗い。
まろう:暗いんですよ。暗いっていう批判されたんですよ。「レズビアン、すばらしい女たちなのに、あんたは何て暗い文章を書くんだ」って批判されて。だから、ものすごい大喜びで行って、もう思いのたけ話して、ああ良かったと思ってから、その次の展開が非常に。政治的選択レズビアンで、「レズビアンはすばらしいのであって暗いことを言ってるべきではない」とかね。「フェニミズムからのレズビアンになった」って、「男が駄目だから女、選びました」というような、まぁ単純な言い方だけど、そういうように受け取れて。
そこでものすごい激論したんですね。「あり得ない、それ、あり得ない」って。レズビアンのアクティビズムの活動としてね。自分が死ぬほど苦しんだこの世の中が、全くクィアなんか存在していないような世界で、とことん隠し通さなきゃいけない、そういう苦しさというのをまるで無視してレズビアンはすばらしいって、「男がひどいから女と付き合うほうがいい」って言われても、古代ギリシア喜劇の「女の平和」みたいで、ちょっと方針が違い過ぎるっていうかね。
自分が望んでるのは、「男が駄目だから女を選んで、それがすばらしい世界になる」という考えではなくて、まるでいないことにされていること、これをどう変えていくかという。自然に普通に親にでも友達にでも、それこそ会社にでも、普通に居られるような世の中になってほしいだけで、「男が駄目だから」っていうことじゃないんでね。そこで分裂したんですよ。で、結局、『ザ・ダイク』のグループを作ったっていうことなんですね。
杉浦:この『ザ・ダイク』のほうは、まろうさんが編集。
まろう:そうですね。まろうも編集だったし、織田さんもそうだし、田部井さんもそうだし。そこに比命ってのも入るし、あと誰がいたかな。
杉浦:一休さん。
まろう:車椅子でハンディキャップのことを書いた一休さんも入るし。
でね、『すばらしい女たち』の頃のことで政治的選択ということへの違和感とともに、もう一つ、ポリガミーでなければならないという圧力も感じたんです。もちろんワンナイトスタンドはやってたかもしれないけれども。だけど、特定のひとりの人と一緒に暮らしたいって思うときは、カップルを組むわけでね。それに対する攻撃が「カップル志向である」と。それはもう70年代は、カップルは政治的に正しくないんですね。ポリガミーこそ正しい、平等でなければいけないとかね。
それで、学芸員でバイトしてた美術館に、仕事が終わった後に待っていられて「話して帰ろう」っていうから「いいよ」って言って話して帰ると、最終的に「だからポリガミーが正しいんだから付き合おう」みたいな、こと言われて。「絶対に嫌です」って言ってね。自分が中学、高校と抱えてきた同性に対する恋愛への気持ちっていうのと、その人たちが言うシスターフッドだとか寝ようっていう話がね、ものすごく乖離してたんですよね、感覚として。「絶対にあり得ない」と思って。だからそういうこともあって、『ザ・ダイク』のグループを作ることになったの。
【まいにち大工】
杉浦:『ザ・ダイク』のほうは2号までで、1978年ですけれども。実はちょっとこの『ザ・ダイク』っていうネーミングがとても早いというか、既に「ダイク」っていう言葉、この当時あったんですか。
まろう:ありました。D、Y、K、E。その当時はね、女のパーティっていうのを、すでにやってまして。JORAよりもっと前に。最初にやったのは麻川さんが住んでる四谷のアパートメントをオープンにして、そこで始まったんですね。その後、いろんなスナック・バーだとかいろいろ場所を変えていくんだけど。そこに結構ね、海外の人も来るんですよ。アメリカの人もニュージーランドの人も。海外の『100%レズビアン』なんていうレコードがあったりとかね。そのオリビア・レコードという会社がレズビアンだけで作ってる会社なんだ、とかね。アメリカのものだったんですけれども。すごいブームじゃないけど盛り上がってるらしくて、そのときにダイクって言うんだよっていう言い方、やっぱりいろんな言い方あるじゃないですか。
杉浦:じゃ、情報がかなり来てた。
まろう:かなり入ってましたね、その当時からもう。『ザ・ダイク』っていうのは大工さんの大工、いろんなものを建てていく、それもかけ言葉で。で、新聞で『毎日新聞』とか、何か「毎日」が付いたりするじゃないですか。なので「まいにち大工」って。「まいにち大工」って大きな声で言ったって、他の人たちはまさかD、Y、K、Eだって思わないじゃないですか。普通の喫茶店で話を聞かれても変に思われない、で、そうやって名前を付けた。
杉浦:ダイクっていうと、ちょっと男っぽいレズビアンっていうようなニュアンスが入るのかなと思うんですけれども。
まろう:そうですね。まあ、ブッチダイクのときに大抵使うんですけどね。でもまいにちダイクにはそれこそ、バッチリ化粧して、フェミニンな女子服でキメてたメンバーもいたし。
杉浦:当時、男らしさとか女らしさみたいな問題も結構あったっていうふうに。
まろう:ありました、ありました。
杉浦:『現代思想』(出雲まろう・原美奈子・つづらよしこ・落合くみ子「日本のレズビアン・ムーヴメント」『現代思想』1997年5月号)のところでお話しされてたんですけれども。
まろう:そうです。それはね、『すばらしい女たち』の時、まろうが付き合っている相手がたまたま日本舞踊の名取とか、フェミニン女子ファッション大好きタイプだったりとか、化粧もしてたりとか、ハンドバック持ってたりとか。まろうのほうは、何て言うんでしょうね、でも別に男子もの着てたわけじゃなくてね。その当時のヤマモト・カンサイのカラフルなセーターとか、ジーンズに乗馬靴みたいな、このぐらいの長いエナメルのブーツはいて、ブルーフォックスの毛皮のコート羽織ったりとかね。まろうはその当時、化粧もしてたし、イヤリングも付けてたんだけど、なぜかフェムぽいほうだけが「なぜ化粧してるのか」「なぜこんなハイヒールはいてんのか」「何でひらひらしてるのか」って、必ず入りましたね、そういう一言が。あいさつみたいな。みんなもう受け流して、「好きでやってるの」って受け流してましたけど。
杉浦:「好きでやってんの」っていう感じだったんですね。着たいものを着るっていう感じ。
まろう:そうそう。「何も男のためにやってるわけじゃなくて、自分が好きで着てるんだから」って、「ほっといて」って感じで挨拶代わりに返してましたけどね。
杉浦:他方で、過剰な男らしさみたいなものを身にまとうっていうのは、かなり男装的な方とかっていうのは。
まろう:いました。特に女のパーティなんかやってJORAみたいに大きいスペースになると、なんとなく男装の人もいましたし。ただ、その時にまだ「トランス男子」というのが概念として認識されてなかったと思うんですよ。なので、「ファッションセンスが違うのかな」と思ってたんですね。それは恐らくトランスの人だったんだなと、今で言うFTM。「俺は男だ」って言ったりしていたし。でもその辺は、まだ70年代は分かれてなかった。いわゆるおなべバーのおなべの人たちもレズビアンだっていう認識だったんですよ。
杉浦:結構いろんな人たちが一緒に活動していた中で、批判の対象になってたのはそういうちょっとひらひらふわふわして。
まろう:ひらひらふわふわが批判の対象で、ブッチに分類されちゃってる人たちは、何だろうな、女子をモノのように扱うなんていう批判もありましたし。まろうもそう言われたりした。「何で?」って分からなかったですけど。たとえば「ホームパーティをやるから来て」っていうんで行ったとき、彼女が遅れて駅に着いたんですんごいスポーツカー持ってるブッチダイクが迎えに行くことになって、まろうが心配してると「あなた、自分の彼女、モノ扱いしてるでしょ」っていうようなね。いや、モノ扱いしてんじゃなくって、彼女がナンパされたらどうしよう、と心配してるだけのことを。何か訳の分かんない「モノ扱いしてる」っていう批判されたり。
杉浦:そうすると女らしくてもいけないし、何か男らしくってもいけないっていうことは、一体どういう格好してたらいいのかとか、どういう感じだったら良かったのかという。
まろう:本当に分からないですね。今思うと、そもそもファッションにね、興味ない人が言ってただけで、だったら黙ってりゃいいのにって、今なら言えるの。興味ないでしょうって。
【女のパーティ・JORA】
杉浦:ありがとうございます。それで女のパーティの話が出ましたけれども、どんな感じ、何をしていたのかとか、そういうことを。
まろう:みんな自分たちの好きな音楽を持ち寄って、音楽かけて、ちょっとしたスナックとか飲み物とか用意して、飲み物は1杯いくらってとってました。入場料もとってたかな。入場料はとってなかったかもしれない。とってたかな、JORAなんかはスペース代を払わなきゃいけないから、その分はとってて。ディスコ風に踊ったり、あと隅っこのほうで飲みながら、くちゃくちゃしゃべったり、そういう感じでしたね。
杉浦:何人ぐらい集まってたんですか。
まろう:50人集まったか、100人はいかなかったと思うんですよね。だけど多いときで50人ぐらいは集まってたのかな。30人から50人。月1でやってたからね、まあまあ。どれぐらいかな。
杉浦:50って多いですよね。
まろう:大して集まりはしなかったけれども、決して少ないわけでもなかったし、友達が友達を連れてくるっていう感じだったし。
杉浦:じゃ、この女のパーティっていうのは、ヘテロの人も来てたんですか。
まろう:友達の友達だから、ヘテロも来てた。
杉浦:じゃ、何でしょう、女だったらいいって感じで。
まろう:そうそう。もう。
杉浦:とくにヘテロは駄目ですよとかっていうことはやってなかった?
まろう:そういうことは別にやってなかったですね。それよりは、いろんな年代の人が来てて、われわれがまだ20代ぐらいのときに、50代ぐらいの人も来たりして。
杉浦:小西さんとか駒尺さんとか。
まろう:小西さんや駒尺さんも、JORA関係の人なので来たりしたこと何度かあります。だた、小西さんは「こういううるさい音楽は、なぁ」みたいな感じで。
杉浦:割とリブ系とか、フェミニストとか、そういう人たちも集まってるような場になってくる。
まろう:そうですね。だから『ザ・ダイク』と『ひかりぐるま』で、女のパーティだけじゃなくて、JORAで、講座。何ていうタイトルだったか忘れましたけど。
杉浦:『現代思想』で何か、まろうさんがお話ししてましたよね。
まろう:ええ。講座。
杉浦:連続講座。
まろう:連続講座。女子のための連続講座っていうんで、その当時社会的に活躍してた方に来ていただいて、いろんなことを1時間か2時間ぐらい話して質疑応答するという、連続講座もやったりしてたんですよ。
杉浦:まろうさんは参加者として関わってたんですか。それとも何か連続講座を主催したりとか。
まろう:これ、もう全部「まいにち大工」と「ひかりぐるま」スタッフの主催だったので。
杉浦:そうだったんですね。
まろう:全部主催でしたね、女のパーティは「ザ・ダイク」が主催してた。
杉浦:そうでしたか。
まろう:毎回、毎回、謄写版のこういうの、あるでしょう。ガリ版刷って。そういうの、毎回毎回作ってましたよ。
杉浦:何日ですっていうふうなチラシ。
まろう:いろんなところに配って、「何月何日あります」って。
杉浦:いろんなところにっていうのは。
まろう:京都の女のスペース、シャンバラなんてのにも送ってたし、二丁目のね、何て言うお店だったっけかな、あれ。あったんですよ、ウーマンリブのお店が。「ホーキ星」。そこにも置いてたし。
杉浦:『現代思想』のほうを見れば分かると思います。
まろう:それこそ喫茶店にも置いたのかしら。どうなんだろう。
杉浦:そういう感じでとにかく配れるところに配っていったんですね。
まろう:そうですね。もう知ってる限り、置けるところならもう「お願いします」で、置いて行ったって感じで。
杉浦:これ、「90年頃まで」っていうふうにこの年表(『レズビアン&バイセクシュアルのための雑誌 anise』2001年夏号に掲載された「1971-2001 年表とインタビューで振り返るコミュニティの歴史」)には書いてありますけれども、そんなに続いたんですか。
まろう:どれがですか。
杉浦:女のパーティ。
まろう:いや、そんなに続いてない。『ザ・ダイク』2号が終わって、まいにち大工が解散してからは、女のパーティは続かなかったと思います。
ただ、一回廃ったんだけれども、90年ころ、二丁目のサザエっていうところで、だれかが女子だけの月1回のパーティをやるようになりましたね。
杉浦:その方は『ザ・ダイク』のメンバーでもあったんですか。
まろう:『ザ・ダイク』のメンバーじゃなかったんですけれども、周辺に知り合いとしていて、ミーティングにも顔出してたような気もする。
杉浦:世代的には同じ。
まろう:そうですね。
【女たちの映画祭】
杉浦:あと78年ぐらいに「女たちの映画祭」が四谷公会堂であったという話ですけど、それはどういうふうに立ち上がったんですか。
まろう:これはね、こういう女のパーティとかいろんな人たち、海外の人たちが「レズビアンだけが作っている映画がある」って、「そういう映画祭がアメリカだか、カナダだかどこか、ニュージーランドかどこかではもう行われてる」っていう情報を持ってきて、日本でも見たいなって話になって。
それでいろんな映画を見たいっていう有志が集まって、結構たくさんの有志が集まったんですよ。最初はレズビアンが作ったレズビアンの映画を見たいって話だったんですけど。『ホームムービー』っていうのがあったんですよ。1973年アメリカ。フットボールするレズビアンっていう。
杉浦:フットボールスのレズビアン?
まろう:フットボールをしてるレズビアンのホームムービー。みんなでフットボールしてるの、みんなレズビアンだってそれだけのことなんですけど、タイトルが『ホームムービー』。そういうのを見たいねって話になって。
他にもどういう映画があるんだろうっていって、『猫の描き方』という、ポーラ・チャペルという人の監督の作品で、2分間だけなんですけど。それは別にセクシュアリティではなくてただ猫をどうやって描くかって、わら半紙の上に猫を置いてぐりぐり描こうとするけど(猫は動くから)なかなか描けないっていうね。クィア映画批評的にはものすごく面白いわけですね。クィアっていうのはなかなか定義できなくて、どうやったってうまくこれだっていう正解が出ない、永遠と動き続ける、変わり続けるものだっていうような定義もできるわけで、まろうはどうしても見たいと思った映画なんですけど、そういう映画とかね。
そういうのを見たいねっていうんで盛り上がっていったときに、ミーティングの場所がウーマンリブ系のカフェのホーキ星で、そこでたくさんのシスヘテロの人たちも自分たちも見たい、女性監督が作った映画も見たいっていう話に広がっていって。じゃ、もっとうんと広げて、女性監督の作った女たちの映画祭っていうのをやろうって話になって、大きくなって。
それで日本では(女性監督は)誰がいるだろうっていうんで、田中絹代の特集もやろうってなって。それで、四谷公会堂で1週間、田中絹代特集、『ホームムービー』、カナダの1978年の『声なき叫び』っていうのは、これはあれですよね、レイプ問題扱ったもの。あとデンマークの1975年の『女ならやってみな』っていうのが、これは男と女の役割、全部反対にしたらどうなるかっていう、そういう商業映画なんですよ、これもね。
そういうのをたくさん集めて1週間マチネからソワレまでやって。大盛況で。赤字になるかと思ったら大盛況になって。それのオープニングには当時、女子アナの駆け出しだった田丸美寿々がマイク持ってカメラ従えてインタビューに来たんですよね。「これもウーマンリブの流れなんでしょうか」みたいなこと言って。それこそシスヘテロの人もスタッフでいるから、そうすると「旦那さんっていうか、夫はどうおっしゃってるんですか」みたいな変な質問もきて。「あなた、これ、男だったら奥さんはどう言ってますかなんて聞かないでしょう」って反論したりするんだけど。でもそういうところはきれいにカットされて、夕方の何かのニュースにきれいにうまくつなぎ合わされて放送されたんですけどね。
だから一応話題にはなったんですよ。民法のアナウンサーがインタビューに来るぐらい。その資料が本当に消えてますよね。
杉浦:いや、何か、これ78年でいいんですか。77。
まろう:78。
杉浦:78ですよね。
まろう:ぐらいだと思うんですよね。
杉浦:そうですよね。『ザ・ダイク』に告知が出てるから78年だっていうことなんですよね。
まろう:そうだと思います。78年だったかもしれないし、微妙ですね、そこは。78年だったんじゃないかな。
杉浦:何かパンフレットみたいなもの、作ったりしましたか。
まろう:パンフレット、作ったと思うんですよね。あのね、Tシャツ作ったんですよ。とにかくチケットだけじゃ収入にならないから、女の映画祭っていうTシャツを作って、それを売ろうっていうんで、安く白いTシャツ買ってきて、シルクスクリーンで、女性がカメラを回してるっていうね。そういうのをシルクスクリーンでたくさん刷って、それを売ったりとかね。
杉浦:かっこいいですね。
まろう:だから、それはそれでまたチームができてって感じでね。もうTシャツチームって感じで頑張って最初から作って。Tシャツチーム。プロの人、撮影技師を雇うと高いから、誰かが撮影技師のところへ行って、全部覚えて帰ってきて、それをやるとかね。とにかくコスト削減。
杉浦:字幕とか。
まろう:字幕も自分たちで作ったんですよ。字幕やるところに勉強しに行って、自分たちで作ったんですよね。そういう時にどうだったのかな、どこら辺で知り合ったか、よく覚えてないんですけれども、字幕の会社があって、そこへ誰かが勉強に行ったのかな。字幕も作りました。字幕を、(上映作品全部に)字幕入れるまでできないから、(一部の作品は)フィルムとともに映写機で字幕を映写機で写す。そういうの、字幕係の手作業。
杉浦:こういったらなんですけれども、素人がやって、手作りっていう。
まろう:そうですよね。ある程度、映画上映のこと分かっているっていうのは、配給会社パンドラ社長の中野さんぐらいで。まだパンドラやる前で。
あと向後友恵さん、後にグリフィスのライフストーリー本を出版した人で、その頃は珍しかったですね、ビデオ持ってビデオ作家をやって、その人がいちばん上映(技術面の)こと、分かってたかな。
杉浦:これは何回か続いたんですか。それとも1回限りですか。
まろう:1回限りだったですね。その後、続いたっていう話は聞いたかもしれないけれども、そのとき関わってたスタッフはやってないと思います。
杉浦:何かどっかから記録がもう少し出てくると。
まろう:ねえ。これ、新聞記事にもならなかったのかな。
杉浦:ちょっと調べてみたいと思います。
まろう:どこかの民放のニュースでは絶対映像で流して、見てますから、ニュース。(あと、大事なこととして、ボランティアで託児所を設けて、託児所付き映画祭でした。)
【劇団青い鳥】
杉浦:あと、ちょっと90年代に移る前にもう一つ、70年代末から80年代中頃までの話として、「青い鳥」に関わったっていう話をお伺いしたいんですけれども、どういうふうに、最初の接点というか。
まろう:最初の接点としましては、女の映画祭のミーティングに使ってたホーキ星というカフェがあったわけですね、たしか新宿御苑の近くに。そこにチラシが置いてあったんですよ。で、なぜか観に行ったんですね。チラシが置いてあったから。
それで観に行ったら、今までの舞台や映画で見たことのない女性像というのが描かれていて、もうほんっとにびっくりして。しかも、それがウーマンリブくさくないっていうかね。説教くさくもないし、政治臭もないし、本当に楽しくて。1時間半ぐらいの作品で、3カ所ぐらい踊るシーンがあるし。
杉浦:歌って踊るんですか。
まろう:歌ったかもしれないけど、もう本格的に踊るし、そのたびに衣装も全部変えるし、娯楽作品として成立してたっていうのが驚きだったんですよ。それまで女性の権利だの、家父長制を批判するだのってことで、いくらでも表現としてはあったんだけれども、娯楽作品としてね、成立しているってことの驚き。これはもう1回見ただけじゃ、この面白さ、ちょっと分からないっていうんで、続けざまに3回ぐらい見に行って
その頃まろうは映画祭も並行していたけれども、そろそろ『ザ・ダイク』でのいろんな、何だろうな、常に批判される側だったんですね。何かね、居心地が悪かった。
どんなちっちゃいグループでも、権力誇示ですか、自分のほうが上であるっていう、何かピラミッドっていうか、そういうものが出来上がっていく。そういう関係性というのがもう嫌で嫌でしょうがなくて。しかも、性的マイノリティであるということが自分にとって全人格を表してるわけじゃなくて。もっといっぱい話したいことは山ほどあるし。山ほどあるうちの、レズビアン・ムーブメントだけでしかつながれないっていうのがね、どうしても残念で仕方なくて。自分の中でこれ以上ここにいても自分が、何だろうな、自分らしくいられるわけではないっていう、何か答えを出しちゃったっていうか。
毛沢東のちっちゃい毛沢東語録なんかで「毛沢東はこう言っている」なんて批判されたり。
杉浦:毛沢東?
まろう:そうですね。たぶんノンポリを批判されたりとかね。「何も考えてないだろう」って。確かにそうなんだけど。だからそこで学ぶこともあったけれども。自分の中で、すぱってやめようというときだったんです。それで「青い鳥」のほうでちょうど手伝ってほしいって、受付やるようになって。
杉浦:知らなかったんですけれども、女子だけの女性だけの劇団だった。
まろう:そうです。女性だけの劇団。「市堂令」っていうのが作、演出となってて、それは「一同礼」で、みんなでお辞儀するってことで、誰かが演出、誰かが作ったとか、そういうふうではありませんよということで、「市堂令」。それで即興しながら台本を作り、あと合宿しながら、今回はどういうテーマでやっていこうとかね。2泊ぐらい、2泊か3泊ぐらい。丸一日とにかくひたすら遊ぶんですよ。ただただ遊ぶ。ゲームしたりとか、ボートこいだりとか、肝試しやったりとか。1日目はとにかく遊ぶ。2日目ぐらいからちょっとアットランダムにいろんなフリートーキングして、3日目ぐらいにそろそろテーマを決めてって、どんどんまとめていくっていう、そういう合宿をやりながら、作ってたんですね。
杉浦:そこに、まろうさんはどういう関わり方っていうか。
まろう:まろうは最初は受付だけ。そこへもう少し。やっぱり役者だけだと背景の幕を変えるくらいしかできない。もっと、本格的な舞台をつくりたいというのがあって。それで、スタッフをきちんとつくろうじゃないのっていうんで、美術団って舞台美術のスタッフをつくり、広告をする制作スタッフをつくり、それでやっていこうってなったときに、美術団に入るってことになって。
最初は、まろうは絶対制作、広報のほうが向いてるって言われたんだけど、いや、もうその面白い作品の秘密がどうやってつくられるかっていうのは、常に側にいなきゃ分かるまいって思って。それだったらもう、美術団で常につくる側にいないと、広報にいたんじゃわからないと思って。だから、美術装置つくるの、結構苦手だったんだけど、それでも頑張っていたんです。(そのうちマロウはフリーのライターじゃなくてフリーのリーダーって揶揄されるくらい読書家だったんで、科学の実験シーンの台詞に、その頃読んでいた量子物理学者の本から引用したり、ミーティングのフリートーキングでも発言するようになってました。)
杉浦:美術っていうことは、何か舞台美術。
まろう:舞台美術で。
杉浦:大道具さんっていうか。
まろう:大道具。もう本当に何も知らないから、メジャーを持って公演が決まったらまずその舞台へ行って、何メートル、何メートル、仕掛けを吊るすバーが天井に何本あって、というのを全部、設計図を書いて。どういうテーマでどういうシチュエーションでやるかっていうんで、大学ノートに線を引っ張ってました。定規で線を引っ張って、何メートル掛ける何メートルって、あり得ないですよ、普通は。舞台美術の世界は何尺とかで、一尺二尺の世界なんですよ。なのに、何センチメートルなんてやって。それで全部手作りでしたね。もうあり得ないぐらい。
(ただの幕芝居を脱却するために美術団では何を作ったかというと、たとえばアパートの四畳半の部屋を極端な遠近法で作って、それが舞台上で閉じたり広がったり消えたりする、とか。四畳半そのものが動いて芝居するのが装置のコンセプト。その頃は作業場ないから稽古場の前の道路で金づちを叩いてました。別の作品では理系大に行って要らない実験道具もらって、花火を作る丸玉屋で火薬玉を購入して電池に繋いで爆発させる装置を作る、とか。劇場空間全体を客席も包み込むくらいの巨大布で覆う仕掛けの装置作って、それが森の幻想シーンにだけクラウス・ノウミの歌う「コールド・ソング」とともに舞台の奥から徐々に出現して劇場空間全体を包み込んでいくとか、また別の作品では中世の城壁を壊すシーンがあるんだけど、次のシーンではその城壁が元どおりに戻ってる。その城壁を作るのに友人の陶芸作家のアトリエに泊まり込んで一緒に作って発砲スチロールの城壁を石っぽく見せるためにシャモットという材料を只で提供してもらったり。その作品観た演劇関係の人が泣いて感激したんですよ。こんなに愛情深く丁寧に作られた舞台装置は観たことないって。まろうが最後にかかわった作品では小金井の竹林持ってる方の庭で巨大な竹を何十本も切り倒して調達して、東宝の倉庫に行って映画の「ゴジラ」で使ったジオラマを全部、借りてきて、それに電池つなげて信号を点滅させたりしてました。)
それからはものすごい人気が出て、年に3回も4回も地方公演もやるっていうぐらいのときまで、非常に低予算で、こんなお金で何がつくれるのっていうぐらいの低予算で、美術団の自分たちの知ってる限りの関係を、人脈をたどって、いろんな人たちの協力を得て、それで舞台作ってましたね。
杉浦:まろうさんが「青い鳥」に引かれた一番のところはどんなところ。
まろう:やっぱりもう女性の自己実現が常にテーマだったんだなと思うし。異性愛をテーマに一つもしてなかったって、これ、ものすごく大きかったんですよ。(映画でも舞台でも小説でも)あらゆるものが常に異性愛をテーマに表現されていて。それがね、一切なかったってのは、もう気持ち良かったです、観ていて。
杉浦:観たい。
まろう:うん。人気の秘密がね、即興が面白かったんだろうとかね、作り方が面白かったんだろうとか、根本のところはやっぱり、あんなに潔く異性愛が、ひとっつも出てこない舞台というのは、気持ち良かったんです。
杉浦:じゃ、やっぱり人気出たのは女性に人気が出たんですかね。
まろう:女子にも男子にも人気。そう、女子も人気出たけど、まず、目ざとい演劇評論家たちが食らいついてきて、すごいって言い始めて。目ざとい舞台演劇評論家たちは、シスヘテロ男子のおっさんたちだから、いわゆる美人がその頃ずらりそろってたんですね。
杉浦:役者さんがですか。
まろう:役者で。それも大きかったと思う、本当に。別にきれいなもの着てるわけでも何でもないんだけれども、素で会ったときに。当時はもう既にDCブランドが全盛の頃でね。アッシー君、メッシー君、そういう時代、そういうバブルが始まろうとしていた時代に。みんなブランドもの着て、何かちゃらちゃらやっちゃってる時代に、(体操着みたいなモノ着て)、でもかっこいいわけ、すごく。
やっぱり、(目標に向かって)何か(一生懸命に)やってる人ってかっこいいなっていう。それがきっと舞台にも反映されてたんだろうし。そのうち人気出て変節しちゃうんですけれども。
それが結局、まず演劇評論家たちがわーって、すごいぞって、誰にも教えたくないって感じで。だんだん知られるようになっちゃって、今度は芸能人みたいな人もちょこちょこ来るようになり、よその劇団の演出家たちも来るようになりで。コマーシャルも出るようになり。観客動員数も増え。
でも何て言うのかな、どんどん表舞台と舞台裏との気持ちが乖離して、一緒にやっていけなくなったんでしょうね。表舞台というのは氷山の一角なのに、それを支えていた舞台裏のある部分クィアな熱いエネルギーが氷解せざるを得ない事態へと追い払われていった、というか。
(劇団が新作を発表する度に巷の人気を得ていった特に81年から84年、その集中的な数年間における美術団などスタッフの存在については、11PMという深夜テレビ番組や『ザ・グラフィティ いま演劇の異兄弟姉妹たち』(1984 新水社)という本にも紹介されたりしましたが、残念ながら84年末の地方公演直後に「劇団は役者だけの集団である」という線引きが一方的に行なわれてしまうんですね。そのすぐ後、85年を境にして内部はグチャグチャになり、86年には演出の才能があったリーダーが出て行き、まろうも翌年やめました。劇団自体はまだあるようですが、その後の作品がつまらなくなったことは、80年代小劇場ファンならだれもが首を傾げる謎のひとつになっていて『小劇場が燃えていた』(小森収著 2005 宝島社)の106ページに詳しくレポートされています。
『虹の彼方に レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む』(出雲まろう編著 2005 パンドラ)の「あとがき」に「エポックメイキングな流行文化が生まれる創作の核心部分では、たびたびクィアな関係性が深く関与しており、しかもそれは必ず封印されてきた」と書きましたが、演劇の世界も同じで、いまも封印するしかない、というか。
青い鳥をやめた直後のまろうの傷心の様子を第三舞台主宰で演出家の鴻上尚史氏が『スワン・ソングが聴こえる場所』(1987 弓立社)という単行本のあとがきに書いているんですよ、よほど印象的だったのかな?)
杉浦:じゃ、かなり長く。
まろう:かなりいましたね。『なかよし読本』(1986)なんていう本が出まして座談会にはまだ出てる。
杉浦:ナガイシドクホンですか。
まろう:なかよし。
杉浦:なかよし。
まろう:うん。『なかよし読本』ですね。白水社ですね。
杉浦:読本。じゃ、80年代半ばってことですけども、そうすると80年代の活動(アクティビズム)にはもうほとんど関わらないで、「青い鳥」をやってたっていう。
まろう:そうですね。
杉浦:分かりました。ちょっといったん休憩しますかね。これで大体80年代が。
【若草の会】
呉:もう80年代以前、「若草の会」は。
杉浦:あ、どうですかね、若草の接点は、そうですね。
まろう:そうですね、ありました。『すばらしい女たち』の座談会に出る頃に「若草の会ってのがあるんですよ」というのを聞いて、「行ってみたい」って行ったんですよね。
鈴木道子さんともう1人、パートナーの方が横浜の関内でマンション持っていて、そこが茶話会みたいな感じで、広いリビング、リビングというかお座敷に、座る形式のこういうテーブルあるじゃないですか、それがいくつも並べてあって、そこでみんなが座って飲み物飲んだり、ポッキー食べたり、焼き鳥食べたり、おしゃべりするって感じで。ただその当時、そこに入会、入会っていうか、そこに参加するのに参加費4,000円だったんですよ。
杉浦:1回ですか。
まろう:1回。1回の参加費が4,000円で、ちょっと高いかなと思ったけど。やっぱりそこも、今度はまた自分が違和感を感じるぐらいのブッチフェムの世界だった。ある人がもう1人の人のことを「旦那さん」って言って、もう1人の人のことを「奥さん」って言ってね。そうするとまたちょっと違和感で、「何か話すこともないしな」って感じになってしまって。
だけども、「若草の会」ってやっぱりすごく重要だと思うんですよね。広告を出すのに、どんなにお金積んでも公序良俗に反するってことで広告を出してもらえなかった時代に、ポルノ漫画雑誌みたいなところとか、あるいは公衆トイレの女子トイレに「若草の会」のこれぐらいの小さいチラシを貼ったりとか広告出したりで、それで全国から結構な人数集まってきてた貴重な会だったと思うんですよ。
その後、織田さん、田部井さん、麻川さんが中心になって、この「若草の会」はボランティアだといっているのに会計報告が不明であるということで、批判をしたんでしょうね。
「若草の会」が今、なぜこんなに知られなくなっていったっていうか、歴史が切れてしまっているっていうのは、恐らく自分たち守るために、そんなことで批判されて、えらい傷ついて離れていってしまったっていうか、情報がもう入ってこなくなってしまったっていうかね。ちょっと違うなと思っても、日本で1つしかなかったものでね。
杉浦:それで残ってなくて……いや、本当になくて情報が。
まろう:そうなんですよ。
杉浦:私も見たことがなくて。
まろう:本当に鈴木さんって人は頑張ってて、あの当時70年代って状況劇場とか天井桟敷とか、ああいうテント芝居のところで、本物のドラァグクイーンを出すとか、本物のレズビアンを出すってのは、売りだったんですよ。それでその関係だと思うんですけれども、どっかの、渋谷かどっかだと思うんだけど、彼らの「状況」か「天井桟敷」か、それがどっちか記憶ないんですけど、拠点の大きな倉庫みたいなところでみんなで行って、鈴木さんが、そこの中に櫓が立ってて、お祭りやる時の、そこの上で何か訴えるっていうイベントがあったんですよ。本物のレズビアンが何か話すっていうので。
そうすると、われわれは一緒に行ったのはまろう、麻川さん、織田さん、田部井さんだったと思うんですけど、それ以外にも多分『すばらしい女たち』のメンバー、一緒に行ったと思うんですけど。他には観客といったら、とにかく見世物としてのレズビアンショーを見たいっていう、訳の分かんない演劇崩れの連中がいて、そこで鈴木さんが一生懸命「これは病気でもないし、同性が同性を好きになるっていうことで、こんなふうに差別されてるのはおかしい」って一生懸命訴えて。
それでその後、質疑応答になったときに、誰かが「どうしてそんな男みたいな格好してるんですか」とか質問して。そうすると鈴木さんが「いや、これはきちっとね、こういうきちっとした格好が好きなんですよ」とか答えて。そうすると下で見ているわれわれも、この不毛な状況をね、ほんと見ていられないっていう気持ちになって。鈴木さんが下りてきて、鈴木さん守るようにみんなで去るんだけど、モーゼの海がぱって分かれるみたいに観客層がぴゅーって分かれて出ていくっていうね。それでも鈴木さん、頑張ってたわけでね。
杉浦:ありがとうございます。ではちょっと、いったん休憩したいと思います。
【回転ドアの向こうの海】
杉浦:それでは再開しますが、休憩中に思い出したことがありまして、70年代、77年、76年ぐらいに東郷健のお芝居に出たことがあるという話についてお伺いさせてください。
まろう:ちょうどね、ダンスパーティの、女のパーティに来てた人が演劇関係の子だったんですね。金髪に宝塚のような格好して、男装してね。彼女が本当は出るはずであった芝居が東郷健を主役にした、堂本正樹が脚本を書いた『回転ドアの向こうの海』っていう舞台だったんですよ。東横劇場(だったかな?)でやりまして。なぜか、本当にやるはずだった彼女の代わりに。本物のレズビアンが舞台に立つということがコンセプトらしくて、どうしても出てくれっていうんで、何となく気楽にオッケーしちゃったんですよね。
連日満員で、すごい熱気で、あれ、一種のブームだったのかなと思うんですけれども。そもそも堂本正樹さんっていうのが、三島由紀夫がやっていたNLTだっけかな三島由紀夫がそこを脱退したあとに作った劇団が浪曼劇場って言いまして。切腹するまで、ずっと、三島作品を上演するために設立した劇団でね。そして堂本さんはそこの演出部だったと思うんですけど、ずっと演出をやられていて。切腹しちゃった後は浪曼劇場は解散しちゃって。
だけれども東郷健主演の堂本正樹脚本のこのお芝居は、ほとんどが浪曼劇場の役者だった人たちが集まって、それプラス本物のレズビアンとゲイを出すってことで。東郷健だけじゃなくて、あとは、状況劇場でドラァグクイーンの役で出てたのか、(本当かどうか)よく分かんないですけど、たぬこさんっていう人とか、あと、フランソワっていうところの何かショーをやる方とか、全員ドラァグクイーンですね。3人ぐらいプロのドラァグクイーンがいて。それで、1人だけレズビアンの役が必要っていうんで。
これ、ミュージカルで歌と踊りが入ってて大変だったんですね。1カ月間ぐらい連日連夜ものすごい練習で。本格的な芝居で。音楽担当が有名な作曲家でね、三枝成彰、その当時(最新流行の)すごいミリタリーファッションでやってきてびっくりしたんだけど。その人がピアノ弾きながら「はい、歌ってー」みたいなね。歌詞とメロディー覚えてみんなで歌って。
それで衣装はあれだったっけな、衣装メイクが、メイクは四谷シモン。
杉浦:四谷シモン。
まろう:だから四谷シモンに眉ペンシル一つで、顔を描かれて。四谷シモンのお人形みたいな感じになるんだけど、ちょっと怖い感じでこうやって描かれちゃって。そういうアンダーグラウンド文化が全盛期だったのかな、これ。もうすごい熱気でね。
まろうが出ると、友達がみんなして押し寄せてね。花をわーって投げて、そして引っ込むと、その次出てきた人がその花を踏んじゃって滑ってひっくり返るとかね。そういう結構めちゃくちゃおかしかった芝居だったんですよ。
杉浦:タイトル、覚えてますか。
まろう:『回転ドアの向こうの海』。
杉浦:おっしゃってましたね、『回転ドアの向こうの海』。それ、何カ月ぐらい。
まろう:それは1週間はやってなかったと思うんです。3日間か4日間ぐらいで、マチネとソワレあったのかな、どうだったんだろう。
杉浦:本物を出すっていうのはどういう。
まろう:本物を出すっていう売りなんですよね。東郷健が主役だから。東郷健のための舞台で。芝居のコンセプトが何だったのか、よく分からないけど、とにかく1つの船がテロリストに乗っとられて、だけど最後は沈みかけた船の中で、よく分からないけれども乱交パーティで終わるみたいな、訳の分かんない、もうほんとに訳の分かんない、娯楽作品だったんだけれども。やっぱり(ゲイやレズビアンの)本物が出るっていうのがセールスポイント、商業作品として成り立ってたのかな。
東郷健もちょうどその頃、参議院に出馬して政権放送で、とんでもない天皇制批判、「天ちゃんなんか、おかま掘ってしまえばええんや」みたいなね。もう生放送だからNHKもどうにもならないみたいな、そういうことやってた時代で。だからある種、大人気だったんですよね。
ある種ブームだったと言えばブームだったのかな、これ。自分でもよく分からないですね。ブームだったかもしれない。その芝居出たあとに、週刊誌にインタビューさせてくださいって、何かの週刊誌でインタビューに応じたことあるんですよね。本物のレズビアンとして。そうそう。
杉浦:それは顔出しっていう?
まろう:顔出しはしてなかったと思うんだけど、顔出ししたかな。ほんとはその人がやるはずだったその人のところにインタビューさせてくださいって話が来て、「まろうも一緒に行こう」っていって「いいよ」って一緒に行って。それでインタビューされたことで、割とまともなことを返答して。もうひとりのほうは背広着て三つ揃い着て、グラビアで写真撮られてお金もらえるっていう感じで(インタヴューを)受けたらしいんですね。
だけどじつはそうじゃなくて、まともなインタビューだったんで、まろうはかなり真面目に答えて。そうしたら、後で英語で、そうだ雑誌じゃなくて、英語新聞だったかもしれない。日本で発行されてる。英語で何かね、ファンレターじゃないんだけれども、感想を受け取ったことあります。あなたのインタビュー、読んで手紙書きました、みたいな。英字新聞のほうだったと思います、多分。で、背広三つ揃いでキメたもうひとりは雑誌グラビアの写真に載るかもしれないって思ってたぐらいだから。当時ね、そういえばよく写真におなべバーが取り上げられてた時代なんじゃないかなと思うんですよね。
杉浦:そうかもしれないですね。そうだ、先ほどの芝風美子さんのおなべバーのことを書いた文章も、もしかしたらあったかもしれない。結構軒数があったっていう。
まろう:うん、結構あったんじゃないかなと思いますね。行ったことないですがね、おなべバーはね。
杉浦:大事なことを思い出してくださってありがとうございました。
【二丁目の女性オンリーのバー】
杉浦:ちょっと先に進めますけれども、80年代「青い鳥」の後、活動はしてなかったけれども、例えばSunnyとかリボンヌとか、二丁目のお店には行っていたってことで。
まろう:行きましたね。
杉浦:どんな様子だったか、少し。
まろう:Sunnyは主に店長、ボスっていうか、それをやってるSunnyさんが歌が上手で、どっちかっていうとカラオケスナックみたいな感じでしたね。
杉浦:女性オンリーだった。
まろう:これね、女性オンリーってなってたけども、男性も入ってた気がします。でもそれ、Sunnyのお兄さんだったかな。もしかして。
杉浦:でも見た記憶があるんですね。
まろう:何かね、オンリーのはずとは思うけど。
杉浦:レディースバーって(年表に)書いてありますよね。
まろう:そうですよね。
杉浦:最古のレディース。
まろう:最古だと思います。結構Sunnyさんはね、二丁目のドンって言われてましたよね。
杉浦:その後、リボンヌ、マーズ・バー。
まろう:そうですね。その頃以前は、おなべバーはあるけれど、本当にレズビアン(当事者)のためのバーはないよねっていうのがね、やっぱり話題になったりして。
杉浦:じゃ、おなべバーとちゃんと差異化して、違う形態の。
まろう:そうですね、うん。リボンヌもおしゃれな感じのバーで、普通のスナックですよ。そこで飲んでカラオケやってみたいな感じでね。
面白かったのはマーズ・バーでかな。海外にも知られてるんだなと思ったのが、まだ香港返還になる前、香港からレズビアンカップルが来てね。それでマーズ・バーとかリボンヌとかで一緒になって意気投合して、最終的には彼女たちがゲイのお友達と一緒に、新宿のプリンスホテルの、まだ西武新宿の近くにあったホテルがありまして、それがもうすごい狭い部屋なんだけど、そこにみんなでもう押しかけちゃって、っていうぐらい仲良しになって。2~3日連日、二丁目で香港の人と遊んだりしましたね。その頃からいずれは香港じゃなくてアメリカに移住したいっていう話を聞いたかな。
杉浦:じゃ、結構ここでまろうさんも楽しんだ。
まろう:楽しんだ。
杉浦:リボンヌは結構続いたんでしょうかね。
まろう:続いたと思いますよ。90年代もありましたし。マーズ・バーもあったし、Sunnyもね。結構頑張ってあったと思うけど。ただ、KINS WOMYNができたときに、ちょっと経営が。
杉浦:キンズですか。
まろう:まずKinsmenというゲイ・ミックス・バーがあって、そこで働いていたタラちゃんが店長のKINS WOMYNというのが90年代にできたんですよね。それ、(年表に)載ってないね。
杉浦:キンズはありましたね。あります。(年表の)93年の1行目にありますね。
まろう:93年にKINS WOMYNですか。
杉浦:はい。「二丁目にショット形式のレディースバー『KINS WOMYN』」。
まろう:KINS WOMYN、そうですね。その前がね、Kinsmenっていうのがありまして、そこはゲイミックスで外国人と同伴でない限り日本人は入ってはならない。日本人だけでは絶対入れないのがあったんですよ。それ、90年かな。クレア(現パートナー)と会った頃だから90年かもしれない。やがてそこからKINS WOMYNがレディースオンリーバーとして独立オープンするんです。
杉浦:確かにKINS WOMYNは安いっていうか、そういうふうに言われました。
まろう:いわゆる飲み物代だけで、(カウンターで)払ってっていう感じで、ショット形式なんで。他はね、このSunnyにせよ、マーズ・バーにせよ、リボンヌにせよ、席料っていうのかな違うんですよね、支払いの仕方がね。だから、何を飲んだからいくら支払えばいいっていうふうなのがちょっと分からなくて、そうするとやっぱり飲んだ分だけ払えばいいっていうところにみんな集まっちゃう。KINS WOMYNは盛況でしたね、連日。夜明けまで満員だった。ここで知り合った友達も結構いるし、ビアン連盟はKINS WOMYNで「じゃ、やろう」って話になりましたね。
杉浦:そうですか。じゃ、話に出ましたので、ビアン連盟まで飛んでしまっても大丈夫そうでしょうか。
呉:でも、さっき90年代でウィークエンドにもいたという。
まろう:ウィークエンドですね。
杉浦:ウィークエンド。
まろう:ウィークエンドも行きましたね。埼玉県だっけ、どこだっけ、何か遠いところなんですよね。そこで泊りがけでいろんなこと、会議もやれば、お絵描きみたいなのもやればって、いろいろグループに分かれてやったりとか、講座もやったりとかで。
杉浦:じゃ、まろうさんは80年代からウィークエンドに参加。
まろう:いや、ウィークエンドは90年代に一回か二回しか行ってないです。
杉浦:分かりました。じゃ、80年代ではないということですね。
【クラブシーン】
まろう:そうですね。80年代は劇団「青い鳥」でものすごく忙しかったですから。90年代はdeepとか、ゴールドとか、あとはRINGとか、そういうとこ行って遊んでましたし。あまりウィークエンドのことは知らないです。
杉浦:deepっていうのは、これは二丁目ではなくて。
まろう:これはね、赤坂。女子だけのナイトクラブイベント、「ゴールドフィンガー」の前身の「モナリサ・ピンク」の開催場所がまだ同じ場所に決まってなかった頃の店の名前です。まず90年代は、コニーさんのパーティというのが、クラブ遊びのあいだでは、東京で一番ホットなクラブイベントで、何カ月に1回やるんですけれども、どこにも掲示されない。どこでやるか分からない。とにかく遊んでそうなクラブキッズ系をつかまえて、「今度コニーさんのパーティはどこでやるの」っていうのを聞きつけるのが、一段階。倉庫街でね、芝浦とか、佐倉とか、千葉のほうに。下町の倉庫街の一つで大々的にやってたクラブがあるんですよ。コニーさんのパーティ。そこで初めて(ゴールドフィンガーの)チガちゃんが女子だけでクラブ遊びに来そうな子たちに渡すんですね、「モナリザ・ピンク」のフライヤーを。それでそれ渡されてdeepっていうお店に行ったら、MONALISA PINKからGOLD FINGERになっていく(女子オンリーの)クラブ・イベントだった。
だから、この子たちなら遊びに来るだろうし、来てもいいって感じでフライヤーをばらまいてた、そこで。だから基本、セクシュアリティも多少交じってるけれども、むしろ夜のクラブ遊びが好きな女子向けです。
杉浦:確認なんですけど、コニーさんのパーティっていうのは、それは別にセクシュアリティとかそういうの関係なく。
まろう:関係なく。もうあらゆる。コニーさん自身がシンガポールの人だったと思うし。あらゆる人種と、あらゆるクラブ遊び好きが集まっていて、シスヘテロも大勢いれば、セクシュアリティもいろんな人が集まって来てたんじゃないかな。
杉浦:初めて聞きました。半年後に「GOLDでモナリザ」(年表)っていうんですけど、このGOLDっていうのは芝浦じゃなくて、何でしたっけ。
まろう:芝浦GOLDだったのかな。かなり大きな箱です。
杉浦:箱で。
まろう:(クラブイベントをやる空間をハコと言う)芝浦GOLDでもやってたし、渋谷のとんでもないゴージャスな空間でもやってたし。ほんとにね、バブリーな。
杉浦:91年ですもんね。
まろう:もう少しあとかもしれないけれどバブリーな空間でやったりしてましたね。ウィメンズオンリーで。それまでウィメンズオンリーでこれだけクラブ遊びをちゃんと、それだけを狙った空間っていうのはちょっとなかったんで、やっぱり楽しかったですね。
杉浦:すごい集まりました?
まろう:ものすごい集まりましたね。いつも混んでました。
杉浦:100超える。
まろう:いや、もうだって、箱自体がものすごい、結構来てたと思いますね。(平均動員数450人と聞いてます。)これもセクシュアリティはあまり関係ないんですよ。ほんとにクラブ遊びが好きっていう人が来てたし。ショーなんかもあるんだけれども、ドラァッグキングみたいなショーもやるんだけれども、ショーやる人はみんなお仕事で、よそのクラブとかイベントでプロでやってる人たちが(ちゃんとお仕事としてショーを)やってたんですね。だからちょっと質が違うんですよ、それまでの女子だけが集まってパーティやるとか、と質が違う。本格的なものだった。
だから日本で初めて本格的な(女子向け)クラブイベントっていったら、やっぱりこのモナリザ・ピンクからGOLD FINGERだろうって思いますね。しかもそこでアメリカの『OUT』という雑誌を日本語訳出版してましたから。そこにまろうは公正証書のことも書いたりしてましたから、決してただ遊びだけっていうわけではなかったんですよね。やっぱり(クラブ遊びの場とはいえ)LGBTQ+の活動には敏感だった。
杉浦:やっぱり出会いはあったんですか。
まろう:どこで?
杉浦:モナリザとか、GOLD FINGERとか、クラブのウィメンズオンリーのところで出会いが。
まろう:出会いっていうか、出会ってる人もいるだろうし、まろうがここで出会ったのはね、プロでお仕事でショーをやっている人たち(ダンサーやシンガーやパフォーマーやドラァッグクィーンのアーチストやDJやフェティッシュ系のクラブイベント主催者、いろいろ)。そういう人たちとたくさん知りあってそれはここでなければ友達になることもなかっただろうし。
RING(90年代当時もっとも人気だったゲイミックスクラブ)もそうですけれど、あらゆる人種、あらゆる階層、あらゆるセクシュアリティ、出会うはずのない階層と出会うはずのない国籍とで仲良くなっていくんですよね。友達になっていくのね。だから、ダンサーの人だったり、パフォーマーだったり、デザイナーだったり、外資系トレーダーだったり、結構ここで出会った人たち面白かったですね。
【フィルム・フェスティバル】
杉浦:あと、92年の映画祭の話もありますけれども、この辺はどうやって立ち上がったのかとか、そういう経緯、ご存じですか。
まろう:あんまり立ち上がりはね、知りません。ちょうどね、オーストラリアのパース(に1年間)行ってた頃なんですよね。だから、この辺の立ち上げのことはね、知らなかったんだけれども、帰ってきてから映画を選定するんで一緒に試写に来てくれないかとか、あるいは2回目か3回目ぐらいから賞を出すんで、作品の賞の選定に出てくれないかとか。あとは映画によっては映画終わった後にトークに出てほしいとか、そういうんで参加はしてました。
杉浦:映画祭っていうのは、何て言うんでしょうか、当時の東京のコミュニティにどういう影響を与えたっていうふうに。
まろう:これはね、大きかったと思いますね。なぜなら、まず商業主義のスポンサーがつくんですよ、「アブソルートウォッカ」っていうんだけど。多分ね、RINGにもついてたかもしれない。クラブイベントのときからまずアブソルートウォッカがつき、あと、クラブで音楽もどんどん使うから、タワーレコードがつくんですよね。大きなスポンサーとしてはその2つそしてそのうち、せっけんのお店の、何て言うんだっけ。
杉浦:LUSH?
まろう:LUSHもつくんですよ。映画祭に来た人にちょっとだけお土産配るとかね。LUSHもつき始めて。そうするとちょっと今までの、いわゆるアクティビズムっていうのとは違った雰囲気のアクティビズムが広がっていったのは確かだと思いますね。映画の力ってやっぱりすごかったんじゃないかなと。映画祭主催のクラブイベントもあったと思うし。こういう映画祭が始まって、まろうも『チャンバラ・クィーン』や『虹の彼方に レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む』などのクィア・シネマ本を執筆・編集・出版できたわけだし。
杉浦:今につながる映画祭ですよね、これ。
まろう:多分そうじゃないかなと思いますけどね。
杉浦:だいぶ育ったっていうか、すごく大規模になって。そうか。時間があれなので、少し。
【国際ビアン連盟】
呉:ビアン連盟のお話。
まろう:ビアン連盟の、行きますか。
杉浦:パースから帰ってきて、『まな板のうえの恋』(1993 JICC出版局)を出版されて、その頃にパレードが始まるんですよね、94年に。
まろう:大体ね、はい。
杉浦:そちらは出られましたか、第1回。
まろう:第1回は出てますよ。第1回で国際ビアン連盟として出たわけだから。
杉浦:ほんどだ。第1回にもう出てた。
まろう:出てたんです。その第1回パレードをやるというのを、KINS WOMYNでみんなでしゃべってて「どうする、出る?」っていう話でね。「参加する?」っていう話をしてたときに、ある友達が「絶対まろうたち、やりなよ」って言って。「まろうたちやったら、一緒に参加する?」って聞いたら、「する」って言って。「じゃ、やろうか」って。「レズビアンのグループつくろう」「もうとにかくパレードに特化したレズビアンのグループをつくろう」ということで、それでいろんな人たちに声かけて国際ビアン連盟っていうのを発足したんですね。まろうとクレアともうひとり大手出版社の人なんですけど。
杉浦:知らないですね。
まろう:その人はものすっごくレズビアン関係の情報に詳しい人で、この3人にもう一人、後々にダイクパレードを主催した人、この4人でね、どういうふうにやろうかって最初4人だけ集まって。
コンセプトはもうはっきりしてて、シドニーゲイパレードのマルディグラっていうのを実際に参加して知ってるから、他のデモのやり方も知ってるんだけれども、ああいうふうにデモだけやったんじゃ、誰も見向きもしない、絶対に人の目を集めるようにするには音楽かけて踊って、衣装も作って、もう絶対目を引くような形でやろうっていうんで、自分たちだけでもいいからマルディグラみたいにやろうってことで。それで、そのコンセプトをはっきりさせてつくったんですよ。
それで知り合いにいっぱい声かけて、どういう衣装にするかとかね。衣装はその頃、ドラァグクイーンがオーストラリア横断して山の上に登るって、あの映画何だったっけ。
杉浦:はい。後で思い出しましょう。
まろう:ああいうような、とにかく目立つ格好をしようっていうんで、それは2回目の衣装だったけどね。1回目はね、戦うレズビアンみたいな感じで、黒いプラスティックですかね。曲げられる、ぴかぴかしたもの。
杉浦:素材が。
まろう:プラスティックっていうかそのイメージで、全身黒ってことにして、こういうとんがった肩パットを作って。もちろんレインボーフラッグなんて日本にまだどこにも売ってなかったのね、レインボーフラッグは。輸入しないといけなくて。メンバーのひとりがアメリカの友達に頼んで、レインボーフラッグを、あのメンバー、何人いたかな。20人ぐらいいたのか。人数分アメリカから送ってもらって、レインボーフラッグ持って。
それで車。音楽かけなきゃいけないから、三鷹市か武蔵野市か、どっちかの市議に知り合いがいて、選挙カー、貸してくれって。音楽流さなきゃいけないし、選挙カーを貸してもらって。そして選挙カーの周りに、イラストを描いてね。その当時はやってたポップアートのリヒテンシュタイン風なアメリカン・コミックっぽい女子同士がキスして「レズビアンの友達もいないなんて」とか吹き出し入れてね、それを宣伝カーに貼って。(これは2回目だったかも)。
そして、みんな衣装着てレインボーフラッグ持ったから、自分たちの貴重品とか着替えとかね、あと、何キロも真夏にものすごい距離歩くわけだから途中で水飲まないと死ぬっていうんで人数分の水と、到着したときにおなか空いてるだろうから人数分のおにぎりまで用意して。運転する人以外に車の中にスタッフ2人入って、小道具はそのフラッグと、もう一つはピンク色に染めた扇子、それで水前寺清子の『三百六十五日のマーチ』だっけ。
杉浦:5歩か、なんぼか。
まろう:それもやることになって。それはどうしてかって言うと、若草の会会長の鈴木道子さんが水前寺清子の大ファンだったの。だから、もしかしたら聞いてくれるかなっていう意味で、かなりテイスト違うけど水前寺清子は入れましょうって、それも入れて。Pet Shop BoysのGo Westでフラッグ持ってね。
ただ歩くだけじゃなくて、ちょうど青い鳥創設メンバーのひとりで、79年か80年前後に劇団を脱退して、その後3人ユニットのダンス・パフォーマンスで活躍した人がいて、その人にお願いして何曲か振付してもらいました。そして、毎週何曜日だったかな、ラジカセ持って、それでその振付全部覚えろって言って、メンバー全員が覚えて。雨降ってる中でも、どこかの広場で稽古するわけですよ、で、「ええーっ雨が降ってるしぃ、ぬれるしぃ」ってだれかがビビると、何しろそこはまろうたちの熱意に動かされて振り付けを引き受けたんだから「じゃ、もしパレードで雨降ったら、やらないのっ!」って真剣な顔で聞かれて、「いや、やります! 雨降ってもやります!」って。振り付けだけじゃなくてビシッと気合も入れてもらいました。水前寺清子の「365歩のマーチ」では、空手の型のひとつでジャンプして片足で蹴り上げる型を取り入れたもんだから、練習し過ぎてギックリ腰になって入院しちゃったメンバーもいましたね。それで、とにかく振付あり、振付も衣装も全部そろえてね、この第1回に挑んだわけで、ものすごい準備してるわけ。
だからパレードの途中から「わー、楽しそう」って参加したわけでは決してないですよ。最初っからやるってことで決めて車も(用意して)音楽もかけるから、本当は一番前に行きたいんだけれども、第1回パレードの情報があんまり入ってこなかったんですよね。それでメンバーの1人が雇われ実行委員になったのかな。それでどこへ並ぶって話になったときに、一番前は駄目だっていう情報で、じゃ、いいですよって、一番後ろでいいですって一番後ろでやったのね。
そうしたら結局、音楽は楽しいし、みんな踊ってるしで、われわれのメンバーの後ろには、いろいろ国際的な人たちがわーってものすごい並んでて。それでみんな音楽に合わせて好きに歩いたり踊ったりしていくわけです。そうすると前のほうを歩いてたドラァグクイーンとか見物だけしていた人とかいろんな人たちが、こっちのほうが面白いっていうんで、みんなビアン連盟の宣伝カーの後ろに回っちゃったわけ、どんどん。
そして要所要所ね、もうどんだけ準備したかっていうと、まずパレードのコースを前もって試しに歩いてみたんです、暑い日にどれぐらい暑いかって。これ、水なしじゃ死ぬとかね。あと、どっかでアピールできる場所、表参道のどっかのお店の前で、そこの大きな階段駆け上がって、レズビアンゴーゴーとか叫べば目立つだろうっていうんで、要所要所ね、場所を決めていって。
最後の宮下公園だっけ、そこを入る前に陸橋があるんですよ。そこへ行ったらビアン連盟で陸橋に駆け上がって、レズビアンのアルファベット一文字ずつL・E・S・B・I・A・N、のプラカード持って、陸橋で横一列に並んで、後から大勢が行進して来るのを迎えようってやったのね。それぐらいすっごく準備してやった。
杉浦:途中参加じゃないですね。
まろう:そう。
杉浦:レインボーフラッグを紹介したのは国際ビアン連盟だったってことですよね。そうじゃなかったら他の皆さんはフラッグ準備してなかった。
まろう:あの頃はフラッグはまだそんなにたくさんは準備できなかったと思います。(ビアン連盟みたいに)メンバー全員がレインボーフラッグを用意するっていうことはむずかしかったんじゃないかな。
杉浦:それは楽しい。2回目も同じような。さっき言ってたのって『プリシラ』ですか。映画。
まろう:『プリシラ』。あの風に揺れるマントみたいなものを羽織ろうって。
杉浦:思い出しました。
まろう:『プリシラ』ですよ。2回目は「浅草サンバカーニバル」の常連出場チームに知り合いがいて、いろいろ小道具を貸してくれることになって、たしか第二回パレードの前日が「浅草サンバカーニバル」だったと思うんだけど、終わった後にそこのチームの行進用ドラムや打楽器を借りに行きましたね。
「国際ビアン連盟」って名前もすごく大事だと思うんだけど、アジアレズビアン(ALN)会議で「日本人レズビアン、立ってください」って言って大問題になったでしょう? 日本にいるレズビアンは日本人だけじゃないわけでね。それを絶対にアピールしたくて「国際」を付けたし、あと、レズビアンっていうのでも大抵は縮めて「レズ、レズ、レズ、レズ」って言ってるから、それで「ビアンがいいよね」って、「トレビアンのビアンがいいよね」ってビアンにして、それでこの名前、付けたんですね。二丁目の業界用語で「ビアン」ってのはレズビアンのこととして、もうそのとき、それから随分、業界用語として広がったんですよ。
杉浦:そういうことだったんですね。
まろう:うん。これ、長い距離を踊りながらパレードして行くって、真夏のすごい暑いときで、死ぬかと思ったんだけど。
杉浦:暑かったですね、当時は夏でしたね。
まろう:第1回パレードのあとは舞台があってパフォーマンスもやらなきゃいけなくて。まろうとクレアで「Go West」を、パレード用の振り付けとは別に二人ユニットで振付してもらってパレードの後に4分間踊りましたよ。誰も覚えてないかもしれないけど、死ぬかと思った。これ、ほんとに。
司会がエミちゃんでね。エミ・エレオノーラって人は(90年代の)クラブイベントではもう必ずドラァグクイーンと負けないような衣装の歌手なんですけど、パフォーマーで。その人が司会のときだったですね。あと、1回目だったか記憶があやふやなんだけど、いわゆるLGBTQ+当事者じゃないけれど、個人的に支援サポートする「ともだち連」というグループもありました。いわゆるアライ(Ally)ですね。それは元・青い鳥のスタッフやその周辺の友人たちが中心になって集まって、全員が浴衣着てビアン連盟のずっと後ろを歩いてくれたんです。
杉浦:この国際ビアン連盟としてパレードに出ていたのは、いつぐらいまでだったんですか。
まろう:これは2回だけでしょうね。
杉浦:だけですか。
まろう:うん。3回目に問題が起こったし。
杉浦:それで。例の「レズのくせに」。
まろう:そうですね。「レズのくせに」発言。
呉:あれは3回目。
まろう:3回目だった? 3回目か。
杉浦:96年のほうですか。
呉:そうですね。2回は。
まろう: 2回目はね、それこそ『プリシラ』の格好のような、ああいうマントをみんなでそれにしようって言って。フランス系の人が自分が全部縫って作るって言って、作ってくれて、ほんとにありがたい。人数分、マント作ってくれたんですよ。すごい。ぴかぴか光る、あれ、何だろう。安いけどあの生地、何て言うんですか。
杉浦:サテン?
まろう:サテンでね。表がブルーで裏が赤っていうので、そういうマントを作ってくれてね。2回目もやりましたね。その2回目の時も、もちろん選挙カーを用意してビアン連盟の先頭で優勝旗みたいな巨大なレインボウ・フラックを掲げて、それに続くメンバーそれぞれが音楽に合わせてサンバカーニバル用のドラムや打楽器を叩いて歩きました。あと他のグループもたくさんできていて、ビアン連盟とは別のレズビアングループで「おみこし組」もいたし、ミックスでダンスするグループもいたし、みんな張り切っていろんなことをやって2回目も参加したんですよね。
杉浦:1回目で見たんでしょうね。
まろう:うん、多分。
【公正証書の作成】
杉浦:それが2回目ですね。ちょうどこの頃に公正証書を作成したっていう話があったんですけど。
まろう:そうですね、はい。
杉浦:ちょっとその話を聞かせてください。
まろう:そうですね。これがちょうど94年のストーンウォール事件25周年を記念したニューヨークのパレードに、まろうとクレアで絶対参加したいと思って行くって決めたんですけど、「ニューヨークって怖いとこだから」って思って、「怖いもんね」っていうことで、何があっても大丈夫なように、意思表示のものを日本のね。まろうもまだ父親が生きてたし、兄もいるしで、クレアとの関係は家族にはオープンにしてなかったんで、まろうがもし意識不明みたいになったら、(父も兄も)医者だから、もうどっか連れられてしまうのは間違いないので。
なので、お互いの、特にクレアが外国人として日本で一緒に暮らしているところで何があってもある程度大丈夫なように、ということで。まずは、どうすればいいかって皆目まだ分かってなかったときに中川重徳弁護士を紹介してもらって、ちょうど中川さんがアカーの裁判に関わっていた頃で。最初は女性問題専門の角田弁護士にまず連絡したんですけど、角田さんがアメリカへ行かなきゃいけなくて、できないっていうんで、中川さんでもいいかって聞かれて。要するに男の人でもいいかって聞かれたんですね。
別にプロとしてね、こういう問題をきちんとやっている人であれば、セクシュアリティだとか性別だとか、そんなこと関係なくやってくれる人のほうがいいですって言って、それで中川さんとお話しして。
そしたら、もう中川さん、ほんっとに頼もしくてね。じゃ、心配なこと全部箇条書きにしてくださいっていって、箇条書きにして、それを渡して。そうすると法律面でどういう方法で守ることができるかっていうのを書き出してくれて、法律用語にして。そして、何を土台にしたかというと、事実婚、異性愛カップルの事実婚の人たちがやっているものを参考にして作ってくれて。それで、全部の意思決定はパートナーにありますとか、財産その他、もう全てのものはパートナーに残しますとか、あるいは自分が意識不明になったら決定権はこの人、パートナーにありますとかね。それを全部箇条書きにして。
公正証書(を作りに)に行くのに役場に行くんですよね。役場のおじさんがものすごく不審そうに聞くわけですよ。「あなた、これは騙されて誰かに強要されて言ってませんか」とかね。「いえ、違います、自分の意志です」って。それ、1個1個クリアしていって、「じゃ、オッケーです」っていうんで公正証書にしてもらった。だからね、それはもう本当に中川さん、素晴らしかったなって。これ、他の弁護士だったらそんなこと、そんな相談受け付けてくれなかったのかもなぁってね。もしかしたらアカーの裁判をやりながら、いろんな問題を担当して、それでこういう依頼に対してもこういうことができるって考えてくれたのかなと思いましたね。
杉浦:そうすると、中川弁護士にとっても、同性同士で公正証書を作るっていうのはそのときが恐らく初めてだった。
まろう:初めてだったと思います。もう初めての試みだったと思いますね。
杉浦:それを、先ほどのお話で97年に中央大学の学校祭のイベントですか。「法的視点から見たレズビアンスタディーズ」でひな形を配ったっていうことですか。
まろう:そうですね。もう本物。本物をコピーして名前のとこだけ黒くして配ったんです。そこにはもちろん法律を学んでる人たちも来てたし、誰か弁護士の、博論書いてるっていうような人も来てたし、そういう人たちにも渡しましたね。くださいって人にはみんな(全員に)、どうぞって渡して。
だから、今のようにたくさんの人が自分のパートナー守るために、この公正証書を作るっていうのが常識になることを目的にもちろん始めたわけでね。なるべくその頃から、これを作った頃から、『OUT in JAPAN』でも、雑誌の『コスモポリタン』だったかな、ファッション雑誌のインタビューにも掲載されたり、『アニース』とか『フリーネ』にも書いたり、できるだけ公正証書の宣伝をしたんですよ、文面も、オープンにして本当に文面がまるでそのまま現在、使われてますね。
杉浦:だから恐らく、まろうさんたちが作ったやつが、もう拡大再生産していく。
まろう:そう。もうだーって、みんな。
杉浦:わーっとみんなそれを使っていくんですね。
まろう:それは本当に良かったことだと思います。ただ、レガシーだとか何だとかって言ってる割にはね、レズビアンのやってきたこと、まったく無視されてるって思いますね。
杉浦:そうですね。私の記憶をたどっても、やっぱり公正証書を作るっていう選択肢があるんだって知ったのは、この中大の頃かもしれない。97年とか、それぐらいかな。
まろう:その辺りだと思います。それ以前は、まろうも公正証書って聞いたことなかった。やっぱり日本で同性パートナーの権利を守るんだったら、養子にしちゃうっていうのが一般的で。ただ、たまたまクレアは外国人だったから、養子にするっていうと国籍変えるとかね。守るのに限度がある。なので、国籍が違うっていうのはやっぱり大きかったです。
杉浦:確か、難しいんじゃないですかね。
まろう:そうそう。だからパートナーの権利を守るのに、同じ日本人だったら養子縁組でスルーできるところがなかなか外国人だと難しいとか、すごく考えましたね。
【外国籍の人たちの貢献】
まろう:あと、国際ビアン連盟の名前もそうなんだけど、日本のLGBTQ+の歴史っていうところで、本当にね、日本人だけじゃなくていろんな国の人が関わってるんでね。そういうのがまるで消されてるっていうのは、ちょっとね、やめてほしいなと思うんですよ。この公正証書なんかは、まろうだけじゃなくてクレアも一緒に中大のイベントでトークしてるわけだし。
映画祭なんかでも、原文、英語だの何だのの最初、選定するときは字幕なしで見るわけだから、映画祭のスタッフでも結構ね、外国籍のいろんな人がスタッフとして関わってるんでね。日本人だけっていう何か狭めた歴史、レガシーのつなぎ方ってのは、あんまり好きじゃないです。
杉浦:言われてみれば、70年代からリブセンに海外からの情報が来てたとか、あとはさっきお話聞いた中でもありましたよね。女のパーティにもアメリカの海外の方だとか。
まろう:はい。いろいろな国から来てました。
杉浦:あとは、ウーマンズウィークエンドも最初は割と外国人の方がかなり。
まろう:そうです。どちらかというと(ウーマンズウィークエンドは)海外の人中心にやってたかもしれない。
杉浦:ほんとに言われてみればそのとおりって。
まろう:ただ、アメリカ中心もやめてちょうだいってのがありまして。国際ビアン連盟のことをアメリカのCNNか何かが追ってニュースにしたんですよ。そのときのナレーションがね、アメリカ人が日本人を助けて、その助力があったからこれができたみたいな言い方をしてね。
杉浦:何かパレードっていう、プライド自体が向こうから来てるっていうのもあるのかもしれないですけどね。
まろう:ありますけど、アメリカ中心目線っていうのは、ちょっとね、失礼しちゃうなって思いましたね。(マーディグラは豪州シドニーのパレードだし)
杉浦:そうですね。呉さん、何か確認したいこと。
【1990年代のレズビアンとゲイの協働】
呉:パレードのほう、ちょっと確認したいんですけど、さっき3回は参加していなかったという話、3回目参加してなかったということに対して、まろうさんの認識ちょっと聞きたいんですけど。その3回目のときは「レズのくせに」みたいな、そういう話が出てきたり、私の認識の中ではゲイとレズビアンの間の、何て言うか、差異が違いが出てきたという場面だと思ってて。まろうさんは当時どう捉えているのか。これはゲイとレズビアンの確かな違いですか。それとも何て言うか、他の理解の仕方をしているんですかね。
まろう:あの事件が起こったのは3回目だったのか。とにかくビアン連盟として歩いたのは2回だけだったから、それは置いといて。(3回目パレードになぜビアン連盟は参加しなかったのか、といいますと、第3回目は「音楽ダメ、踊りダメ、露出ダメ、まっすぐ歩くように」とのお達しが実行委員会から出ていたからでした。)
まろうの理解では、この90年代中頃はいつもレズビアン・ゲイパレードという名称だったんですね。70年代から比べればの話ですが、この90年代中頃ぐらい、レズビアンとゲイが一緒にアクティビズムを協力して行った時代というのはあまりないと思います。70年代にゲイと一緒に何かアクティビズムやるなんてなかったと思う。
90年代ぐらいからやっと、恐らくHIVエイズの大変な時期もあって、(特にアメリカでは)レズビアンの助けがなければゲイのアクティビズムもなかなか難しいような面もあったりしたのではないかな。大抵はレズビアンが先に来るんですね。レズビアン・ゲイパレードとか、レズビアン・ゲイ映画祭とかね。今みたいにLGBTQプラスっていうふうになる前はね。だから、(レズビアンとゲイが)こんなに一緒にアクティビズムをやれた時代っていうのは、それまでなかなかなかったと思います。
まろうもアカーの勉強会とかよく行ったし、(たとえば)竹村和子さんがジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を翻訳出版する前の勉強会とか。その他この頃に医療関係者のゲイ・レズビアンのグループがあったんですよ。後に『性的マイノリティのための診療空間の作り方』(金芳堂)を出版された方もいたんですけど、お医者さんもいれば看護師さんもいるっていうグループで、この公正証書を作った後に呼ばれて、公正証書の説明と、医療で病院でどうしたらいいかっていう話し合いをして、そこで初めて病院の受付に「この人がパートナーで、この人が意思決定をしますっていう、そういう証明書を作ったらいいだろう」っていう話になって。それのたたき台を作ったりもしてたんですね。
それ今でも医療現場に出す人いるんじゃないかと思いますけど、それのまず最初のたたき台をこうやって作ろうっていう、こういうの作ったりとか。だから、非常にいい関係の時代だったんじゃないかなと思うんですけど。映画祭でもみんな一緒にやったり、あるいは、クラブイベントもRINGっていうのはゲイが中心だけどミックスだったりとかね。「現代思想1997年5月臨時増刊号総特集レズビアン/ゲイ・スタディーズ」も、そうした協力的な背景のなかで出版できたのではないかな。
【第3回パレード】
まろう:「レズのくせに」問題はね、何が発端かと言いますと、関西の活動グループがありまして。そこで他の性的マイノリティにもオープンであるべきだ、ゲイとレズビアンに限らずいろんな性的マイノリティがいるはずだって、第3回パレードの決議案に対する抗議っていうのが、パレードをやる前にファックスで回ってきたんです。
そして集会で、いろんなことが終わった後に、ステージに司会の男の人がいて、そして南さんがいて。それで、決議文を読み上げようとしたときに、二人が壇上に駆け上がって、決議する前に他の人にも発言する機会を与えろと、だーってマイクロフォンに向かって走っていって、発言しようとしたら、司会者だったと思いますけども「レズのくせに」って言ったのかな。何だっけ。何か差別用語。それでもみ合いになってマイクの取り合いに。
何かすごいことになって、みんな、えーっていう感じで。ちょっと何が起こったの?って。だからほとんどの人、何が起こったの?って感じで。要するに、ゲイ・レズビアンだけに限るなって言いたかったらしいの。
杉浦:実は私もあれは見てました。
まろう:見てました?
杉浦:はい。でもやっぱり何が起こってるのか、よく分からなくて。
まろう:ちょっと分からないですよね、あれはね。
杉浦:はい。遠くから見てると分かんなかったですね。
まろう:要するにマイクの取り合いでしたよね。
杉浦:何か、はい。そうなんですね。じゃ、事前に回ってたんですね。ファックスがね。
まろう:事前にファックスが回ってきたんです。
杉浦:じゃ、もうちょっと開きたいっていうようなものだったんですね。
まろう:たぶん。
杉浦:そうか。それは多分、実行委員に対してっていうことですかね。
まろう:おそらく。決議というか宣言に対してじゃないかな?と思いますね。
【キスパフォーマンス・マスコミチェック】
杉浦:あと、90年代の後半にキスパフォーマンスをやったっていうお話もあったんですけども、この辺はどういう流れでやろうって。
まろう:例えばクリスマスに表参道がきれいなデートスポットになって、みんな楽しそうにいちゃいちゃしてんのに、 LGBTQ+は(存在して)いないみたいな世界になってるから、いるんだってことを見せなきゃっていうんで、キスパフォーマンスしようっていうことで。ベルコモンズの前か何か知らないけれど、結構大勢集まっていろんな変装っていうか、仮装をして、それでもう要所、要所で同性同士でキスするってパフォーマンスをやったんです。
杉浦:最初は井の頭公園って言ってましたけど、その次にクリスマスの表参道。
まろう:どっちが先だったか覚えてないです。だから井の頭公園もデートスポットで、もう男女ばっかりでいちゃいちゃしてってことで、女子ばっかりで、カップルでボートこいで、いちゃいちゃして。確かレインボーフラッグも持ってたと思うんですけど、あんまり効果なかったですけど。
杉浦:それはどういうふうに告知したんですか。
まろう:その頃、ビアン連盟はマスコミチェックというのもやってまして、だからビアン連盟のメンバーおよび、国籍問わずLBTQ+関係で電話のつながりって何て言うんだっけ。
杉浦:ありましたよね、昔。そうですよね。次はこの人で、この人はこの人に連絡網みたいな。
まろう:連絡網っていうのがあったんです。テレビでゲイ差別だとかレズビアン差別だとか、本当にひどいもの、いっぱいやられてたんで、それが出るたびに電話連絡網で放送局に抗議をするっていう、それもやってたんです。「こんなことやるなんて、あなた方、どういう心づもりなんですか」って、「いい加減、もうこんなものは見ませんよ」っていうような抗議を延々、結構やってて。
杉浦:そのマスコミチェックの話は初めて聞きましたけれども。
まろう:そうですね、あんまり知られてないですね、ビアン連盟のマスコミチェック活動は。
杉浦:電話してどういう対応だったんですか、向こうのテレビ局とかは。
まろう:はあ、そうですか、はあ、そうですかってただ聞くだけで、何か答えるってことはあんまりしなかったですね。ああ、そうですか、はいはい、ああ、そうですかっていう感じで。あれ、録音されてるのかしら。どうなんだろう。あんまりいわゆる反論するようなことはしないんですよ。クレーム係っていうのがいるんじゃないのかな。何でも。それでもう、ああ、そうですか、はいはい。だから言いたいこと言って、ガチャンって切るって感じ。
杉浦:ニュースとかですか、ドラマとか? いろんな。
まろう:大抵はバラエティ番組なんじゃないかな。ドラマではないですね。ニュースでもないと思う。大抵バラエティ番組で、そりゃないでしょうっていうようなことが結構あった気がするんですよね。笑いものにしたりとか。
杉浦:そうだ。「保毛尾田保毛男」とかもこの時期、90年代。あと、90年代の話で(時間的に)精一杯と思うんですけれども、90年代で他に何か抜けている話があれば。GOLD FINGERもよく行ってたとおっしゃってましたけれども。
まろう:ええ。GOLD FINGERもよく行ってましたね。そう。
杉浦:何かレズビアンのこういう、何て言うんでしょうか、ムーブメントってやっぱり90年代ぐらいまでですかね。
まろう:というと?
杉浦:何か2000年代以降は。
まろう:あまりないですか?。
杉浦:LOUDがあって、ですけど90年代の終わりに『LABRYS DASH』も出て終わり、そうか、でも『アニース』は2000年代ですよね。
呉:2003年まで。
杉浦:まで。その後……
まろう:2003年。そうですね、2000年。そうね、まろうも映画研究のほうに入っちゃって、あんまり自分はアクティビズムには向いてないと、それは70年代にも思ったことで。『現代思想』で自分の知ってること語って、もうこれで距離を置きたいって思ってましたから。
杉浦:じゃ、97年ですよね。
まろう:そうそう。もうこれが自分の、自分が知ってること、これは活字にして残しといて、あとはどうぞみたいな感じで。もうあとはこの公正証書の情報を広めるっていうこと以外は、あんまりアクティビズムは、もういいって感じでね。
杉浦:映画のクィア・リーディングのほうに行かれる。
まろう:そうです。『チャンバラ・クイーン』(2002)や『虹の彼方に レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む』(2005)の執筆や編集に集中してました。この時代も公正証書、どんなに広めようとしてもあんまり今ほど「ああ、それ、いいから作る」っていう人、いなかったです。どうしてだろうと思うんだけど。
杉浦:どうでしょう。まだカップルで長期にわたって生活を続けるっていうようなライフスタイルが、そこまで実現可能って思われてなかった可能性も。
まろう:そういうことでしょうかね。
杉浦:どうでしょうか。
【いまの日本の状況について】
まろう:まぁ、今はね、オリンピックが決まった時点で政府、電通でトップダウンでプライドハウスが出てきて、もう随分変わったと思いますね。(政府、電通がらみの)トップダウンでない限り、(LGBTQ+の存在を)やっぱりなかなか一般的なこととして知られるっていうのは難しいかなと思います。
杉浦:まろうさん、今の日本の活動を見て、どういう感想をお持ちですか。
まろう:メルボルンからこうやって戻ってくるたびに、「ああ、そうか、こんな番組もできたんだ」とかね。かなり変わりましたね、やっぱり昔と比べるとね。90年代と比べても変わったし、2000年代、2010年、その頃と比べても変わって、あれはやっぱりオリンピック境目に電通が関わったことでこんなに変わった、変わることができたんだなって。
とてもいい面と、オリンピック開催にはそもそも反対でしたけれども、それでもその勢いに乗ってLGBTQ+の権利が確立されていけばヨシとしようと思ってたのに、なんだか「理解増進法」ですか、そんな愚かな法案を決められてしまって、この始末、どうするの?って思いますね。けっきょく、マイノリティの存在は一般に知られるようになったかもしれないけれど、権利獲得の闘いは百歩も千歩も遠退いた気がします。
たとえば相続の問題でも遺言書も含めた公正証書を作成しておけば少なくとも裁判にすら出られないなんてことにはならないはずなのに。どうも最近のLGBTQ+権利活動の動きを見ていると市や区の発行するパートナーシップ証明書さえあれば大丈夫と勘違いしている人が多いのではないかな、と危惧しますけど。最近、調べて驚いたんですけど東京都のパートナーシップ証明書って別に公正証書を作成してなくてもパートナー証明の交付はされるんですよ。で、東京都のパートナー証明交付の説明には「法的効力はない」ってちゃんと明記されてる。区によっては公正証書を必須書類とするところもあるだろうと期待しますが、ほとんどのパートナーシップ証明書ってじつは何の法的効力も持ってないんですよね。
あと、レガシーという面でいうといろんな人がね、知られないながらもやってきたことが、誰もつないでいっていないっていうね。確信犯的に繰り返される忘却の一方で、問題含みの人物が何度も持ち上げられてだれもが忖度している、という状況とか、とても日本的な闇というか残念に思うこと、ありますね。
その一方で、いろんな各地で裁判起こしてね、憲法24条に反するっていうの、今、福岡と名古屋とどっかで一審判決出ましたよね。ああいうことをもっともっと推進していければいいと思います。
【まいにち大工アピール文・『すばらしい女たち』の印刷】
杉浦:ありがとうございます。時間的にあと、もうちょっとって感じですけれども、まろうさん、何かそちらのメモにいろいろと書いてきてくださったんですよね。
まろう:メモはね、何だろう。
杉浦:何か落ちてる重要なイベントとか、もしありましたら。
まろう:落ちてる重要な。
杉浦:呉さんのほうは大丈夫ですか。
呉:そうですね。ほぼ大丈夫です。
まろう:あとは、『ザ・ダイク』にアピール文が載ってますけれども、ウーマン・リブ活動の中でのレズビアンの認識の仕方っていうのがね、ちょっとこの日本では非常に問題だなと思うことはよくありましたね。1978年の1月28日に「政治を変える女たちの会」っていうね、フェミニストの会があって、そのときに「レズビアンはここにいるんである」っていうアピール文を、宣言文を出したことはあるんですけど、その宣言文を受け取って、じゃ、リブたちが何か考えたかっていうと、あまりそういう、何だろう。
杉浦:反応は。
まろう:反応はなかったなっていうのがありますね。
杉浦:それ、レズビアン宣言っていうふうにおっしゃってたやつですよね。
まろう:レズビアン宣言だったと思うんですけどね、われわれはここにいるっていう。
杉浦:われわれはここにいる。
まろう:っていうような、レズビアン宣言だったんじゃないかなと思うんですけどね。
杉浦:じゃ、そういういろんなところに行って、われわれはここにいるっていう宣言をして回っていたってことですね。
まろう:そうですね。でも結構、無視されてたり。
呉:レズビアン宣言の……
まろう:レズビアン宣言ですね。
杉浦:これか。これは……
まろう:これは訳文ですね、これは。
杉浦:これは。
まろう:ラディカルレズビアンの訳文です。
杉浦:アピール文ですよね。
まろう:アピール文ですね。
杉浦:どっかで見ましたね。あれは『ザ・ダイク』。
まろう:『ザ・ダイク』に載ってると思います。多分アピール文。
杉浦:「まいにち大工」がやったんですよね。そういう点ではほんとに『すばらしい女たち』よりも『ザ・ダイク』のほうが割と表に出てって、いろんなところに働きかけをするっていうことをしてた。
まろう:そういうことになるのかな。『すばらしい女たち』は、1号作って解散でしたからね。あの座談会やった後に、1号だけ作って。それを持ってどこに置くかっていうんで、全国の普通の本屋は置いてくれないですから、全国の左翼系の書店に置いてもらったり、あるいは京都のシャンバラっていうところにも置いてもらったり、カフェとかね。自費で地方に回って置いてもらいに行ったりしましたね。
新宿の何とか書店っていう名前忘れましたけどね、今はもうないんですけど、実は過激派が時限爆弾の作り方を載せた『腹腹時計』っていうのを置いてあったっていう、そういう書店とかにも置かせてもらって、その書店の斜め前の角で常に私服警官が見張ってましたね。
『すばらしい女たち』ができて、とにかくどっかに保管しておかなきゃいけないんで、車のトランクに入れて運ぼうとするんだけど、信号ごとに警官が停めるんですよ。リブセン出入りの車とナンバーが知られていて、過激派とつながっているやつだってことで、信号ごとに停められちゃって。われわれ一緒に乗ってたんだけど、タクシー止めて刷り上がったばかりの「すばらしい女たち」の小包を何個もトランクに詰め替えて、逃げましたね。ほんとにね、その時代には公序良俗に反する印刷物ですから、警官の心証を悪くして捕まる可能性だってないわけじゃなかったし。
『すばらしい女たち』の印刷自体が普通の印刷所じゃやってくれないんで、極左翼系のアンダーグラウンドの印刷所がありまして。
杉浦:リブセンでやったんですね。あれはリブセンですね。
まろう:そのリブセンの関係で、アンダーグラウンドの印刷所があって、そこで印刷したっていうね。
杉浦:何部ぐらい刷ってたんですかね。
まろう:何部ぐらい刷ったんでしょうね。
杉浦:はけたんですかね。
まろう:一応はけましたね。とにかくいろんなところへ持ってって。
杉浦:だってカラー刷りですよね、一部。何か表紙。
まろう:そうですね、カラーですね。あそこ。
杉浦:カラーついてました。何かいろんなところとつながっていたっていう。
まろう:仕方がないからそこの印刷所でやったんですけれども、決してそこの印刷所とレズビアンのグループが友好関係であったっていうことではなくて、最初のうちはあんまり友好的でもなかったんですよ、実は。
杉浦:最後に面白い話が出てきたところで終わりたいと思います。じゃ、こんなところで。ありがとうございました。
呉:ありがとうございました。
まろう:はい、どうも。
杉浦:失礼します。